「行ってしまったか」

「行ってしまいましたね」

 

カメ爺とカメ婆はカメ子とカーメルが飛んで行った空を見上げながらそれぞれに呟くと、それぞれの思いに耽った。

 

カメ婆はもう帰って来ることの無い二人の顔を思い浮かべ、二人と過ごした日々を思い起こしていた。

人間のように一つ屋根の下というわけではないが、同じカメムシとして何かあれば助け合いながら生活をしてきた。

その中で時にはこちらの言う事に反発する事もあったやんちゃな娘達であったが、今となってはそんなことも含め、触れあった時間すべてがかけがえのないものだと感じた。

そんなカメ子とカーメルの思い出話しでもしようとカメ爺を見ると、カメ爺は眉間にしわを寄せじっと目をつむっていた。

それを見たカメ婆は、きっとカメ爺はこれからの戦いの事を考えているに違いないと思い、話しかけるのをやめた。

 

この時カメ爺は若かりし日に行った人間の世界での出来事に思いを馳せていた。

たった一日ふつかの出来事だったが、片時も忘れる事の無い出来事であった。

それは若かりし日のカメ蔵がカメムシの世界に帰ってからも、そしてカメムシの長カメ爺になった今でも忘れた事のなかった母子、勝一郎と母ミチの事である。

カメ爺は今でも目を閉じると勝一郎、そしてその母ミチの姿をはっきりと思いだすことが出来た。

別れ際、母ミチは言った「あなた達は自分達の世界に戻っても戦争なんかしてはダメだ」ミチは涙ながらにそう叫ぶ様に言った。

カメ爺は今になって強く思うのは、あの時のミチの言葉はただの言葉ではなかったに違いない。

それは何があっても命を粗末にする戦争などしてはならないという心の底からの叫びであり、息子勝一郎を特攻隊にとられた母親としての悲しみの叫びだったのだ。

ミチはそれを人間とカメムシの違いこそあれ、未来ある若者という事で自分達にも伝えてくれたのだ。

しかし、今回の戦いはどうあっても避けられぬもの。

これは人間達ではどうにもならぬことで、自分達カメムシが行かなければこの世界は、いや、この星はなくなってしまうのだ。

そう、これはカメムシでなければならない。

そう思うとカメ爺は心の中で優しく微笑むミチに詫びた。

 

「母上殿、申し訳ありません。母上殿と交わした約束を破り戦いに出向かなけばなりません。何故ならこの戦いは我等カメムシでなければならんのです。今この星を守れるのは我等カメムシしかいないのです。しかし、若い命は無駄にはいたしません。若者にはこの世界に残り未来の為に生きていってもらい、私を先頭に年老いた者達が戦いに出ます。このカメ蔵、戦争などするなという、母上殿との約束は破ってしまいますが、どうかこれでお許しください」

 

カメ婆は何も言わずただ黙したきりのカメ爺の横顔を同じ様にただ黙って見ていた。するとその頰に光るものが頬を伝った。

この時、声をかけようとも思ったが、カメ婆は声をかける事はしなかった。

やはりカメ爺が目を開くのを待った。

カメ爺が再びの号令をかけるのをただ待っていた。

その待っている時間は長いようでもあり短い様でもあったが、カメ婆には無駄な時間には感じられなかった。

その待っている間カメ婆はずっとカメ爺の横顔を見ていた。

そしてどれくらいの時間が過ぎたのかわからなかったが、カメ爺は眉間の皺を解くとぼそっと独り言の様に何か呟いた。

自分に何か言ったのか?

