<日本半導体の歴史 【Part2】> 

〜後世に語り継がれる”日米半導体摩擦”〜

 

 

※前回の【Part1】からの続編となります。

 

 

 

 

 

 

 

 

日本の半導体に暗雲が立ち込めるきっかけとなった出来事は、1973年に起こったオイルショック(石油危機)だ。

オイルショックによる不況からの回復過程において、日米両国のメーカーはメモリを中心にしのぎを削ることとなる。

 

米SIA(半導体工業会)CEOのジョン・ニューファー氏

(引用:朝日新聞デジタル)

 

 

つい数十年前までは戦後の敗戦ムードに陥っていた国が、突如として米国に並ぶほどの半導体国家になりつつあることに危機感を覚えた米国側は1977年にSIA米半導体工業会)を設立する。

 

そのSIAは1976年から日本で始まった超LSIプロジェクト(※)を非難対象にし、『日本株式会社と同じだ。とんでもない』的なことを指摘しており、この頃からご立腹な様子であった。

 

※超LSIプロジェクト

1976年にコンピュータ企業5社(富士通、日立、三菱、日本電気、東芝)と当時の通産省が合計700億円を拠出して発足された超LSI共同研究所が主導したプロジェクト

半導体の国家プロジェクトとして世界初のプロジェクトである

 

 

 

1971年〜1996年の半導体メーカー売上高ランキング

引用:ビジネス+IT

 

 

しかし、そんなことは気にも留めず、日本勢は1970年代半ば〜1980年にかけて日本はメモリシェアを拡大していき、1981年にはDRAM(64キロビット)の世界シェアにて、約70%のシェア(日立、富士通、日本電気などを中心とした日本勢)を獲得するほどにまで至った。(米国勢は約30%のシェア)

 

 

1985年、DRAMの需給バランスの崩れから価格の大暴落が起こり、世界中のDRAMメーカーが窮地に陥り、あのインテルでさえもこの時期にDRAM事業から撤退するほどの不況だった。

そんな中、日本勢はどんどん成長していき、1986年にはとうとう日本は米国のシェアを逆転した。

 

 

そんな状況を鑑みた米国は、動きに出る。

SIA(米半導体工業会)は、通商法301条(別名:スーパー301条)に基づいてUSTR(米通商代表部)に日本製品をダンピング(不当なほどの安い価格でサービスを提供すること)容疑で提訴し、さらにDRAMメーカーのマイクロンも商務省に日本の64キロDRAMをダンピング容疑で提訴した。

 

日本半導体シェアの推移

引用:TBS NEWS DIG

 

 

相次ぐ訴訟により、日米両政府の1年間にも及ぶ協議の末、1986年9月、日米半導体協定が締結された。その中身を下記にお伝えしていく。ポイントは主に2点だ。

 

 

シェア・モニタリング制度

・日本市場において、海外製品シェアを20%以上にすること(当時は10%未満)

・日本政府は四半期ごとに海外製品シェアを監視すること

 

FMV制度(FMV:Fair Market Value)

・日本企業は与えられたFMV(公正市場価格:日本の各企業は四半期ごとにコストデータを政府に提供し、それを基に米政府は各企業に販売の最低価格を通知する)を下回る価格で販売できない

 

 

これだけでは終わらない。

半年後の1987年3月、米国は通商法301条に基づく制裁を行うことを発表し、徹底的に日本は痛め付けられることとなった。(制裁対象は、パソコン、カラーテレビ、電動工具)

 

 

10年後の1996年に日米半導体協定は終了する訳だが、1986年にはシェアが約8%だった海外製品の内訳が1996年には約28%と3倍以上になり、DRAMシェアについても、協定締結前年の1985年には日本勢で約80%を誇っていたが、協定終了時の1996年には約40%と半分以下にまで落ち込む結果となった。

 

 

これが日米半導体摩擦が起こった背景であり、その後の日本半導体産業の衰退を引き起こした最大の要因でもある日米半導体協定の中身とその効果である。