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中学受験相談所 副管理人アーカイブ

LINEオプチャ「中学受験相談所」に常駐している副管理人です。(あるいは「中学受験語り合う部屋」の管理人)

このブログはそれらの部屋で書き込んだ、長文リプライの抄録です。中学受験の参考にしていただければ幸いです。

なかなか刺激的なタイトルだ、と書いてる本人も思いますが、テーマはタイトル通りです。


でもまさかオプチャで「MARCH卒は幸せになれないんですか?」と質問があったわけではありません。以下の返答は「MARCH附属中と、東大に10人ほど受かっている進学校と、両方合格をいただいたのですがどちらに進むべきか迷っています」でした。


そのご質問に対するお答えを、少しデフォルメしたのが以下です。


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MARCHという大学をどう捉えるか。これはもう、人によって大きな振れ幅があります。


まず、これを書いている僕は三浪でMARCH卒です。


現役の時国立に入り(都内の自宅から通いましたが、東大&東工&東外大ではありません)、1年の夏に父を亡くし、下に僕よりも出来の良いきょうだいが居たので、辞めてドライバーをしました。


と言うと、「弟妹さんのために偉いですね」としばしば言われましたが、それは美し過ぎる誤解でして、弟妹の為に涙を呑んで辞めたわけではありません。


実家はけっして豊かではなかったので、3人の子供が大学を終えるのは無理だったこと。多少の親父の生命保険はあったものの、働き手はパート勤めの母しかいませんでしたから。


そして僕自身があまり大学で学ぶことに意義を見いだしていなかったこと。選んだ学部も法学部でしたが、法曹の道にいきたいとも思っていなかった。一応、学区(当時は都立は学区制でした)二番手の進学校だったので全員が大学に進んだので、自分もなんとなく受験したものの、刺激的でワクワク楽しい日々、ではありませんでした。まだ一般教養科目でしたしね。


そこで残された長男として、何が限られた資源の有効活用かと考えたら自分が働き彼らを進学させた方がいいだろう、と判断したわけです。僕より優秀な下の2人が学士になった方がひいては日本のためになるのでは?そこまで思ったかどうかは別として、「自分を殺して涙を呑んで」譲ったわけではありません。車の運転も好きで、何と言うか「これぞ男の仕事」みたいな変な憧れもありましたし笑


そして働いて貯めたお金を元に21歳の時にMARCHに行きました。その動機は本論からズレるのでくどくどしく書きませんが、まあ「隣の芝生が青く見え」た結果だ、とだけ言っておきましょう。


ですから、高卒後3年経って大学入学、世間の言い方をすれば「三浪」だったわけです。


そんな紆余曲折を経たので、自分の卒業大学についての意識は全くフラットでした。恥じることも誇ることもなかった。だいたい正社員として働き、残りの時間で勉強して早慶の文系は全く無理です。それができるのは余程の頭脳の持ち主です。つまり、僕なりに最善を尽くした結果、でしたから。


しかし、この仕事に就き、塾講師&家庭教師として働くうちに、MARCH卒はどちらかと言えばマイナス(大きなマイナスではありませんが、東大はもちろん、旧七帝大&早慶一橋東工大卒に比べると決して加点にはならず、わずかながら減点)という属性なのだ、と知りました。


そして世の中には、MARCH卒を相手にしない会社もたくさんあることを知りました。いや、正確には「兵隊としてなら採るよ。でも将校は無理」というスタンスでしょうか。また、「MARCHなんて人権ない」と言って憚らない人の存在も知りました。


MARCH付属は、だいたい四谷大塚&日能研偏差値で57くらい。小学生の上位2割が中学受験をして、その中の偏差値57というと、同学年の中の0.2×0.25(正規分布で偏差値57は上位25%)で、上位5%となります。


MARCHの大学の定員の合計は30,000人弱。MARCHより上の大学が25000人。(ざっくりです)今の18歳は112万人ですから、割合は約5%


だいたい合致しているわけですね。


その同年代の学年の、20人に1人しか入れない学校を「人権ない」というのはどうかと思いますが、でも、真剣に「MARCHじゃ幸せになれない」という方がいるのもまた、動かしがたい事実です。


