女性が不倫するニュースが出るたびに必ず「いや、女の子を不倫するまでに追い込んだ旦那が悪い。寂しい思いさせた男が悪い」という意見をかますプレイボーイ気取りが一定数湧く。

いったいどんな生き方をしたらそんなことを言えるようになるのか。

尊敬と軽蔑が1:9で交錯する。



正月休みに学生時代の友人何人かと会い久々にお酒を酌み交わしてみたは良いものの、話題はほとんどが健康診断の結果やおすすめのサプリメント、あるいは動きやすいジーンズはどこで売っているかといったものばかりだ。

ひょんなことから始まったクレヨンしんちゃんの話で、映画のエンディング曲になったSEAMOのCry Babyが2008年のもので、その頃私は人生唯一のモテ期を堪能していたわけだが、それはつまりもう16年も昔のことなのであった。

それ以降の思い出がろくでもなさすぎたせいで、それらの記憶を昨日のことのように感じてしまう。


私が20歳のときにはすでに写真技術が発展を遂げているため、8cmのCDに聴くような「セピア色の思い出」はあまりなく、むしろその頃の写真をみてもいつでもその自分に戻れるという錯覚をしてしまっていた。

Cry Babyが16年前ということは突然現実を叩きつけられるようなものであり、愕然としてしまう。


最近のSEAMOの活動を調べてみると、キングコング西野の吉本退社騒動のトリガーとなったマネージャーパワハラの際、「田村さんがこれだけ動いてくれてるのになんやねん」と西野に言わせたその田村さんと連んでいるようだった。

田村さんの活動自体がキングコング西野をそのまま中年おばちゃんにしたようなもので、所謂繋がりや喜びをネット上で一方的に主張する充実=仕事力ゴリ押しのおばちゃんであって、そんなのと連んでいるSEAMOに更に私は愕然としてしまった。


想いで仕事をするのは素晴らしいことだと思うが、想いを先行して仕事をする人が私は嫌いだし、危険であると感じている。



一緒に飲んでいた友人は宴もたけなわになってくると「いま俺は会社に居場所がないというか、窓際に追いやられたんだ」と呟いた。


「知ってるか?窓際族ってのはほんとに窓際なんだ。仕事上、その部署の中心に行く必要がもっとも少ないから一番遠い窓際に席替えさせられるんだ。そもそも仕事自体が意味のないことばかりだから、相談もコミュニケーションも最低限で良い。だから一番周りと喋る必要の無い場所に席がある。"壁とでも話してな"ってか?」


そう言われてなるほどと思いつつ自分の席を思い返してみると、本当の本当に横はすぐガラスの窓際席であった。


あら?あれれ?


たしかに報告相談をしなくてはならない上司の席から一番遠く、席の配置上、部員課員と雑談やコミュニケーションをとることも少ない。

唯一会話しているのは隣の席の派遣のお姉ちゃんで、仕事の話ではなくもっぱら旦那が家事をしてくれないという愚痴をきいているだけだ。


なんてことだ。窓際なのだ私は。


だがまあ良い。中心よりは気楽だ。
中心の人は外回りやテレワークについても社内会議やイベントの多さから制限されてしまうが、そういうものに参加する必要権すらない私はわりと好きに自分のスケジュールを管理できる。

まさに16年前頃に、将来はどんな仕事でも良いから、他人と接触の無い自分しかいない部屋で仕事をする、マンションの管理人みたいなことがやりたいなあと思っていたが、昨今のテレワークという現状は、まさにそれが叶った形である。

喜ばしいことだ。他人に必要とされないことは。

時に耐え難い屈辱を感じ、涙を流してしまうことさえ除けば。



帰宅し久々にSEAMOのCry Babyを聴いてみると、それはそれは心をうつものだった。



そう思えばいつも僕は無理に笑ってた。
強がってた、気を張ってた、涙を堪えてた。
Cry baby 今日は我慢せずに泣いてみな思いっきり
洗い流してみれば素直になれた。


これが自分だとは思わないが、考えさせられる部分はある。



せっかくだから今年は、1人部屋に取り残された時、思いっきり泣いてみようと思う。