9月セッション キャンプは映画のように | キャンプ協会なにしてる

キャンプ協会なにしてる

東京都キャンプ協会の理事の一人が勝手に書いているブログです。キャンプのためになる可能性があります。

東京キャンピングセミナー11-12-image.jpg

東京キャンピングセミナー11-12-image.jpg


キャンプは映画のように
とかなんとかいっちゃって
何やら格好よく手招きしてますTCS運営部長です。

写真は最高の映画と
初めてデイトで観た映画です。


ただの売れてる映画好きが言うことなので
映画のようにさんざん投資してしっかり売ろうっていう
そういう話もいいねえ。

欲しい画、というのがキャンプにあるでしょう。
まさかそれ無くてキャンプやってんだったら
ただのあてずっぽうのコンチキキャンプです。


ウチんとこは長年
自然は舞台である
と言っておる。
舞台をないがしろにするようでは
ロクなキャンプはできない。

あるいは
道場
と言ってもいいか。
畳を踏む前に一礼して入る。

アメリカンな風体のキャンプだと
自然は当然対峙するもの、克服するもの、
そこに神はいない。
だってやたら神様がいては宗教上マズい。
いつか話したが
だから
センスオブワン○ーみたいなあったか本では
人間を超えたもの とか 未知の力 みたいな
表現になる。
その表現は、無神論者や無宗教をてらう我が国の
若者に大ウケだ。

ちょっと待てよっと。
自然には石ころひとつを神に見立てて拝むような
文化があったろっての。

神がいるから大事にする、と言う当然の想念は
環境教育とか引っ張り出さなくても自然に我が国の
文化の中にあったのに、それに気づかせてもあげずに
センスオブってるわけだ。

こういうこと書くとまたもや嫌われると思うけど
センスオブってないで、神道のことを少し学べ。
世界遺産になってうれしいのは儲かるからだろ。
俺は反対だったね。
富士山は、俺にとっては登ってあったかい記録を
残すネタではなく、遠くから畏み(かしこ-み)
拝ませていただくものだ。
それを押し付けるつもりは毛頭ないが
何も考えずに私欲で登っててきとうに拝むのは
ちょっとだけ恥ずかしいことで、畏む態度に
大いに欠けた行動ではないか。
まさか、チェックインとかいってきゃぴってん
だろうなあ。
アホクサ。

環境教育という理念も最近のもので、環境を取り
分けて考えるからなんだかちぐはぐになる。
この事実に気づく指導者はごく少ない。
我が国は、環境という概念は無かった。
生きるも死ぬも草木も石もいっしょのもので
まろやかに一つのものになっていた。
環境を取り分ける理由がなかったのだ。

もちろんその文化の良くないところもあった。
水に流す=川に流す、と言う意味で、
嫌なことやきたねえものは水=川に流してきた。
汚染の始まりだった。


自然と言う概念があったかどうかさえどうもあやしい。
自ずと然としたもの、を略した言葉か。どうか。

自然は舞台と言った時、自然の中には自分を含んでおり、
自分を含む世界自体を指している、と思ってる。
舞台、道場を大切にする文化はないがしろにする文化と
表裏一体でとても多くの矛盾をはらみつつ歩んできた。

たとえば

という言葉。
これも昔っからあるのもかどうかわからないと俺は思ってる。
森と林の別はわかりやしないし
広さもはっきりしない。
しかし、昔から「山」はあった。
山と言うのは、小さな茂みも動物も高い木々も含んで
山なのだ。


とかなんとか偉そうに言っといて
映画のようなキャンプ では

ただ映画見て終わったりしてね。

はっはー
すみませんか