安倍元首相が凶弾に倒れてから約2ヶ月半。

日本中が注目する中で2022年9月27日、当人の国葬が執り行われた。

この日に至るまでありとあらゆることが混乱を招いていた。

9月19日にはイギリスにてエリザベス女王の国葬が行われ、この日を脳裏に浮かべながら27日を迎えた日本人も少なくはないのではないか。

国民の反発か、あるいはメディアの苛烈な報道か。

どちらであるにせよ、安倍元首相の国葬は万人が望む状況とは言えないものであった。


私自身の立場を明確にすることで、場合によってはそれが誰かを不快にしてしまうのかもしれないが、概ね自身は国葬賛成である。

それは我が国を先頭に立って守ることに信念を燃やした政治人への敬意によるものからだ。

たしかに疑惑は多く、白かといえば間違いなく白ではない首相ではあった。

だがそれを踏まえても、やはりこの平和を掲げる国の象徴たる人物が、絶対にありえるはずがなかった凶弾に倒されてしまったことは重く、だからこそ日本として恥ずべき事件を過ぎ去る日常として受け入れてはいけないという意味で、国葬は必要と考えていた。


けれども当日に至るまで、少なからずその必要性は何度か揺れた。

それは統一教会に関することではなく、国葬反対を唱える一部の声があまりにも私には許容できなかったからだ。


「死んでいる人に金を使うな」

「生きている人に金を使え」

「ほかにやるべきことが、優先すべきことがあるだろう」


その声はあまりにも理解しがたかった。

なぜそんな酷いことが言えるのだろうかと思うことすらあった。

あまりにも国家を蔑ろにする声もある。


その声をきけば聞くほど、イギリス女王の国葬とも比較し、「こんな恥ずかしい日本を世界にみせてしまうくらいならば、いっそ国葬はやめたほうがいいんじゃないか」と考えるようになった。


前日には式の黙祷の最中に大きな音を鳴らして邪魔をしようとするデモまで計画され、私は心から落胆してしまった。


もういいよ、やめよう、と。



けれども、当日、亡き元首相に捧げられた菅義偉の弔辞を聞き、国葬をやる意味を理解できた。


それは素晴らしいものだった。


政治家としての信念、当主としての正義の在り方を明確に我々へ示し、その上で個人を偲ぶ素晴らしい弔辞だった。


全文の記載は避ける。


しかしながらぜひ一読してほしい。


この弔辞こそが国葬の意味であり、また、誇りであると私は感じる。



こうして私は国葬を行う意味を見出すことができた。


あれから1週間近くたつ現在でも、苛烈に国葬反対を訴える人たちは少なくない。


終了した現在であるならば、それはそれで良いのではないか。


それぞれの意味を見いだせばいい。

あれが税金の無駄で、他にさくべき資金だというのであればそれはそれでかまわない。


日本国の繁栄を、心より祈る。