前に少しお話しました。このオプチャで、始終僕とバトルを繰り広げたお母さん。僕が「勉強より大切なことがある」と言うと「それはきれいごとです」といつも噛み付いてきました。今は退室して居ないようですが、その方がはっきりおっしゃってましたね。「うちの会社はMARCH卒なんて相手にしません。入社することもできません」と。


そして僕が何かの機会にMARCH卒だと言ったら

「えっ、MARCH卒で御三家受ける子の指導?もう驚きしかありません」と言われました。まあ、この業界ではあるある、です。慣れているので「ああ、それは驚かせてごめんなさい」と返しましたが。


家庭教師でも、少し教えて直ぐに講師交代(簡単に言うと「クビ」です)になる家庭は、だいたいお父さんが早慶一橋以上。そうはおっしゃらないけど「MARCH卒に教えられるんかい」と思っているのでしょう。最初は派遣会社がお薦めするのでつけてみたものの、大して伸びないし、やっぱり自分と同等の大学の人に替えてもらおう、と。


今の日本の教育、あるいは入試を取り巻く状況においては、「高偏差値=たゆまない努力をしたこと」(とりわけ文系においては)なので、偏差値が低い人を「ダメだ」と考えるのは、まあ、暴論ではありません。確率論で言ったら偏差値55の人より65の人の方に「優秀」(ここで、何をもって「優秀か」ことが論点になり得ますが、それまで語り出すと話が広がって収集つかなくなるので、置いておきます)な人が多く存在するでしょう。


ましてや、ご自分がその努力をしてきた訳ですから、それが出来なかった人を「ダメ」とするのは極めて合理的なわけですね。


話が逸れました。「幸福論」でしたね。話を戻しましょう。


そういう方―つまり「MARCH卒には人権がない」と言う方―にとって「幸せ」とは、年収4ケタ(1000万)が最低ライン、23区内(それも隅田川より西)の駅から至近の4LDK以上の分譲マンションに済み、2人のお子さんも中学から私立に通わせる、そんな人生と規定しているのでしょう。これは、やはりお父様お一人で1000万の年収がないとかなわないでしょうね。となると、確かに「MARCHでは幸せになれない」わけです(ダブルインカムで世帯収入1000万も有り得ますが、ここではあえて無視します)


そのような人に「いや、MARCH卒でも幸せになれる」と力説しても仕方ありません。「幸せ」の定義が違うのですから。


結局、こういう時に最後に尺度になるのは「あなたにとって幸せってなんですか」になると思うんです。


気立てのいいお嫁さんをもらって、一流企業じゃなくてもいいから、きちんと勤めて周りや取引先から頼りにされて、日曜日には家族で息子の草野球の応援に行って帰りにファミレスで好きなものを食べて、娘のバレエ(ピアノ)の発表会にはカメラマンとして活躍して、家族揃って健康で笑いが絶えなくて…


それが幸せなら、MARCHだって、いや、成成獨國武だって日東駒専だっていい。東大を初めとする七帝大、早慶一橋じゃなくていいわけです。


しかし、バトったお母さんのように「MARCHは人に非ず」なら、もっと上を目指して頑張るべきです。そういう人にとって↑↑↑のような人生は「つまらない人生」に他ならないでしょうから。


と書くと、いかにも高学歴の方が「拝金主義者」のように読めてしまいますが、もちろん、例えば国のグランドデザインを描きたいんだ、とか、単なる歯車(一兵卒)ではなく、幹部として世界的な企業の舵取りをしたいんだ、というような根源的な欲動もあるでしょう。東大早慶一橋を目指す人が、年収や住む家のことしか考えない、ゴリゴリの唯物主義者だ、という気は1mmもありません。


また、最上位の子には「この世の中は、君らのような抜群の頭脳の持ち主でないと解決できない問題が山積している。どうかその天から与えられた優秀な頭脳で、そのような問題を解決してくれ」とよく言うのですが、中堅の子に寄り添うあまり、御三家を受ける子を悪くいう気も、これまた、1mmもありません。


すみません、まとまりませんが、ご家族でもう1度、「幸せってなんだろう」とすり合わせをなさってみてはいかがでしょう。


まあでも、人生いくらでもやり直しはききます。ダメだったらダメだと思った時にやり直しても、今は大人になるのにいろいろなルートがあるから大丈夫ですよ。この判断で残りの75年の人生が決定づけられるわけではありませんから。

(中学受験相談所 2023.2.6)




