「ごめんなさい丸男。もう大丈夫よ。ありがとう」
「でも・・・」
「ううん。もういいの。誰が悪いんでも無いわ。だから丸男も一人で責任を背負いこむような事はしないで。ちょっと取り乱しちゃったけどお母さんもう大丈夫だから」
そう言うとお母さんは僕の背中を優しくさすってくれた。
その隣でお父さんもお母さんのいう通りだよとぽつりと言った。
ただその一言だけ。
見るとお父さんも泣いていた。
結局、呼び笛を吹いてもカメ子とカーメルを呼び戻す事はできなかった。
それでもその事がきっかけになったのか、お母さんは落ち着きを取り戻していた。
だけど、僕はその逆で今までの不安が全て爆発した。
家まで帰ってくる途中、呼び笛を使えば二人を呼び戻せる、僕はそう思っていた。
又、そう思う事によって安心し、色々な不安を心に沈めておく事ができた。
でもそれが駄目だったとわかった時、僕の中でタガが外れたというか、張り詰めいていた全ての緊張の糸が切れた。
今なぜここにいるのか、何をしなければいけないのか、今はもう何も考えられない。
ただ、今はっきりしてる事は、もう二人を呼び戻すことは出来ないんだという事。
二人はもう帰ってこない、それだけが事実。
そう思うと色んな事が思い出されて涙が止まらない。
僕はこんな形で終わりを迎えるなんてどうしても納得できなかった。
さよならだってちゃんと言えてないのに。
そんな僕を、気持ちの切り替えができたお母さんが慰めてくれていた時、突然家がカタカタと揺れ始めた。
「ねぇ、ちょっと揺れてない」
「ああ、揺れてる」
お父さんとお母さんは地震だ、と慌てだしたけど僕は違った。
僕はその揺れを感じた瞬間、涙が止まり、気持ちが切り替わった。
家が揺れた事で正気というか、はっきりと元の自分に戻る事が出来た。
それはお父さんやお母さんの様に地震で慌てたからじゃない。
何故なら僕はこの地震の正体を知っているからだ。
そう、この揺れは・・・間違いない。
ドスン・バタン・ドテン
ドスン・バタン・ドテン
揺れが収まると同時に、二階に何かが落ちた音がした。
僕達三人は同時に天井へと目を向けた。
「これって・・・・・」
お母さんは震える声で言うと僕の顔を見た。
お母さんもこの音には聞き覚えがあるんだろう。
そしてお父さんも信じられないという顔でこっちを見ている。
僕は二人を見てゆっくり頷いた。
そして自分が思っている事、いや、今ここで三人が思ってる事を口にした。
「二人が帰って来たのかもしれない」
二人が、と言ったけど、誰が帰って来たのか、僕はその名前を口にしなかった。
というより、怖くて口に出来なかった。
もし二人の名前を口にして、そこに二人がいなかったら、今の音が二人が落ちて来た音じゃなかったら、今度こそ僕の心は粉々になって立ち直れないような気がしたからだ。
正直、二人の顔を見るまで安心できない。
ドアを開けたら二人がそこに立っていて、ただいまといつもの笑顔で言ってほしい。
十数段の階段を上がって来る間、僕はそう心の中で思い続けた。
そして部屋の前まで来ると、気持ちを落ち着かせるために一呼吸ついた。
このドアを開ければ二人がいるはず、いや、いて欲しい。
カメムシの世界から帰って来た全身緑の女の子、カメ子とカーメルが。
そう思いながら僕はゆっくりとドアを開けた。
「お帰りカメ・・・子・・カーメ・・ん?」
そこには僕に背を向けて立っている二人の女の子がいた。
カメ子とカーメルに違いないと思う。
でも、何かおかしい、何かが違う。
なぜだろう、僕は二人を前にして戸惑っていた。
そんな、おかえりの言葉さえ口から出ない僕に気づくと、二人の女の子はゆっくりとこちらを振り返った。
そして髪の短い方の女の子が残念そうに言った。
「まるお~、あたしたち人間になっちゃった~」
人間に? なっちゃった?