聞き取れなかったカメ婆は真剣な表情でカメ爺の顔を見た。

するとカメ爺はそんなカメ婆に向かって照れくさそうに言った。

 

「なぁカメ婆よ、このわしに付いてきてくれるか」

 

その問いにカメ婆は満面の笑みで答えた。

 

「もちろんですじゃ」

 

カメ爺はカメ婆の答えを聞くと、満足そうに何度もうんうんと頷いた。

そして集まっている大勢のカメムシの方へ向くと凛とした声で言った。

それはこれから戦いに向かう者達への号令であった。

 

「聞け! 戦う決意をしてくれた年老いたカメムシの者達よ。たった今よりその命このカメ爺に預けてくれ!」

 

そうカメ爺から声を掛けられたカメムシ達は、年を取っているとはいえ、どの顔にも興奮の色が見えやる気が漲っているのがわかる。

その決意の顔色にカメ爺は手ごたえを感じはしたが、何か一つ忘れた様な、もう一つ何か言わなければならないことがあるような気がした。

しかし、こういう一大事の時、特に今回は命をかける一大事だ。

不安から何か物足りなさを感じるのも不思議ではないのかもしれない。

そう思うとさらに力を込め、皆を鼓舞した。

 

「我々はこれから戦いの地に飛んでいく。そしてその先頭にはこのカメムシの世界の長であるこのカメ爺が立つ。良いか皆の者、我に続け、我に続くのじゃ!」

 

そう言うとカメ爺は天に向かって右手を突き上げた。

そしてカメ爺の意気を感じた年老いたカメムシ達も声をあげた。

これで戦いの火蓋は切られた、カメ爺だけでなくその場にいた多くの年老いたカメムシ達はそう思った。

この大勢のカメムシ達が向かっていくならば、どんな敵であろうと相手ではない。

皆そう思った。

カメ婆もそう思った。

しかし、カメ婆には一つだけ腑に落ちないことがあった。

いよいよ出発しようというこの時に自分口からこんな事を言っていいものか、もしかしたら士気を下げる事になるのではないかとも考えたが、これが最後なのだからと、思い切って自分の思いをカメ爺に話してみた。

それはただの話というより、カメ婆の心からの訴えでもあった。

 

「なあカメ爺よ、長く生きてきた我等には体中に多くの傷を持つ者もおり、また、体の自由のきかぬもの物もおる。中にはもうすぐ寿命を迎える者もおるでしょう。そう、確かに我々は年老いております。しかし、我々には若いカメムシには無いものがある。それは知恵じゃ。若者がこれから身につけていくであろう、いや、身につけていかねばならぬ知恵がありますのじゃ。我々はこの年になるまでにこの頭に、そしてこの体に刻みこんできた知恵があるのです。そしてこの知恵は今回の戦いでも必ずや役に立つことでしょう。そう、この知恵があるからこそ、我々はどんな困難にも立ち向かえる。そうでは無いか? 」

 

そこまで言うとカメ婆は、もう一度自分の胸に問いかけた。

皆が飛び立とうというこの時にこんな話をしていいものだろうか。

しかし、本当に重大な一大事だからこそ、言っておきたい、いや、言うべきなのだ。

そう自分の心の思いを確認した。

自分も未来の為にこの命を差し出すつもりでいる。

カメ婆はこの時、遺言でも語るかのような気持ちでいた。

そして、その厳粛な気持ちのまま更に話を続けた。

 

「その他に、我等には技がある。それはやはり若いカメムシがこれから身につけるものじゃ。我等年老いた者達は若かりし頃より、何度も何度も失敗をして、何度も何度も悲しみや苦しみの挫折を経験し、それを乗り越えて身につけた技がある。その技は若いカメムシ達がこれから経験して身につけていくものじゃ。我々にはそういった熟練した技がある。その技の熟練者ともいえる者達が命をかける時の号令が、ただ年老いた者というのはいかがなもんじゃろう」

 

そこまで言うとカメ婆は申し訳なさそうな顔をして下を向いてしまった。

 

確かにこの号令を機に戦いに飛び立とうという所だった。

しかし、カメ婆はどうしても口にせずにはいられなかった。

皆がどう思っているかわからなかったが、皆が命をかけ戦いに臨む今だからこそ、カメ婆にはそうする事が正しい事だと思ったからだった。

 

