誇りと不文律 | キャンプ協会なにしてる

キャンプ協会なにしてる

東京都キャンプ協会の理事の一人が勝手に書いているブログです。キャンプのためになる可能性があります。

キャンプという、とても自由であるがゆえに慎重さと丁寧さが大切にされるものを、私は取り扱っている。
義理と人情と仁義は、誰もが備えておかねばならない。
それを欠いたら急に、人をかっかりさせるし、何より自分ががっかりする羽目になる。
そんなことにならないように発動するのを、誇り、という。

キャンプを扱う協会も当然、義理と人情と筋目で運営される。
不文律といわれる、大切な掟だ。
時代遅れなのではない。そう思う人がが退化しているだけだ。
あたりまえを理解できないくらいに退化していることに気づくべきだ。
見えるところだけ親切そうにふるまうのに、見えないところできたねえことが平気で行われるのが社会なら、私はそこに居るつもりはない。
また、まさかキャンプの協会がそうなってはならない。
ルールや経営を持ちだす前に、掟を守れているか、誇りを保っているかをチェックするあるいは自然い感じ続けることを協会運営という。

おそらく、ではあるが、みんなが望む社会は、キャンプのような社会ではないか。
キャンプを守るには、不文律また掟を大切にする以外に方法はない。
キャンプは、社会であり、しかも理想的でなければならない。
そうでないなら、それはもうキャンプではないし、キャンプ協会がそうあってはならない。

協会運営にたずさわる私は、誇りにかけてモノゴトをやる以外に方法を知らぬ不器用なだけの、なにか欠格している運営者かもしれないが、まっとうさを手放すつもりはない。
自由であるがゆえに慎重で丁寧に扱うべきキャンプというものを掴んでいる以上、その誇りを捨て去るわけにはいかない。

誇りもなく、義理も人情もないなら、それはもうキャンプを扱う力が足りていないか、キャンプを知らないことに気づかぬほど未熟なのに知ったかぶっているだけではないか。

キャンプとつながることができない分野また人はない。
だから、人間が人間と付き合う時に最低限必要な物だけが浮き彫りになり、苦労して切ない思いをしてもそれを守ろうとする。

最後の最後、仲間であるなら焚火とくいもんだけあれば何でもできるのがキャンプだ。
人がいて、そこをなるべく快適にするのがキャンプで、そうなるように言動するのがその指導者であり、協会や団体の経営者また運営者だろう。
そこに居る仲間はとても大切なものだ。

そうした仲間を手放すなら覚悟が必要で
そうした仲間が離れるなら感謝を忘れまい。
誰もが望み、仲間も望んだ社会つまりキャンプをつくるのが私たちの大切な仕事だと、もう擦り切れるほど正したよれよれの襟でも、襟があるうちは何度でも正していくことを約束したい。

誇りを胸に夏に入れます。

ありがとうございます