今目の前にいるのは確かにカメ子とカーメルだった。
だけど、二人に感じるこの違和感はなんだろう。
変じゃ無いといえば変じゃない、でも何かが変わった様にも見える。
勿論、二人が帰って来た事は嬉しい、嬉しいんだけど、僕はその違和感に首をかしげていた。
「ねぇ丸男、呼び笛吹いたでしょ?」
「うん。吹いたよ。音は全然鳴らなかったけどね」
「でもあたし達には聞こえたよ。ううん、あたし達だけじゃない。カメ爺もカメ婆も、そこにいた大勢のカメムシ達には聞こえてたんだよ。 丸男が吹いた呼び笛の音が」
僕とお母さんが吹いた呼び笛は、どんなに力一杯吹こうが、先から息が抜けるだけで音は鳴らなかった。
それが、どういう訳かわからないけど、カメムシの世界には届いていたようだ。
でも良かった。
本当に良かった。
僕は言葉ではなく、頷く事でそれを伝えた。
カメ子はそんな僕を見て照れくさそうに言った。
「ありがとう、丸男」
僕も何か言おうとしたけど、面と向かってありがとうなんて言われるとなんかこっちも照れくさくなって、僕は何も言わずもう一度頷いた。
言葉にしなくてもきっとわかってくれる。
その時僕はそう思った。
そしてカメ子は照れくさそうな顔のまま一歩だけ前に出ると僕の目を見て言った。
「あのね、カメムシの世界ではね、カメムシは呼び笛で呼ばれた世界で暮らすことが一番幸せなんだって」
そう言うとカメ子は、ね、と言ってカーメルを見た。
カーメルも照れくさいのか、何も言わずに頷いた。
でも、人間になったってどういう事だろう。
僕は二人に感じる違和感が人間になったという事に関係があるんだと思って聞いてみた。
「変なこと言う様だけど、本当にカメ子とカーメルだよね。なんか今までと、なんて言うか雰囲気が違うって言うか、なんて言うか、えーっと、そのー、・・・・」
僕がなんて聞いていいのか分からなくなってしどろもどろになると、カメ子は笑いながらホンモノだよと言って、カメムシの世界での事、そして呼び笛で呼ばれた時の事を話してくれた。
カメムシの世界ではカメ爺を中心に大勢のカメムシ達が集まり、一つ目との戦いに向け士気が高まっていた。
それはカメ子とカーメルの二人も驚く様な熱気をはらんだものだったと言う。
そしてカメ子は、あんなに大勢のカメムシが集まってくれるなんてと、話を始めたばかりなのにその目を潤ませた。
カメ子の潤んだ目を見て僕はその光景はさぞかし壮観なものだったんだろうなと思った。
しかし、話が進むと一つ目との戦いに向かう為にカメムシの世界に帰ったカメ子とカーメルに対して、カメ爺がそれを止めたと言う話は驚きというか意外だった。
戦いに行くためにカメムシの世界に戻ったカメ子とカーメルは、戦いに行かせることは出来ないというカメ爺と言い合いになったんだと話してくれた。
それはカメ子とカーメルだけじゃなく、全ての若いカメムシ達に対してで、戦いには若者ではなく年寄りだけで行く、なぜなら未来のある若者に命の危険がある戦いに参加させる事は出来ないというカメ爺の考えからで、カメ爺はその考えを頑として譲らなかったらしい。
僕はその話を聞いて、心の中でカメ爺に感謝すると同時に自然と涙が込み上げた。
僕は戦争というものは学校の授業やテレビで観たり聞いたりした事があるだけで、本当の戦争というものを知らない。
だけど、人間の世界での戦争は若い人達が兵隊として戦地に向かわされる事ぐらい僕だって知っている。
未来ある若い人達が戦争という名の下で命を落としていく事を。
それをカメ爺は未来ある若者の命を残し、自分達年寄り連中が率先すると言う。
勿論、戦争である以上年寄りのカメムシ達にだって命の危険はあるはずなのに。
僕が涙を流すとそれまで何も話さなかったカーメルが丸男と僕の名を呼び、何度も小さく頷いた。
そんなカメ爺と話が平行線になっている時、突然どこかから聞こえてきた音色が僕達が吹いた呼び笛だった。
呼び笛の音色は初めは微かに聞こえていた程度だったけど、あっという間に辺りに響きはじめた。
