ファイナルセッション 涙で終わる | キャンプ協会なにしてる

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東京都キャンプ協会の理事の一人が勝手に書いているブログです。キャンプのためになる可能性があります。

TCS2012のファイナルセッションを終えました。

春なのにお別れですか。

群馬帝国の国民も増え、武蔵の人も増え、
又八的なドロヌマで終えました。

キャンプを日常になぞらえるために
時間きっちりがんばりましたが
いかがなものでしょうか。

キャンプには最低限必要なものがたった二つあります。
1、人間
2、場所
これが揃えばどこででもキャンプができます。
この事実を、なぜか人々は教わらない。

キャプに必要なのは
モクテキです!
とか
ミッションです!
とか
オモイです!
とかへっちゃらで言うが、そんなものはいらない。
邪魔だけど見てくれが良いから置いてある
誰もいきさつを知らないカケジクのようなものでしかない。
百歩譲って、トイレのあいだ○つをのカレンダーくらいか。
ま、そんなもんです。

もちろんこれは、参加するこどもの都合から言ったことで
制作するオトナの都合には合いません。大人の都合だけ考えれば
目的、目標、使命、は必要です。カネが欲しいからです。
カネを手に入れるためには、うまいことみせなきゃなりません。
そこで飾られるのがカケジクであり、カレンダーでございます。

こどもがキャンプの目的を理解して
「ボクは目的目指してガンバリマス!」とか言ったとしたら
嘘つきか、陶酔させているか、まあどっちかだろ。

自分の修学旅行を思い出してください。
栞に書いてある目的を果たそうと頑張った子ー!てあげ!
しーん。あくまでもしーーん。
そう、そんなの気にしちゃいない。
気にするのは、どこに行くかではなく、仲間とどんなワルサ
するかですから。女子の部屋にいかにして忍び込むかですから。
で、某有名体育大学出のセンセーが酔っ払いながら廊下に
座らせてくれるのがこれまたお決まりの楽しみ!
しおりにかいてある目的なんて誰も気にしちゃいない。
だって目的果たすためだとしたら
木刀や手裏剣や十手をみやげに買うか?

大人の都合で考えるからキャンプはつまらなくなるし
大自然で行うべきというまやかしに陶酔するようになる。
こどもにとっては
大自然なんてどうでもいい。
あ、ごめんな、大自然ウリにしているひと!ごめん!
ていうかそもそもどうなりゃ大自然なんだろね!
これ答えられる人いないんだよ!ほんとだよ!

ルーペで葉っぱ見てみてよ
目前にいっぱいに自然があるからね。
これ、大自然だよね!
違うと言うなら、それらの集まりである風景自体も
大自然とは呼べなくなるっていう、お気のどくさまね!

あ、なに、葉っぱはいっくら積んでも葉っぱだからだめ?
山がないとダメ?あらまー。セッコ!

じかんだわ。
意外に忙しいんだぜ俺。

大自然でなきゃキャンプにならない!
自然の中に行かなきゃ育たない!
仲間と体いっぱい協力!
コミュニケーション!
とかいう、マッチョで体育会系なキャンプ観は
捨てろ。
捨て去れ。
そういう時代ではない。

困らせようか?
そんなマッチョ派は
「病床から窓外を眺めるしか出来ない子は育たない」
「障がいのある子は意志の交流が不十分だからキャンプは無理」
「協力する能力が少なくて困っている子は排除すべし」
と言っているのと同じことです。
まさか、すべての子にキャンプを!とか言うなよな。

キャンプは文化です。

私の師匠はそう言い続けました。
キャンプは、病床でもできるのです。
窓の外から借景し、詩歌を詠むのもキャンプになりうる。
できれば、誰か何人かいておもしろいねたのしいね
おやつにしよっか、ここのご飯たべてみる?とか
ベッドあるから泊まっていいかな?とか
いいながらご機嫌に過ごせればすてき。
そこにあり、ここにもあるのは、
人と場所です。それだけ。

病人という人とほか何人か
病室という場所
窓。よしんば窓なんかなくても、写真や図鑑でもいいじゃないか。
それでもキャンプと言えると気づけば

「キャンプなんてただの言葉」
という私のことも少しはわかってもらえるのではないかろうか。
ま、わかっちゃくれなくても痛くも痒くもないけどよ。

キャンプが
野外体操だとしたら
今キャンプだと言われる観念は
正しいと言える。
モコミチおにいさんと遊んでろ。
あ、カズミチだっけか?
ま、しらね。

オイッチニサンッシ!
って、目的決めてテケテケとやってろ。

じゃあキャンプってなんだ。
って、聞くなよな。
答えるのめんどくせえから!


そんなファイナルでした。
たのしかったです。相変わらずテキトーで。

人生のファイナルのために
今日もAmazonに行った運営部長でした。