私たちがまだ若い頃、仲間の魏祭翼は故郷へ戻り、そこで学問所に勤めることとなった。別れにあたって魏祭翼が先生に、学びに携わる者としての心構えを尋ねた。先生は、
「いまだ学びの過程にある私が、偉そうに申し上げる事でもありません」
と容易にお話にならなかったが、魏祭翼が強いてお答えを願ったので、このようにおっしゃられた。
「まず、家庭と我々が、ともに考え方を変えることです。常に考えるべきは、この子はどんな使命を持って生まれてきたのだろう、という点です。使命はどんな形で果たされるのだろう、この子はどんな試練や障害を選ぶのだろう、この子が使命を果たすためにどんな力が必要なのだろう、その力を獲得するために、どんな学びが必要なのだろうか、ということです。
はたして、そのために我々は何が出来るのかが重要です。私は教育と言う言葉が余り好きではないのです。教え込んでやろうと思ったら、いけません。その子の中にある良さを引き出す手助けをすること、ひょっとしたら、私たちはその子に寄り添うことしか出来ないかもしれません。
いわゆる、世に言う教育とは子供たちが、現実社会で自己の個性や特性を発揮していく人になるため、手助けをするのが目的だと思っております。そして、学問とは、正確な情報をどう集めるか、その情報をどう判断するかを学ぶものと思います。
出来ない子はおりません。問題に取り組む状態になっていないだけです。子供たちの成長に合わせる授業、取り組む状態を見極める授業が必要です」
魏祭翼は、先生の言葉に息を呑んだ。