読者の皆様、大変ご無沙汰しており失礼いたしました。本業に追われているうちに、いつしかIDもパスワードも忘れてしまい…


その手のやらかしをした方には馴染みがあるとおもいますが、IDとパスワード、ともに忘れると、再設定本当に大変ですよね。まとまった時間がないとなかなかできません。そのうち、そのうち、と思っている間に1年経ってしまいました。


今年もオプチャで色々お答えしました。


その中で、ある程度普遍性のあるご返答は残した方が何かと便利では?と思い、始めたこのブログですが、反省して今年はお答えした直後にアップしていこうと思います。


さて、今回のご質問は

「小1から進学塾と言われる塾に通っている小4ですが、最近明らかに中だるみです。どうしたら良いでしょう」


A

お子さんは小学校一年生から塾にお通いとのこと。まずは、入学とほぼ同時に学校以外の塾通いを続けてこられたご本人と、それを支えてこられたお母さま初めとして家族の皆さんに敬意を表したいと思います。素直に偉いな、と思います。


自分は四大塾のうちの一つと、それよりやや規模の小さい塾に勤めていますが、どちらの塾も2年生以下のクラスはなく、最も早い学年でも小3の夏からのスタートになります。それら、小3から入ってきた子の多くは、5年生の夏前から夏休みにかけて(長引く子は秋まで)いわゆる「中だるみ」に見舞われます。


この「中だるみ」は、年齢に関係なく、ある物事を継続して行う場合、つきものだと思います。私たち大人であっても、何年か続けていると、やり始めたころの緊張感も楽しさもなくなり、ある種のルーティンワーク、「ただ続けているだけ」の状態に陥ることはよくありますよね。大人でさえそうなのですから、まだ年端もいかない小学生なら、当然、緊張感を失い、「ただ続けている」状態になってしまうのはごく自然なことだと思います。


私たちが、辛くてもしんどくっても、力を振り絞って物事にあたる原動力はいったい何でしょうか。それは日本人の場合、何といっても「責任感」でしょう。では「責任感」はどこから来るのか。多くの人にとってそれは「人に迷惑をかけられない」という思いなのではないでしょうか。


仕事人ならもちろん、クライアント、そして同僚・上司・部下など、机を並べて仕事をする仲間のことを考えたら、だるくたって気乗りがしなくったって、自分をしかりつけ仕事に向き合うでしょう。あるいは専業主婦のお母さまも、なんだかやる気が出ない、寝ていたい、そんな日もあると思いますが、だからと言ってすべて家事を放り出して寝ているわけにもいきません。ご主人はまだしも、幼い子供たちはお母さんが居なければごはん一つ食べられないでしょう。


では、もし家族のいない一人暮らしで、仕事もしないで暮らしていける収入があったとしたら?寝ていて暮らすのもなんだか人生もったいない気がして、働きはするでしょうけど、もっと気ままになるのではないですか?気が乗らなきゃ、やらない。それで誰に迷惑がかかるわけでもない。困る人もいない。その中で、今と同様に仕事ができるでしょうか。僕は自信がありません。というか、もっとはっきり、無理です。僕がしんどくったってなんだって仕事に行くのは、自分がいかなければ多くの人に迷惑がかかるからです。もしそれがなかったら、おそらくは気分が乗ったときにだけ働くでしょう。


今のお子さんはそれに近い。勉強しなくったってなんだって、誰かに迷惑をかけているわけではありません。もちろん、お母さんは悲しむし、イライラもするでしょうが、しかし、何しろ親子の間ですし、小5の子供が「親を喜ばせるため」だけに我慢を自分に強いることは、ほとんどの子においてはありません。さぼって成績が落ちてもその不利益は自分一人にのみ返ってくるだけです。


そんな状況下で、高い緊張感を持ち続けることは、本来的に僕は不可能だと思います。


ですから、そんな状態に陥ったら、親は「待つ」しかない、と思います。本人のやる気スイッチが再びONになるのを。


いつ、何がきっかけでONになるのか、それは誰もわかりません。ググれば、「中だるみの克服には」みたいなネット記事がわんさかヒットしますが、ぼくは仕事柄そういった記事・サイトに多く目を通しますが、書いてあることには懐疑的です。対症療法的であり、もっと言ったら小手先の工夫でしかない、気がします。


