先週実家に年末の旅行のお土産を届けに帰った際に、母親より『2月の中旬に空いている日を教えて』と言われた。
良いけどどうして?と問い返すと、私の妹の旦那のご両親が上京するので、食事会に同行してくれと言うのだ。
「え?俺いる?」
『相手のご両親がお兄さんも是非、だって』
私と妹は仲が良くない。
良くないというよりかは無関心だ。
決してお互いに嫌いというわけではないが、恐らく世間一般の兄妹よりは会話もコミュニケーションもない。
他人行儀であるし、踏み込むこともまずない。
にもかかわらず私がその会食に呼ばれることが少し不思議だった。
数日後、義弟、つまり妹の旦那から電話がきた。
「お伝えしときたいことがあります」と。
どうぞ、と促すと義弟は絞り出すようにこう言ったのだ。
「うちの両親は宗教法人の○○会の信者です。特に母のほうは熱心なので、おそらく勧誘があると思います」
あー、なるほど。と思った。
「わかりました。大丈夫です」と返答をして私は電話を切った。
何年も前に村上春樹の1Q84を読んだ。
主人公の1人は母親が宗教の熱心な信者であり、そのせいで幼少期からそのツケを払わされる嫌な過去を持っていた。
同じような設定の登場人物が描かれる作品は少なくない。
おやすみプンプンや星の子などもそうだ。
そのせいもあってか、そのような境遇の人はこの現実世界にも必ずいるだろうと思っていたので、いざそれが身近なところで起ころうとも不思議なことではなかった。
だが彼の申し訳ないという気持ちの溢れた電話は、なかなか聞いていて私も辛くなってくるものがあった。
義弟はいままで一度も私達を勧誘したりすることはなかった。
ということは信者ではないか、あるいは軽めの所属なのだろう。それはそれでそれも辛いものがありそうだ。
私の前職は大手宗教法人絡みの仕事が多かった。
仕事柄集会の手伝いもしたし、土日問わず平日早い時間から小学生以下の子供を連れて参加する信者の方もいた。
あれって学校行かせてないのかな?と社員間で話題になることも多く…これは自分勝手且つ無責任な印象ではあるが、気の毒だった。
宗教は人生において導きだす答えのひとつだと思う。
自分が生きる意味はなんなのか、自分は何者なのか。自分が何をしなくてはいけないのか、人生とはなんなのか。
誰しもが行き詰まった時に、答えのひとつが教義にあると思う。
他国ではそれが当たり前であり、それが生活でもある。
しかしここは日本。信心の自由は多岐に渡り、そのほとんどが許されてあるのだからその答えをまだ何も知らない子供に押し付けるのは、いささか残酷には思える。
まあこの意見すらも、無責任なのかもしれないが。
食事会が楽しみです。
良いけどどうして?と問い返すと、私の妹の旦那のご両親が上京するので、食事会に同行してくれと言うのだ。
「え?俺いる?」
『相手のご両親がお兄さんも是非、だって』
私と妹は仲が良くない。
良くないというよりかは無関心だ。
決してお互いに嫌いというわけではないが、恐らく世間一般の兄妹よりは会話もコミュニケーションもない。
他人行儀であるし、踏み込むこともまずない。
にもかかわらず私がその会食に呼ばれることが少し不思議だった。
数日後、義弟、つまり妹の旦那から電話がきた。
「お伝えしときたいことがあります」と。
どうぞ、と促すと義弟は絞り出すようにこう言ったのだ。
「うちの両親は宗教法人の○○会の信者です。特に母のほうは熱心なので、おそらく勧誘があると思います」
あー、なるほど。と思った。
「わかりました。大丈夫です」と返答をして私は電話を切った。
何年も前に村上春樹の1Q84を読んだ。
主人公の1人は母親が宗教の熱心な信者であり、そのせいで幼少期からそのツケを払わされる嫌な過去を持っていた。
同じような設定の登場人物が描かれる作品は少なくない。
おやすみプンプンや星の子などもそうだ。
そのせいもあってか、そのような境遇の人はこの現実世界にも必ずいるだろうと思っていたので、いざそれが身近なところで起ころうとも不思議なことではなかった。
だが彼の申し訳ないという気持ちの溢れた電話は、なかなか聞いていて私も辛くなってくるものがあった。
義弟はいままで一度も私達を勧誘したりすることはなかった。
ということは信者ではないか、あるいは軽めの所属なのだろう。それはそれでそれも辛いものがありそうだ。
私の前職は大手宗教法人絡みの仕事が多かった。
仕事柄集会の手伝いもしたし、土日問わず平日早い時間から小学生以下の子供を連れて参加する信者の方もいた。
あれって学校行かせてないのかな?と社員間で話題になることも多く…これは自分勝手且つ無責任な印象ではあるが、気の毒だった。
宗教は人生において導きだす答えのひとつだと思う。
自分が生きる意味はなんなのか、自分は何者なのか。自分が何をしなくてはいけないのか、人生とはなんなのか。
誰しもが行き詰まった時に、答えのひとつが教義にあると思う。
他国ではそれが当たり前であり、それが生活でもある。
しかしここは日本。信心の自由は多岐に渡り、そのほとんどが許されてあるのだからその答えをまだ何も知らない子供に押し付けるのは、いささか残酷には思える。
まあこの意見すらも、無責任なのかもしれないが。
食事会が楽しみです。