神戸で震災に遭ってから今日で28年目を迎える。
毎年この日が近づくと体調が悪くなる。
亡くなった人達が生き残った者へ「忘れないで」というメッセージを送っているのかもしれない。
姉は震災の時東京にいたが、新幹線が復旧したらすぐに神戸にやって来た。
それは自分の目で被災地を見てみたいという好奇心からだった。
「こんな事、一生に一度のチャンスじゃん」と電話越しの弾んだ声をよく覚えている。
1歳の長女を胸に抱えた姉を私が東京まで迎えに行き、親のお金で取った新幹線の個室でやって来た。
そして目をキラキラさせながら倒壊したビルや焼けた家屋を見て「お~」と歓声をあげていた。
今でもその時の姉の横顔を思い出すと吐き気がする。
被災者の私は崩壊した街にカメラを向ける事などとても出来ない。
私の友人は心ある人達なので、缶詰や化粧品類を手紙を添えて送ってくれた。
姉は手ぶらで来て、両親に「孫の顔を見れば元気が出るでしょ」と言い放った。
母は大病の後であまり動けず、不自由な生活の中、二人の世話も私がした。
「幼子がいるから」と母の看病には来られなくても、被災地見物には来られるんだと呆れて物が言えなかった。
毎年この日が来ると、両親とともに送った長く辛い日々を思い出すと同時に、姉の身勝手であさましい姿がよみがえり一層気分が悪くなる。
今日終戦から77年目を迎えた。
特集記事や報道に触れ改めて思うのは、両親は幾つもの試練を乗り越え、やっと平穏な暮らしを手に入れたという事だ。
父は優秀な兄を二人も戦争で亡くしている。
母は疎開して家族は無事だったが、医者だった祖父は無報酬で駆り出され家族は大変だった。
戦中戦後を一生懸命生き抜いてきた二人を私は不本意な形で見送ってしまった。
意識もなく管に繋がれ身動きがとれない状態になるくらいなら、延命治療はやめて家族や気心のしれた人達に囲まれ静かに過ごした方が幸せだろうと勝手に判断した。
本当は自分が楽になりたかっただけなのかもしれない。
母は意識はなくとも一日でも長く生きたかったのだと今は思う。
あの戦禍を逃れ、大病を克服して生き抜いて来た人だから。
父も、もっともっと長生きして母の傍で穏やかに過ごしたかっただろう。
最後まで定職に就かず、父にお金を要求し続けストレスを与え続けた姉夫婦が憎い。
父が亡くなり遺産が入ると知り「正直助かった」と本音を漏らした姉が憎い。
故郷の親戚に「親の遺産は妹に全部盗られた」と、とんでもない嘘をついた姉が憎い。
そして延命治療を選択しなかった自分はもっと憎い。
私達がもっと温かい人間だったら両親はまだ生きていたのかもしれない。
Furies
「遺産を妹に全部盗られた」という姉のついた嘘が未だに許せない。
一年経った今でも思い返すと腸が煮えくり返る。
時が立てば少しはおさまると思った。
でも時間と共に怒りが和らぐのは、後に楽しい時、幸せな時間を重ねて記憶が上書きされる人だけだろう。
この一年、私には良い事など一つもなかったから怒りが倍増した。
姉はどんな酷い事をしても私に謝った事がない。
昔、義兄の事を「自分の非を認めない器の小さい人間」と嘲笑っていたが彼らは似た者夫婦だった。
いつか姉に言われた事がある。
「私のように結婚して子供もいてちゃんと家庭を持っている人間と、お前のように何もない人間のどちらを人は信用すると思う?」
こんな事を言う時点で人としてアウトだろう。
なぜこんな酷い家族しか残してくれなかったのだろう。
本当に親が恨めしい。
I found out.
I'll begin.