本人が受験を、成績を自分事としてとらえる。その時期が来ない限りは、周囲の大人が何をしてもあまり効き目はない。モノで釣っても、効果があるのは最初だけです。だんだん成果報酬は閾値(ハードル)が上がってきますから、それに合わせて吊り上げていったら何十万円ものニンジンでないとインセンティブにならなくなってしまう。


では「鞭」の方はどうか。


中にはいますね。にわかには信じがたい話でしょうが、実際に僕は接したことがあります。「確認テストで合格できなかったらおかず減らす」「偏差値伸びなかったら家族レジャーに本人だけ連れて行かない」


兄弟が好きなおかずを食べているのを横に、本人だけ、副菜でご飯を食べる。おかずが食べたいよりなにより、その屈辱感と言ったらないでしょう。あるいは、兄弟家族がTDLに行っているのに、「罰として」塾で自習させられる。あるいはもう、めちゃくちゃな勢いで罵倒する。「お母さん、恥ずかしくって買い物にも行けやしない」。作った話ではありません。そのセリフをじかに僕は自分の耳で聞いたことがあります。もはやこうなると虐待レベルです。


そんな虐待じみた「鞭」に効果があるのかはなはだ疑問ですし、子供の幸せを願って始めた中学受験の過程においてそんな乱暴を親が強いているのではまさに本末転倒でしょう。


そもそも、小学生の子供が一人で、誰に言われなくても自主的に勉強に打ち込むことは、稀有です。塾に通う子で、6年生で10人に1人くらい。5年生で言ったら20人に一人、とかの割合だと思います。全国の私立中学に通う生徒数は全中学生の7%です。受験熱が群を抜いて高い、と言われる東京でさえ、20%(23区で26%)にすぎません。その、選ばれた上位の7%の中学受験生のさらに10人に一人くらいしかいないのですから6年生が150人居て1人の割合です。中規模小学校2つ合わせてようやく一人。それほど希少性が高い。もう特別天然記念物並です。


しかし、表に現れるのはそんな神がかったお子さんの話ばかり。それに比べてわが愚息は…と嘆くわけですが、僕から言わせていただくと、そもそもの理想像が高すぎませんか?


塾は嫌がらず行く。立派だと思いますよ。それは学校で学べない知識を身に着けることができる、ということがモチベーションになっているからです。(親から見ると塾メイトと遊ぶために行っているのではないか、と見えたとしても)それだけで十分誉め倒してもいいくらい。


では、スイッチがONにならない子もいるのでは?というご心配がわくと思います。その疑問について正直答えるなら、答えは「Yes」です。全員が受験が近づけば自然にスイッチが入る、というのも、神話です。最後まで自分事としてとらえることができず入試を迎えてしまう子も、残念ながら女子で5%くらい、男子で10~15%くらいはいるでしょう。


では自分の子がそうだったら?


それはどうにもなりません。あきらめることです。冷たいようですが、あきらめるという言葉が悪ければ、「受け入れる」ことです。自分事ととらえる能力も広い意味での学力です。学びの力とは、単に細かな年号や人物名・岩石や天体の名前を覚えることだけを指すのではなく、より高みを目指して自分を律して努力する(主体的に)力も指しているはずですから、それが育たなかったということは、神様の設計図がもっと後の時期にONになるように書かれている、ということにほかなりません。


親が子供をコントロールできる、その幅は、多くのお母さま方が思われているよりずっとずっと少ないものだ。それがこの仕事を25年以上続けてきた自分が抱いている想いです。


ご期待されているようなお答えでなかったとしたら、本当に申し訳ありません。


(Q) 小6男子です。本人は行きたい私立中学校があり、「絶対に公立にはいかない」と常々言っております。ところが、勉強をやりません。毎日YouTube三昧。放っておけばリビングのソファに寝転がって一日中観ています。こちらは目障りなので「そんなんだったら受験をやめなさい」と言うのですが、最近は大荒れ、怒鳴ったり物を投げたりする始末。「勉強は人に言われてやるようではだめ」「親に言われないと机に向かえない子はそこまでの子」等々、塾の父母会で言われたり、物の本にあるのを見るたびに、180度逆の息子の姿に絶望感が増すばかりです。こんな状態では受験は無理なのでしょうか。

 

