初恋を大事にしろ、とは先人が放った言葉だ。

たしかに私にも当たり前の話だが初恋はあったわけだがそれはまあ言ってしまえば通過儀礼であり、きっかけであり、今にして思えば初恋をする!という事象が大事なだけで、誰でもよかったのかもしれない。

便宜上にせよ、”初恋の人”と呼ぶことすら恥ずかしく、おこがましく、時におぞましいとすら感じてしまう。



有名女性芸能人のドキュメント番組を観た。

その芸能人はボランティア活動や弱者救済、若者啓蒙といった数々の活動をほとんど無償で行っており、それは全てが素晴らしかった。

彼女は『こういうことしていると反対意見や良く思わない人がたくさんでてくる』と言う。

それを聞いて私は、こんな立派なことに文句を言うってどんな人生の人間なんだよ・・・と呆れてしまった。


しかしながらその感覚はすぐに反転する。

彼女は何か立派な活動のたびに『私はこれを〇〇年も前から始めていた』と繰り返した。

『思いついたのはもう小さい頃からだった』
『私はこれをやるのに〇〇年かかった』
『〇〇年ずっとこれをしてきたから慣れた』
『親も反対していたけど私は貫いた』

そのどれもが‟私はこれだけすごい”ということを強烈にアピールしているように聞こえ、その全てが毎回毎回何かある度に口にしてくるので、観ていてほとほとウンザリしてしまった。

強烈な自己顕示欲とでもいうべきなのか。
とにかくウゼーと思ってしまった。



数日後、”初恋の人”の名前を検索にかけた。

彼女はあらゆるSNSで現在も相互フォローな関係ではあるが、自発的に(少なくとも私の知る範囲では)何かを発信するわけでもなく、ただただたまに誰かにいいねをつけているのが視認できる程度だった。

それをなぜかこの日、私は急に彼女が気になってしまい、彼女の名前をグーグルエンジンにかけることにした。

あまりにも端的に書いてしまっているが、これはいわばネトストだ。

そんな犯罪者私の検索により、彼女はすぐにひっかかった。


それは何か自分のページではなく、動物保護に関するインタビュー記事だった。

インタビューをしているのではなく、受けているのが紛れもなく彼女自身だった。

内容に関してここでは記載しないが、私は記事を読み、ひどく心を打たれた。



なんてすばらしい活動なのだろうか。

なんて立派なのだろうか。

どうしてこんな素晴らしいことができるのだろうか。

それは尊敬を超えた何かであり、同時に自分の知る人間が立派な行動をとっていることがわかり、なぜか誇り高かった。


そして彼女はその活動を高々と顕示するわけでもなく、知るべきことを知らせtる言動にとどまっているのだ。



私の敬愛する辻仁成先生がこう言っていた。

「伝えたいことはサラッと言うくらいがいい。あまり伝えたいことをくどくどと長く続けると、受ける側はみんなウンザリする。なんだか聞きたくもない説教をされているような気分になってしまう」と。


まさに前者が私の初恋で、後者があの日観た女性芸能人だった。


なんかすごい人好きになってたじゃん俺。
俺の見る目だって捨てたもんじゃないってことだよ。

そう一人つぶやき、私は悦にひたった。

その時はえらく自分が全能のように思えたが、翌朝目覚めると当然初恋も芸能人も手元にはなく、残っているのは冷蔵庫の中の腐りかけの豆腐だけだった。



本日2月14日。

バレンタインデー。

初恋は、誰かにチョコレートをあげるのだろうか。

たとえば自分が還暦を迎えても、彼女から万が一チョコレートをもらえたら嬉しいだろうな。俺チョコ食えないけど。

ハッピーバレンタイン。

今日1日が、皆さまにとって良い1日でありましたように。