それと同時にカメ子もカーメルも何かに吸い上げられる強い力に襲われた。
二人は必死に抵抗したけど、結局抵抗虚しくその力に引っ張られるままにここに帰ってきたと言う。
それは本当にあっという間の出来事だったけど、その抵抗している最中にカメ爺が、カメムシは呼び笛で呼ばれたところで暮らすのが一番幸せなんだという事を教えてくれたんだと言った。
カメ爺は人間の世界で暮らすのであれば緑の肌は必要がないだろうと、カメ婆に頼み魔法の杖の力でその肌の色を抜き、見た目も全て僕達と同じになったという事だった。
その話を聞いて、やっと僕は二人に感じた違和感がなんであるのか分かった。
そしてカメ婆は二人を人間にする時にカメ子には癒しの力を、カーメルには聴く力と話す力を与えてくれた事も話してくれた。
その力がどんな力なのか僕には想像もできないけど、きっと二人に必要な力なんだろう。
とにかく驚く事ばかりだった。
でも、そんなの今更かと思うと今度は自然と笑みがこぼれた。
とにかく二人が帰って来て本当に良かった。
もう会えないかと思っていたのにこうして帰って来てくれて本当に良かった。
それにしても、帰ってきた早々「人間になっちゃった」とはなんともカメ子らしい言い方だなと思った。
そこへ、後ろから絶叫と言ってもいいくらいの声でお母さんが叫んだ。
「カメちゃん!」
カメ子もお母さーんと叫ぶと、その胸の中に飛び込んだ。
そんなカメ子とお母さんを見てカーメルが何やらモジモジしている。
僕がカーメルにどうしたのと聞こうとした時、横からお母さんが言った。
それはまるでカーメルの気持ちがわかっているかの様だった。
「カーメル。あなたはミヨさんのところへ、ううん、あなたのお母さんのところへ早く帰ってあげなさい」
カーメルは、はい、と元気よく返事をすると弾む様に部屋を出た。
僕は素直に返事をしたカーメルに驚いた。
今までのカーメルなら、言われなくてもそうするわよ、とか、あたりまえじゃない、とか、どうしてもとげのある返事になっていた。
それがカーメルの普通なのに、今日は素直に返事をした。
それに返事をしたカーメルの顔はとてもきれいに見えた。
きれいと言っても、目鼻立ちがくっきりと、といった見た目の事だけじゃない。
何かとても凛とした感じがした。
よく見るとカメ子からも同じような感じがする。
確かに天然の部分は相変わらずのようだけど、二人は何かこう、逞しくなったように思う。
色々あったけど、カメ子もカーメルも命がけだった分、成長したのかも知れないなと思った。
そんな事を考える自分を、ちょっと偉そうだなと思い、照れくさいというか気恥ずい気持ちになった。
僕はそれを笑う事で誤魔化としたけど、お母さんは何か感じたようで、どうしたのよ、と聞いてきた。
僕は何でもないよと笑顔のままお母さんに言った。
そして、帰って来た二人に一番に言わなければならない言葉を言ってなかった事に気づいた。
「おかえりカメ子」
僕が言うと、カメ子も、あっ、と自分も言ってなかった事に気づいたらしい。
「ただいま丸男」
カメ子も照れくさそうに返事をしてくれた。
「嫌だ嫌だ、戦争は嫌だ。 神様はあたしからおじいさんを連れて行ってしまったのに、今度はカーメルちゃんまで連れて行ってしまったの。神様を嫌いになりそうよ。だってあたし、また一人になっちゃったんだもの」
ミヨは以前、近所から猫のおばあさんと呼ばれるほど沢山の猫をかっていたが、自身の年齢を考え多くの猫は里親に出し、今は二匹だけになっていた。
そして今、その猫たちに自分の愚痴を話していた。
その手にカーメルが置いていった手紙を大切に持ちながら。
猫たちもミヨの気持ちを察しているかのように、体をこすりつけるように甘えるそぶりをしていたが、突然何かの気配を感じ急にさっといなくなってしまった。
そんな猫たちの動きを不思議に思い、ミヨは庭の方を見た。
自分の座る位置からはちょうど逆光になっており、その顔は見えなかったが、そこに人がいるのはわかった。
自分を訪ねてくる人など滅多にある事ではないし、ましてや庭に回ってくる人などいるはずはない。