(A) いずれお子さんは手を離れ、親のコントロールができない存在になります。男の子ならば、中学に上がれば、コントロールどころかろくに口もきかなくなるでしょう。寂しいことですが、それはいわば自然の摂理でどうにもなりません。

逆に言えば、中学受験というのは、親御さんがある程度コントロールができる最後の機会なので、どうしても皆さん躍起になってしまう。「中学受験は親の受験」という言葉がありますが、僕個人は親が占めるウェイトはそこまで大きいとは思いませんが、「親と子の受験」ぐらいの言い方が相応しいくらいには、親のコミットが結果に関わってくるのではないかと思います。

しかし、世の中に出回っている、東大に次々子供を入れた何とかママが書いた書物や、ネット記事などはやたらと「神」のような素晴らしいお子さんばかりが登場する。あるいは、教育評論家や「受験マイスター」みたいな肩書きの人たちは「勉強は自分からするもの。人から言われてやるようではダメ」と二言目には理想論を言う。それを見聞きするたびに皆さん、悩まれるわけです。「自分のやり方が間違っているのではないか」と。

僕は、小学校6年生で、「親が目標を掲げてあげ、その達成方法だけを助言すれば、あとは自らを律して向かっていける子」は極めて稀だと思います。割合からしたら1000人に一人、とかではないでしょうか。(ちなみにサピックス偏差値65のお子さんの割合を計算すると、全6年生の1000人に1人くらいになります)

現実はもっとドロドロとした修羅場が、日本全国各地のご家庭で展開されているのでしょうが、それはどうしたって表に出てきません。本は売れてナンボ、です。「『〇ソババア』レベルの暴言に耐え、何とかかんとか受験は全うしたものの、第1志望から第4志望まで袖にされ、ようやく第5志望に合格。地元の公立に行くよりはトータルではメリットはあるとは思うが、失ったものも多かった」なんて本は誰も手に取らないでしょう。ネット記事だって閲覧数は伸びません。

また、周りに居る我が子の従順さだけが取り柄の母親は、「うちは悪態ついたりはないかなあ…。勉強もこっちが『もう寝たら?』というくらい…」なんて言ってマウント取ってくる。でもそんな家庭だって、そう言っているだけかもしれません。

もう10年以上前ですが、SAPIXのアルファから御三家に受かったお子さんとご縁があったのですが、そのご家庭はもう、「恐怖政治」そのものでした。がんじがらめに縛り付け、ちょっとでも手を抜こうものなら僕の前だろうと徹底的に罵倒する。僕がいたたまれなくなって、「もう、お母さんそれぐらいにしましょう」と腰を折ったぐらいです。にわかには信じがたい話かもしれませんが、小テストの点数が悪いからといってその子だけ、兄弟に比べておかずを減らすんです。本人にとってはさぞ屈辱だったでしょう。ぽろぽろこぼれる涙をぬぐいながらご飯を食べた、と言っていました。それをそのお母さんは「悔しいの?悔しんだったらいい点とりなさい!」と言ってのけたそうです。こうなると虐待まがいですよね。

ところが、です。入試が終わった後、「さぴあ」だったっけかな、合格体験記を読んで仰天しました。そのお母さんの菩薩のような笑顔の写真とともに、「私は勉強については一切口出しをしませんでした。栄養のある美味しい食事を用意することだけに心を砕きました」とあったのです。

まあ、これは極端な例ですが、世の中に出回っている「体験記」やら「こうして受かった」の類いの話は、虚飾に満ちているし、また真実だったとしても一般化できない特殊な子の話だったりします。

お子さんの将来に責任を取ることができるのは、親だけです。世間の人は色々とおためごかしを言うけれども、それで上手くいかなかった時に責任は取ってくれません。お母さんご自身が正しいと思ったことをなさればいいのです。

ご本人が望んでいないことを親の都合で無理にやらせるのでだったしたら、それはある種の親の身勝手かもしれません。でもお子さんは、自分自身が私立に行きたいと熱望しているのですよね。そう言っているものの、そこはまだ子供、自分を律して机に向かうことができない。そんなお子さんに対して、親御さんが「君が真剣にやるのであれば、ママも必死に応援する。だけど、そんな中途半端な勉強だったらやめた方がいいと思う」と忠告するのは当たり前のことでしょう。オリンピックを見ても分かる通り、4(5)年間、すべての誘惑を断って死ぬ気で精進しても、メダルに届かない人もたくさんいる。たとえmaxの努力をしても、それに見合った結果が必ずついてくるとは限らない。人生や世の中というのは、そういう辛いものじゃないですか。ましてや、根拠のない謎の楽観論は、必ず自分にブーメランとして返ってきます。それを親が教えなかったら誰が教えてくれるのでしょう。

