授業中は、机に突っ伏して寝るか、ノート、教科書、プリントに落書きをしているかが殆どでした。たまに、授業とは関係ない科目の、問題集を開いて、授業そっちのけに自習をしていたこともありました。また、当時仲良くしていた子が、席も近く、何かと私に構ってくれて、漫画を貸してくれるので、授業中に読むことになったこともありました。一冊読み終わっては、次はこれねと、新しい一冊を渡され、流し読みして、おもしろいと伝えました。それでも、授業態度で怒られることはないどころか、品行方正、学業優秀で学年一位の成績を得て、首席で高校を卒業しました。当時は携帯電話の校内の使用が校則により禁じられていましたが、私のスマホが授業中に鳴って、先生がこっちを睨みつけ、教室がシーンと気まずい空気になり、さすがの私もこれはヤバいと焦った途端、クラスの周りの子が、何も鳴ってないとか、今のは気のせいだとか、一致団結して私を庇ってくれました。一回も話した事のないクラスメイトまで必死に庇ってくれたので私もみんなの優しさに感謝が溢れました。中学生だった私は、そうして思いやりの心とか、人と生きる術を学んだ面もあります。そうして先生は、私が授業中にスマホをいじっていたとしても、テストで非の打ち所がない点数を取ると知ってたこともあってか、何事もなく授業を続ける方向に転がりました。

 学年一位の成績だったので、進路選択の時期は指定校推薦の大学を自由に選べました。成績順にキープできるからです。とはいえ、私の高校は、世間の高校と比べて学力レベルが決して上の方ではありませんでしたので、指定校推薦のリストに、名門と呼ばれる大学名は並びませんでした。まあ、それでも受験をパスしてそこそこの大学に行けるのでとても良い制度と思われました。学年一位の称号を持つ私を他の同級生から羨ましがられたりもしました。しかし、過ちはこういう時に犯されるのです。当時バレー部に所属していたのですが、高校はなかなかの名門で、部活動が活発でした。しかし、部活動の個人的なパフォーマンスがうまくいかなくなり、行き詰まって、そして高校3年生へ進学する時、ついに、受験を言い訳に、逃げるように、休部を選択しました。そして、私は謎のプライドと部活動のメンバーに対する意地とか、気持ち悪い頑固さで、指定校推薦を捨てて、敢えて受験することにしました。受験、というものが何かも知らずに、受験しますと言い出したので、担任の先生も周りの友だちも、部活のメンバーも驚きました。今思えば、あれは受験という名の、バレーからの逃げ、ただ、それきりのことでした。そんな心意気で挑んだ受験もうまくいくはずなく、むしろ自分には行きたい大学も学部も分かりませんでしたので、どこの大学を受けるのかについて、高校3年生の12月後半になっても決まっていませんでした。結局、燃え尽きたように2月を迎え、もう年明けには勉強という勉強はしていなかったのですが、自分はそれなりにできる方でしたので、なんとか合格通知のきた大学ふたつから、家から近い方を選び、何の方向性もなく、無目的で、あてもなくその大学に通い始めました。

 大学の4年間を過去にした今、思えば、通った大学よりも指定校推薦で行けたはずの大学の方がよかった気がします。もしもの話、たらればの話をしても意味がないとか、それがあるから今があると言っても、自分にはやっぱりどうしても素直に指定校推薦をもらっておけば良かったと思われます。高校生の未熟な自分は、適当な判断ができず、頑固で変なプライドを持っていたこと(それは今も変わっていないのかもしれません)が、良くないなと思いました。大人たちは、もし大人たちが正しいのであれば、必死になってでも、受験しますと捻れた私の野心を止めて欲しかったなと思います。当時の私はとにかくもう部活に、人間関係に、いっぱいいっぱい。よくしてくれる大人たちは何人もいたけれど、誰一人、強い口調でこうしろ、って言ってくれる人はいませんでした。

 もう一年留年するかとも聞かれましたが、そんな余力もなく大学を決めたので、今こうしてフリーターのようにただ呼吸を繰り返しているのは、その時の反動なのかもしれません。そんな事を考えた日曜日でした。

 ソファの上に座るのでなく、ソファの側面に背中をもたれ、地面に小さくなって座って、本を読んでいました。ルドルフシュタイナーの秘教講義の本。そしたら、膝を折り曲げて丸まった姿勢のまま、気づいたら1時間寝てしまっていました。目を覚まして、やらかしたと思いました。のんびりしていても、のんびりしきれない、なんかもっと今、今を大切にして、生きていきたいなって、今日はちょっと肌寒かったです。