「先崎くんはさ、学生時代京王線沿いに住んでいたんだよね?」
「そうです。僕は多摩霊園に住んでましたよ」
「変な質問になるんだけどさ、例えば明大前で調布駅行きの終電を逃すとするじゃない?そしたら調布まで歩いて帰るってことはある?」
「明大前から調布ですか?」
「そう」
「あくまで僕の学生時代は、ですが」
先崎はそうしっかりと前置きをし、私に告げた。
「明大前で調布行き終電を逃したとしてもですよ。そのあとまだ桜上水行きが生きてます。明大前から調布はわりととんでもない距離ですからね。少しでも近づこうと考えるのが一般的です。100歩譲って桜上水行きが無いとしても…まあ明大前から調布を歩こうなんて考える人はまずいないですよ。生産性がない」
「そうだよね。そりゃそうだ」
「まさかあるんですか?明大前から調布まで」
「…いや。若葉台から京王永山なら歩いたことがあるよ」
「それは一駅じゃないですか。京王線ユーザーならまず歩かないですよ。知らない人ならわかりませんが」
その昔、私は明大前から調布まで歩いたことがある。
たしかにとんでもない距離だし、いまにして思えば馬鹿げたことだ。
ただあの頃は歩きたかったのだ。
いや、歩く自分に酔っていた、のほうが正しい。
それはあまりにも薄く浅い見栄や将来的な武勇伝に近いものだ。
そんな自分を、先日観賞した花束みたいな恋をした、は徹底的に皮肉り、批判をしてみせた。
○
あまりにも観るのがつらい作品だった。
菅田将暉と有村架純が冴えないサブカル大学生演じてもなあ…しっくりこないよなあ…なんて思っていたが、いまにしてみればそのキャスティングすら皮肉であったように思える。
「先崎くん、押井守がもし近くにいたら、それを押井守だって認識できる?」
「押井守くらいなら見ればわかると思いますね」
「映画も漫画もアニメもほとんど観ない人が押井守がわからないって言ったらどうする?」
「まあ仕方ないんじゃないですか?観たことないんでしょう?」
「じゃあ俺めっちゃ映画観てんだよねーって語ってる奴が近くに押井守がいるのに、それを教えてもわかってなかったらどう思う?」
「どうですかねー。言われてみればあれが押井守です!って言ってくれないと意外と僕もわからないかもしれないですね」
あの作品の主人公二人は押井守をわからずに映画の話をする男女を見下していた。
まるでその一帯のカルチャーを理解しきった人間であるかのように。
二人は明らかにカルチャーに酔い、共通の話題に花を咲かせ、ロマンチックな恋に落ちた。
けれども二人の語るカルチャーは、一見サブカルの極みのように聞こえるが、その全てがあまりにも有名で浅く、言うなれば恥ずかしいものであった。
二人にとって自分の知る文化こそが至高で、そこに至れないものは世界の理から外れているようだった。
そしてそれこそがまさに私であり、私達だった。
同じ趣味も同じ考えも同じスタイルも
それが同じであることで運命を感じるのかもしれないが、数十年を経て客観的になると、それは唯一無二でないから同じなだけなのだ。
あまりにも有名で、あまりにも溢れているから同じになるだけだ。
明大前から調布まで歩いたり、押井守や今村夏子を語ったり、オーサムシティクラブやきのこ帝国を聴いたり。
あるいは長時間ファミレスで雑談をしたり、ミイラ展のパンフレットを眺めたり、想いあっているのに悲劇的に別れたり。
さすがに私もガスタンクを眺めて悦に浸るようなことはないが、ほとんどが経験したことがあり、尊いと感じている良い思い出だった。
そんな言わば価値観を、東京ラブストーリーの時代を生きた人は、薄いと言う。
薄く、浅いと言う。
それが、中年になった私にはいま、何も言い返せない。
あの短く楽しく何物にも変えがたかった大学4年間は、あまりにも平凡でつまらなく、薄く浅い、何もないものだった。
そう感じざるをえなくなり、私は大いに凹んだ。
○
自分の4年間を思い出してみる。
そこに花束みたいな恋をしたで得る共感性羞恥を当てはめてみる。
するとあっという間に、私の4年間の多くの思い出が黒く赤く染まり、見えなくなった。
残っているのはとにかくプロレスを愛したこと、死ぬほどゲームをやったこと、ひたすら家で寝ていたことだけだった。
裏を返せば、プロレスとゲームと睡眠だけは、薄くも浅くもなく、正真正銘私の誇るべき人生なのだろう。
現にいまも暇さえあればプロレスを観るし、ゲームをやるし、寝ている。
「先崎くんは大学のとき最長どれくらい付き合った子いた?」
「2年くらいですかね?」
「その子とはまだ付き合ってる?」
「いや、社会人になってすぐ別れました」
「まあそうだよねー」
「逆に大学時代どれくらい長く付き合った子いました?」
「俺も2年くらいだなー」
「社会人になってからも付き合ってたんですか?」
「いや、社会人になってすぐ別れた」
「そんなもんですよねー」
「なんなら就活中からだいぶ無理っぽくなってたわ」
「そりゃそうですよ。俺なんか彼女が就活やめて大学院行く!なんて言い出したときほんとうんざりしましたもん」
「俺も就職しないでしばらくバイトしてお金貯めるって言われて、何それってなったわ」
「みんな同じようなもんなんですよね、大学生って」
自分を特別だと思うことがあった。
それが大学生の頃のことだ。
だがその考え自体が非常に甘く浅く薄いものであることに、作品をみてようやく気付かされた。
言ってくれればわかるのだ。
見てください。あれ。わかります?
そう言われ続けてきていたのかもしれない。
見てください。あれ。押井守ですよ。
ほんとだ!押井守だ!