お子さんは、自分の胸に痛みがあるので、それを親に言われれば切れますよね。暴れたり大声を出したり。それがなければもちろん一番いいです。でも、じゃあ、摩擦があったら言わないのか。「ダメだこいつは。落ちるとこまで落ちればいい」と思って口をつぐむことが親の愛情なのでしょうか。塾の先生やスポーツのコーチなら、そんな突き放し方も有りかもしれません。でも、親は、塾の先生やコーチじゃない。たとえ胸をえぐられるようなセリフを吐かれたとしても、親なら言わないといけない。それこそ、この世に産み落とした親の責務でしょう。

人生は厳しいです。ドラマや漫画とは違う。「謎の自信」は「謎」以外の何物でもありません。今まで何度も煮え湯を飲んできた我々はそれを知っています。これからそんな社会を生きていかねばならないお子さんに、親御さんが厳しいことを言うのは当たり前のことだと思います。

 

繰り返しますが、世間様、他人さまはいろいろ言うけれど、お子さんの将来に責任は取ってはくれません。ご自身のお子さんの育て方は、お母様が正しい、と思われた方法でなさればいいのです。「ものの本」にあることは話半分、(へえ、そんな奇特な子もいるのか。さぞ子育て楽だろうなぁ…)くらいで受け止めましょう。

 

ぶれない母は強し。

 

僕がこの仕事を四半世紀以上続けてきた中で得た実感です。

夏の到来ですね。東京は緊急事態宣言の再発令で、林間学校・移動教室などが軒並み中止になっています。オリパラの観戦(賑やかしの動員に近い、と僕は思っていたのですが)も中止になり、それはありがたいのですが、一生に1度しかない6年の夏、5年の夏の行事が中止になるのは気の毒です。


さて、夏休み。5年生も6年生も、いざ、と期する気持ちはあろうかと思いますが、いきなり冷水を浴びせるようですが、過大な期待は禁物です。

夏休みは、マラソンで言ったら下り坂のようなもので、みんながスピードに乗って走りますから、それほど大きく順位は変わりません。特に6年生のご父母で「夏休みに賭ける」などの意気込みを述べられている受験ブログなども多く目にしますが、今まで8月末の夏期マンスリーや9月の合不合、全国模試で愕然とするご家庭も数多く見てきました。

朝から晩まで毎日へとへとになって通い、家に帰ってからは夜中まで眠い目をこすって、そんな生活を40日続けたのに、まさかの偏差値ダウン! というわけです。

でもね。周りも同じなのです。ご父母はご自身の子供さんしか見ていないので、「涙ぐましい努力」と映るでしょう。実際に、周りとの比較ではない絶対値で言ったら、紛れもなく「涙ぐましい」のですが、偏差値は何しろ順位です。周りも均等に「涙ぐましい」努力をしていたら、順位(偏差値)は変わりません。それどころか、苦手分野ばかりが出た、なんて言うことがあったら、伸びないどころか、先に述べたようにダウン、まで有り得ます。

ですから、僕は機会があるたび、「過大な期待は禁物です」と、特に6年生のご父母には申し上げるようにしています。

夏で偏差値3伸びたら万々歳。横ばいでも、やれやれ。ダウンさえありうる。そんな感じで思われていた方がいい。

子供本人は間違いなくショックを受けます。自分史上最高の夏(スポーツドリンクのコピーみたいですが)を乗り越えたのに、たったのプラス3?  ぜんぜん志望校に届かないじゃん! と。+3でも泣きの涙、横ばい、ましてやダウン、なんて言ったら…

そこで、親までが〜ん…となって家庭内真っ暗、が、一番いけません。秋のスタートを無駄にしてしまう。中には「撤退論」が家庭内で起こり、その結論が出て仕切り直しで頑張ろう、となった時には10月も近づいている…などと言うパターンも。

