小学生の頃、毎週日曜日に一緒に野球の練習の約束をしていた父が、稀にそれを断り、金城にある小学校に「投票に行ってくる」ということがあった。

時を経て中学生になった私は、特段政治分野に興味を抱くこともなかったため、なぜ父が律儀に選挙の投票へ行くのかわからなかった。

興味はなかったものの大人達や深夜に流れるテレビ番組で討論する専門家達の話をきく限り、たった一票が世界を、現実を変えることは無いと漠然とわかっていた。

だからこそ、私は父に尋ねたのだ。

「毎回選挙に行く意味あるの?」と。

父はいつになく神妙な顔つきで答えてみせた。
自分の息子なのに何をバカみたいな質問をしているんだという呆れも含んだような顔で。

「他の国では、自分の政治への考えを表すのが容易じゃないことがある。思想が人生を変え、生活を一変させることもある。たった一票の為に命を落とすこともある。だからどんな場合であっても、一票を投じる権利が許されているのならば、それを破棄しちゃダメだ」


1989年6月4日の中国における天安門事件から、33年が経った。







1989年の6月4日に比べ、2022年の6月4日では明らかに声なき声が視認されやすくなった。

なんといってもあの当時と違うのは、インターネットメディアの発展だろう。

SNSを開けば多くの人が気軽に、自分の考えや思想を世界中に発信することができる。

「いまの自民党はクソだ。国家はクソだ」

2020年に世界を覆う災厄のコロナ禍が日本を包んでからというもの、そのような意見をSNS上で見かける機会は増えていっている。


自分達が苦しいのはこの社会のせいであり、この社会を形成したのは現自民党政権であり、この現政権を生み出したのは何もわかっていない国民であり、

国民を統べる、日本が悪いと。


言わんとしていることはわかる。
たしかに苦しい情勢が続く。誰にとっても。

「弱者を虐げるこの国は悪夢だ」
「国が私達を守らずに、搾取をしている」
「現代日本は、ディストピアだ」

私が感じるのは、その発言は本気なのだろうか、ということだ。

本気というのは正気かどうかではなく、覚悟があるのかどうかだ。

たしかにいまの日本を悪夢だなどと騒ぐのはバカげているが、そんなことはどうでもよく、悪夢でありディストピアであるということの証明に、彼らは命を賭けることができるだろうか。


たかだかセルフプロデュースのためにSNSでこの国を憂う有識者達に、ここ数年の私は辟易してしまっていた。


自身が有権者であるという意味を、過去から感じていかなければならない。

たかが一票でではない。とりあえず選挙に行きますでもない。

意味を考えなくてはならないのではないか。


この一票は、決して軽くない。






20歳を超えてから私は、必ず投票を欠かしていない。

それは父が語った言葉をきっかけに、選挙の意味を、一票の意味を考えたからだ。

だからといって、無理矢理この考えを誰かに植え付けようなんてことは思わない。

私の一票は私の一票だ。

重くもなく軽くもなく、“私”がそこに反映されている。


この権利を奪おうとする誰かがいるのであれば、私は闘うつもりだ。


あの歴史的な大事件を、忘れてはならない。