言われれば、わかるのだ。
「そうです。僕は多摩霊園に住んでましたよ」
「変な質問になるんだけどさ、例えば明大前で調布駅行きの終電を逃すとするじゃない?そしたら調布まで歩いて帰るってことはある?」
「明大前から調布ですか?」
「そう」
「あくまで僕の学生時代は、ですが」
先崎はそうしっかりと前置きをし、私に告げた。
「明大前で調布行き終電を逃したとしてもですよ。そのあとまだ桜上水行きが生きてます。明大前から調布はわりととんでもない距離ですからね。少しでも近づこうと考えるのが一般的です。100歩譲って桜上水行きが無いとしても…まあ明大前から調布を歩こうなんて考える人はまずいないですよ。生産性がない」
「そうだよね。そりゃそうだ」
「まさかあるんですか?明大前から調布まで」
「…いや。若葉台から京王永山なら歩いたことがあるよ」
「それは一駅じゃないですか。京王線ユーザーならまず歩かないですよ。知らない人ならわかりませんが」
その昔、私は明大前から調布まで歩いたことがある。
たしかにとんでもない距離だし、いまにして思えば馬鹿げたことだ。
ただあの頃は歩きたかったのだ。
いや、歩く自分に酔っていた、のほうが正しい。
それはあまりにも薄く浅い見栄や将来的な武勇伝に近いものだ。
そんな自分を、先日観賞した花束みたいな恋をした、は徹底的に皮肉り、批判をしてみせた。
○
あまりにも観るのがつらい作品だった。
菅田将暉と有村架純が冴えないサブカル大学生演じてもなあ…しっくりこないよなあ…なんて思っていたが、いまにしてみればそのキャスティングすら皮肉であったように思える。
「先崎くん、押井守がもし近くにいたら、それを押井守だって認識できる?」
「押井守くらいなら見ればわかると思いますね」
「映画も漫画もアニメもほとんど観ない人が押井守がわからないって言ったらどうする?」
「まあ仕方ないんじゃないですか?観たことないんでしょう?」
「じゃあ俺めっちゃ映画観てんだよねーって語ってる奴が近くに押井守がいるのに、それを教えてもわかってなかったらどう思う?」
「どうですかねー。言われてみればあれが押井守です!って言ってくれないと意外と僕もわからないかもしれないですね」
あの作品の主人公二人は押井守をわからずに映画の話をする男女を見下していた。
まるでその一帯のカルチャーを理解しきった人間であるかのように。
二人は明らかにカルチャーに酔い、共通の話題に花を咲かせ、ロマンチックな恋に落ちた。
けれども二人の語るカルチャーは、一見サブカルの極みのように聞こえるが、その全てがあまりにも有名で浅く、言うなれば恥ずかしいものであった。
二人にとって自分の知る文化こそが至高で、そこに至れないものは世界の理から外れているようだった。
そしてそれこそがまさに私であり、私達だった。
同じ趣味も同じ考えも同じスタイルも
それが同じであることで運命を感じるのかもしれないが、数十年を経て客観的になると、それは唯一無二でないから同じなだけなのだ。
あまりにも有名で、あまりにも溢れているから同じになるだけだ。
明大前から調布まで歩いたり、押井守や今村夏子を語ったり、オーサムシティクラブやきのこ帝国を聴いたり。
あるいは長時間ファミレスで雑談をしたり、ミイラ展のパンフレットを眺めたり、想いあっているのに悲劇的に別れたり。
さすがに私もガスタンクを眺めて悦に浸るようなことはないが、ほとんどが経験したことがあり、尊いと感じている良い思い出だった。
そんな言わば価値観を、東京ラブストーリーの時代を生きた人は、薄いと言う。
薄く、浅いと言う。
それが、中年になった私にはいま、何も言い返せない。
あの短く楽しく何物にも変えがたかった大学4年間は、あまりにも平凡でつまらなく、薄く浅い、何もないものだった。
そう感じざるをえなくなり、私は大いに凹んだ。
○
自分の4年間を思い出してみる。
そこに花束みたいな恋をしたで得る共感性羞恥を当てはめてみる。
するとあっという間に、私の4年間の多くの思い出が黒く赤く染まり、見えなくなった。
残っているのはとにかくプロレスを愛したこと、死ぬほどゲームをやったこと、ひたすら家で寝ていたことだけだった。
裏を返せば、プロレスとゲームと睡眠だけは、薄くも浅くもなく、正真正銘私の誇るべき人生なのだろう。
現にいまも暇さえあればプロレスを観るし、ゲームをやるし、寝ている。
「先崎くんは大学のとき最長どれくらい付き合った子いた?」
「2年くらいですかね?」
「その子とはまだ付き合ってる?」
「いや、社会人になってすぐ別れました」
「まあそうだよねー」
「逆に大学時代どれくらい長く付き合った子いました?」
「俺も2年くらいだなー」
「社会人になってからも付き合ってたんですか?」
「いや、社会人になってすぐ別れた」
「そんなもんですよねー」
「なんなら就活中からだいぶ無理っぽくなってたわ」
「そりゃそうですよ。俺なんか彼女が就活やめて大学院行く!なんて言い出したときほんとうんざりしましたもん」
「俺も就職しないでしばらくバイトしてお金貯めるって言われて、何それってなったわ」
「みんな同じようなもんなんですよね、大学生って」
自分を特別だと思うことがあった。
それが大学生の頃のことだ。
だがその考え自体が非常に甘く浅く薄いものであることに、作品をみてようやく気付かされた。
言ってくれればわかるのだ。
見てください。あれ。わかります?
そう言われ続けてきていたのかもしれない。
見てください。あれ。押井守ですよ。
ほんとだ!押井守だ!
言われれば、わかるのだ。