ですから、お子さんのいない所で、よくお父様お母様に申し上げるのは、頑張ったから必ず伸びる、と言うほど、残念ながら努力と結果はわかりやすい関数にはなっていない、ということです。

頑張ったことは大いに褒めて欲しい。「自分史上最高の夏」。これは間違いなく、将来にわたってそのお子さんの財産ですし、家族史の中の光り輝く1ページです。

でも、現実は漫画やドラマとは違うのです。

大人の世界はそうですよね。ビジネスなどは様々な変数が複雑に絡み合っているから、努力したから必ず売上が伸びるわけでもありません。

人間社会自体がそういうものなのかもしれない。

その不条理を、初めて学ぶのが今なのかもしれません。

結果が出なかったら努力しないのか?そうじゃないですよね。努力することが尊いから、人は努力するのです。

温かく見守り、もし結果が出なくても、「ママ(パパ)は誇りに思うよ」と伝えてあげたいですね。

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さて、そうすると、こんな声が聞こえてきそうです。
「えっ、ということは、6年生の一学期末から偏差値は伸びないの?受けられる学校は決まってしまうの?」

これについては、そう、とも言えるし、いいえ、とも言えます。

「そう」の答えから説明すれば、6年1学期末でほぼ、持ち偏差値は決まり。夏秋にはそんなには伸びません。残念ですが。

1部の家庭教師派遣会社の惹句にあるような「偏差値20up!」なんて、SFの世界です。こういうコピー見ると腹が立ちますね。

作り手が、信じて書いているならモノを知らな過ぎるし、「そんなことがあるはずがない」と思っていて書いているなら倫理観が無さすぎます。優良誤認させる誇大広告以外の何物でもない。派遣されるこちらの身にもなって欲しい。

もちろん高校受験の世界なら、かなり優秀な子が部活に追われてほとんど勉強せずに来て、夏の部活引退と同時に本腰を入れて勉強を始め、夏前のV模擬56だったのが11月に69、なんていう例もあります。ものすごくレア、という程でもなく、あちこちの公立中学に1人くらいはそんな例はあるでしょう。あるある、とまでは言えないけど、あったとしても驚かない、レベル。

しかし中学受験でそんなことはありえません。

もう一度、くどいようですが書きます。
6年1学期末でほぼ、持ち偏差値は決まり。後は微増減

では、「いいえ」の答えの読み解きを。

偏差値は伸びないからと言って、偏差値が離れた学校に受からないわけではない。

昨年指導したP君は、7月マンスリー42で、受かった学校の偏差値は53。

一昨年指導したQ子さん。6月の全国模試の偏差値49で、受かった学校の偏差値は60。

じゃ彼・彼女が、偏差値が10伸びたのか、と言ったら伸びてないと思います。実際、12月のSAPIXオープン、12/23の全国模試ほ偏差値は、全然伸びていないわけではありませんでしたが、せいぜい3くらいの伸びだったと思います。

要は、志望校に受かるための勉強を続ければいい。それは、模試の偏差値を伸ばす勉強とはまた別物なのです。

僕のようなプロの家庭教師に聞けば10人が10人、同じようなことを答えるでしょう。

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6年生のことばかり書きましたが、5年生は少し違います。5年生は家族旅行等で講習会不受講の子もいますし、6年生ほどスケジュールもきつくないので一人ひとりの頑張りが反映しやすい。偏差値5や7伸びる子もたまさかいます。(ということはそれだけ落ちる子もいる、ということですが)

ただ、「下り坂」であるのは6年生と一緒です。これから秋冬に、割合・速さ絡みの特殊算が次々出てきます。マラソンで言ったら胸突き八丁の急坂。順位をあげるのはそこです。

しかしそこでしっかりスパートするには、基本的な鍛錬があってこそ、です。その基礎を鍛錬するのが辛く長い夏、だと思いましょう。

(中学受験語り合う部屋2021/7/15所収)

(Q)ブログなどで「低学年のときの偏差値は当てにならない」というフレーズをよく目にします。ある程度固まる偏差値、というのは、いつ頃をイメージしておけばよろしいでしょうか。


いつも申し上げるように「比」と「速さ」で算数のフェーズはガラリと変わります。

5年の夏が大きな岐路だと思います。

理科も、比を習わない段階では、難しくしようがありません。ですから5年の今の理科は覚えること中心で計算らしい計算はありません。(算数で比を習っていないのに「てこ」・比例バネを理科でやってしまうサピックスは「掟破り」です)