「サチコさん?」
ミヨはその眩しさに目を凝らしながら、人型の影にそう問いかけると、その影はゆっくりとした調子で話しはじめた。
「ううん。あたし。帰ってきちゃった」
ま、まさか。
その声を聞きミヨは自分の耳を疑った。
いままでありがとうと書置きを残し行ってしまってから、もう二度と会う事はないだろう、その声を聞くことも出来ないだろうと思っていた。
それが今、目の前にいる。
ミヨは驚きながらも目の前の人型の影にぽつりとつぶやくように言った。
「カーメルちゃんなの?」
ミヨはあまりにも突然の事すぎてそう言葉にするのが精一杯だった。
ただ、神様は一番大切なものは返してくれたと思うと心が震えた。
そして嫌いになりそうだと口にしたことを恥ずかしく思い心の中で手を合わせた。
「神様ごめんなさい。でも本当にありがとう」
そう心の中で神に詫びるとミヨの頰に静かに涙がつたった。
「そう、カーメルよ。でもね、あたし達ね、カメ爺に、お前達は人間の世界で暮らすのが幸せなんだって言われて戻されちゃったの。 でね、人間の世界に住むんなら人間になれって、あたし達人間にされたの。だからね、あたしはもうカメムシのカーメルじゃなくなちゃったの。でもね、カメ子は丸男のうちがあるけど、あたしはいくところもないし、またここに置いてもらおうかなって思って来ちゃったの」
その時、黒い影の正体を知った二匹の猫たちも戻って来てカーメルの足元にじゃれついた。
それはまるでカーメルが帰って来た事を喜んでいるようだった。
「この子達に会うのも久しぶりね。あ、そうそう、カメ爺から聞いたんだけどあたしとカメ子は姉妹なんだって言われたの。 いきなりそんなこと言われてびっくりしちゃった」
そこまで言うとカーメルは大きく息を吸い、そしてゆっくりと吐いた。
それは気持ちを落ち着かせる為にしているのだという事は分かったが、何を言う為に気持ちを落ち着かせようとしているのかわからなかった。
ミヨは黙って次の言葉を待った。
「あたしね、人間の世界に来る前に色々と人間の事を調べてたの。 それでね、人間て自分を産んでくれた人と一緒に暮らすでしょ? それが羨ましいなと思ってたの。それとね、お母さんて言う言葉も素敵だなって思ってたの。温かいって言うか、優しい響きで。あたし達カメムシにはお母さんなんていないけど、もし、呼べることがあれば呼んでみたいなと思ってたの。でね、カメ子は人間の世界に来てお母さんが出来たでしょ? あたしね、カメ子の事なんて一度も羨ましいなんて思った事なかった。 本当よ。でも、カメ子にお母さんて呼べる人が出来た事は羨ましいっていうか、なんて言うか、それだけはいいなって思ってたの。それでね、あのね、あたしね・・・・」
カーメル自身も何をどう言ったらいいのかわからなくなっていた。
何を言ったらいいのか、何を言うべきなのか。
ただ懐かしいこの家でもう一度暮らしたい。
こんな自分の事を家族として大切に思ってくれた人と暮らしたい。
その他色んな感情や思いを一気に話してしまおうとすると混乱し、考えれば考えるほどわからなくなっていった。
そんなカーメルを見ていたミヨはその気持ちを理解した。
やっぱり心は通じている。
ミヨはそう思った。
そしてまずは自分が気持を伝えようと思った。
そうすればカーメルも自然と自分の気持ちを口にすることが出来るかもしれない。
「そんなところで何を言ってるの。 ここはあなたのおうちじゃない。さあ、早くお上がんなさい」
そう言うとミヨは両手を広げた。
そして今まで言おうとしても言葉に出来なかったカーメルへの思いを言葉にした。
「さあ、こっちへ来てカーメル。あたしの娘カーメル」
カーメルはミヨの優しい笑顔を見て、やっぱり自分の居場所はここなんだと思った。
そしてカーメルはミヨの胸に飛び込んだ。
その胸の中でカーメルは恥ずかしそうに、お母さん、と言った。
ミヨはそんなカーメルを強く抱きしめた。
「お帰りカーメル」
そうして不思議な絆で結ばれた二人は再会の喜びを分かちあった。