ソ連軍の千島侵攻

1945年(昭和20年)8月8日ソ連はクレムリンに佐藤駐ソ大使を呼び、8月9日から日本と戦争状態になることを通告し、宣戦布告しました。一方的に力の弱った日本に戦争を仕掛け領土の拡大を狙ったものです

 

 



 

千島列島の戦闘行為は8月15日以降も継続し、日本固有の領土であった歯舞・色丹・国後・択促の4島を占領した。9月3日までに満州・樺太・千島列島・北方4島全域を制圧した。

スターリンの計画では北海道を半分とりたかったようです
 


「終戦の日」の2日後、昭和20年8月17日の深夜、日本の領土で始まった戦いが存在したことについては、知る人が少ないように思えます。日本領千島列島の北東端・占守島(しゅむしゅとう)に不法侵攻してきたソ連軍に対し、日本軍が祖国を守るべく戦った「占守島の戦い」です。

武装解除を進めていた兵士たちは夜間の攻撃を受け一刻を争う中、懸命に出撃準備を進めました。



そして戦車第11連隊は18日午前5時30分に出撃し、ソ連軍を次々と撃破。
「精鋭・士魂部隊」の名に恥じぬ奮闘を続け、戦局を逆転させるのです。
 


この島の日本軍守備隊は8,000人以上の兵士と77両の戦車で構成されていました。
そして奮戦ソ連軍にかなりの損害を与えました。
ソ連軍の死傷者は日本守備隊の被害よりも多かったのです。
戦後、ソ連はこの島と千島列島の他の地域を併合しました。

 

 

この戦いでソ連の上陸部隊をを殲滅寸前まで海岸に追い詰めただけでなく、敵を「一週間にわたり」、島に釘づけにしました。
この「一週間」が、北海道をとられなかった理由とされています。

ソ連軍が占守島に釘づけにされている間に、米軍が、北海道進駐を完了させたのです。その結果、米軍の北海道進駐によって、北海道は、ソ連軍の侵攻を免れた。そのために、ドイツや朝鮮半島のように、北海道が米ソによる分割統治になるという事態も避けられました。 両軍の損害、ソ連側の数値によれば、日本軍の死傷者1000名、ソ連軍の死傷者1567名。
 
今も島に残る戦戦車十一聯隊の戦車「十一」を「士」と書き「士魂部隊」として有名です 士魂の精神は現在の陸上自衛隊第十一戦車隊にも受け継げられている。

砲塔には「士魂」の二文字がマーキングされている

昭和20年8月、北方の島々で何が起きたのか。沖縄戦や満州の混乱などと比べて戦後あまりにも伝えられてきませんでした。
「忘れられた戦場」の事実を知り、将兵たちの姿を「史実」として語り継ぐことは大切だと思います。