それが比が登場すると、力学のモーメント、熱量計算、電流(抵抗・電圧との関係)、中和計算、気体の発生量、と、一気に難化します。

算数の図形も、5年1学期までは「図形=求積」ですが、比を習ったあとは、相似、あるいは底辺の比と面積比(いわゆるチェバ・メネラウスの定理問題)が中心になります。

こと算数と理科についていえば、比を習う時期の前と後、と言えると思います。

算数で5年夏前に習う「和と差の特殊算」と呼ばれる、消去算・つるかめ算・過不足算・差集め算・植木算・和差算・植木算 は、解法を覚えてさえいれば容易に解けてしまいます。これまた、難しくしようがない。きちんと単元学習の内容を復習し試験に臨めば、塾内偏差値60(サピックスなら50)に届いてしまいます。そして理科も、要はきちんと覚えるベキことを覚えたか、が点数に反映します。

正直、この時期の算理の偏差値は、我々の中では「参考値」に過ぎません。60あったとしても「まじめな子ということは分かった」程度ですね。

比と割合、そして速さが出てくるとそうはいきません。物事を抽象化し文字で置いて立式し、それを解いて解を出す、中学以上の「方程式(関数)」の概念が身についているかが問われます。これは、努力ではリカバリーできないこともあります。

国語に関してはもっと緩やかなカーブ、というか、横軸を時間、縦軸を難度、としたグラフにしたら、ほぼほぼ右上がりの直線になると思われます。

社会は、地理と歴史とどちらがスっと入っていけるか、の違いはあるとは思いますが、これも国語同様、ある時期を境に急に難度が増すものでもないだろう、と思います。(ただし、公民になると途端に覚えられなくなる生徒は一定数います)

しかしそうは言うものの、今の時期(5年5月)でも四谷のカリキュラムで言えば比こそ習っていませんが食塩水も損益売買も出てきているので、算数が苦手な子はもうジリジリと遅れていっているはずです。

ただ、損益売買の得手不得手は、割合の概念が身についているかどうか、よりは、「売価(時として定価になり、時として売り値になり)「原価」(これも仕入れ値という名前で出てきたり)、「利益」、という小5にはどう考えても早すぎる語句が整理出来ていないケースは多く、算数のセンスと無関係であることもしばしばあります。

(生徒)「1割で売った」
(先生)「あのなぁ…その日のうちに倒産するわ」

なんて、この時期、あるあるの会話ですね。

(Q)5年生よりも前の段階で家庭でできることは何でしょうか?

計算練習が大切なのは言うまでもありません。4.2対1.4を瞬時に3対1と分かるか。225対150が3対2と言えるか。(いちいち5で割っていかずに) 1時間20分対3時間ならどうか。これも、80対180に一旦直すのでなく、20分という塊×4つ対×9つ、と見れるかどうか。

これはどれだけ計算をしたか、に基本的に依拠する部分です。

それ以外で言うと、日常の中で比を意識させることでしょうか。

「このお菓子、君が弟の倍になるようにわけられるかな?」みたいな感じです。

あるいは「水が3分でこれだけ入ったら、15分たったらどれだけになるかな?」のような比例の概念も良いでしょう。

先日、電車の中であるお父さんが子供に、サッカーの話をしていたのですが「前半15分で2点取られたら、試合終了の時、何点取られてることになると思う?」と聞いていました。うまいな、と思いました。野球好きなら「防御率」など最適ですよね。その投手が9回投げたら何点取られるか、まさしく比と比例です。

そのような会話を交えていくことは将来必ず役立ちます。ただし、気をつけねばいけないのは、大人が熱くなりすぎて苦手意識を植え付けてしまうこと。日常生活に比を持ち込むのはいいのですが、うまく答えられないときにお母さんがキレたりしたら、お子さんは「比は怖い」と思ってしまいます。スムースに入れるように、という親心が仇になってはいけません。キレない、までも、何でもかんでもそこに繋げるとギスギスしてしまいます。たまに、を心がけてください。

算数が得意なお子さんは、比の概念の先取りを少しずつ。不得手なお子さんは、比が出てきた後にもたつかないように、計算をしっかりしておくこと、となりましょうか。(2021/5/3)