カメ爺はこのカメ婆の話を聞いて驚いた。

それは話の内容もそうだったが、カメ婆が自分の心の内をこうまではっきりという事は今まで無い事だったからだ。

カメ婆は自分と共にカメムシの世界の事を共に悩んで、共に笑って過ごしてきたが、普段はカメ爺の影となり働いていてくれていたので、カメ爺に対して物を言う事など皆無だった。

それが、こうして自身の心の内を強く訴えかけて来るという事が、カメ爺にとって驚きともいうべきことだった。


「どうしても言っておきたかったのじゃ」

 

カメ婆はカメ爺と目が合うと申し訳なさそうな顔のままぽつりと言うとそれきり黙ってしまった。

そんなカメ婆を見てカメ爺は、きっと自分の訴えが水を差したと思い、反省をしているのだろうと思った。

しかし、カメ婆の心からの訴えは、カメ爺の胸の奥深くに突き刺ささり、その心を大きく揺さぶっていた。

これだ、これが必要だったのだ、カメ爺は心からそう思った。

最後のピースがちゃんとはまらなければならない所にはまり、全てが腑に落ちる思いだった。

そして、カメ爺は満面の笑みをたたえながら、下を向いているカメ婆に言った。

 

「流石はカメ婆じゃ。その通りじゃ、本当にその通りじゃ。飛び立つ前に言ってくれ本当にありがとう」

 

そう言うとカメ爺はもう一度号令をかけさせて欲しいと言った。

 

「皆の者、これが最後じゃ。よく聞いてくれ」

 

カメ爺はゆっくりと目の前にいる大勢のカメムシ達を見渡した。

右から左へ、そして左から右へ。

全ての顔を記憶でもするかのように、出来る限りその場のカメムシ達と目を合わせながら、その顔を心に刻んでいた。

その作業が人心地着くと、カメ爺はもう一度ゆっくりと話始めた。

聞き入るカメムシ達はカメ爺の声が先ほどと違ってい、更に力を込めているのがわかった。

 

「先程までこの戦いに向かう皆の事を、年老いたカメムシ達言っておったがまずそれを詫びさせてくれ」

 

カメ爺はまず頭を下げた。

そして続けた。

 

「今このカメ婆に言われたのじゃ、我々はただの年寄りではないと、年は食っておっても我々には若かりし日より学んだ知恵があり、熟練した技があると。そうじゃ、その通りじゃ、本当にそのとおりじゃ。それなのにわしはそうした皆を、もちろん自分も含めてじゃが、ただ年老いた者としてしまった。そこで再度号令をかけさせてほしい。これから戦いに臨む勇者たちに最後の号令をかけるので聞いて欲しい」

 

知恵があり熟練した技を持つ者、そしてそれを武器に戦いに臨む勇者たち。

 

その言葉は、ただの言葉では無くここから飛び立とうとしているカメムシ達への最大の敬意だった。

その場にいる多くのカメムシ達の顔は紅潮し、更に士気が高まっていった。

そしてカメ爺がかける最後の号令で、それは一気に最高潮に達した。

 

「聞け! カメムシの世界の知恵者よ、カメムシの世界の熟練者達よ。この度の戦いでカメムシの世界の長、このカメ爺にその命を預け、共に戦え! 人間に託されたこの誉れを胸に、カメムシの未来の為にその気高き働きを見せてくれ! 良いか!」

 

それに応えるカメムシ達の声も先ほどよりも更に大きくなっていた。

それは足元の地面を揺らし風をも躍らせた。

カメ爺の叫びは皆に勇気を与え、戦う力を与えた。

そしてその隣でカメ婆はこれで心置き無く戦いに向かえる、そう思うと自然と涙が頬を伝った。

 

こうしてカメ爺を先頭にカメムシの世界の知恵者と熟練者達は戦いの場へ飛び立って行った。