勝一郎はある一軒の家の前で来ると姿勢を正しその家を仰ぎ見た。

そしてゆっくりと引き戸を開けると一呼吸おいて力を込めて言った。

 

「勝一郎、ただいま帰りました」

 

その姿はここに来るまでの勝一郎とは違い、緊張感に身を包みとても厳かな感じがした。

 

勝一郎は山を下り家に向かう途中、人間の世界の話を色々してくれた。

カメ蔵もヤンバルも人間の世界の事を知ってるといっても大まかな事しか知らなかったので、勝一郎の話す人間の世界の話は新鮮で、何よりとても楽しかった。

楽しいというのは知らない事を知るという事もそうだったが、多くは勝一郎の話し方にあった。

勝一郎は話の最中、身振りや手ぶりを交え、時には声の調子を上げたり下げたして面白おかしく話してくれた。

話の途中勝一郎は言った、自分は人を笑顔にするのが好きだと、人の笑顔を見るのが好きなんだと。

数日後には特攻隊として突撃していかなければならない緊迫した状況という事は分かっていてもこの勝一郎の話し方のおかげで三人の笑顔が絶える事はなかった。

歩き始めてから終始その様な感じだったので、ここに来てこのいきなりの変わりようにカメ蔵とヤンバルの二人は戸惑った。

もしかしたらこれは人間が行う何かの儀式なのかとも思ったが、勝一郎の雰囲気から声を掛ける事も出来ず、二人は勝一郎を後ろから見守る事しか出来なかった。

そんな重い緊張感の中、家の中から声が聞こえてきた。

その声振りは勝一郎に比べ高かったが明るく優しい感じがした。

カメ蔵もヤンバルもその声に心地良さを感じた。

そしてその声を聞いた途端、勝一郎はそれまで固く結んでいた口をほころばせ笑顔になった。

 

「あら、お帰んなさい」

 

玄関で三人を出迎えてくれたのは母親のミチだった。

ミチは息子の突然の帰宅に驚いてはいたが、その表情は優しさく穏やかで、声も明るく弾んでいた。

初めて会うカメ蔵とヤンバルにもそれが喜びの印だという事はわかった。

そんな母親を見て微笑ましい心持ちなっているカメ蔵とヤンバルに、勝一郎は後ろを振り返ると絶対言わないでくれよと小声で言った。

そう言われカメ蔵とヤンバルは勝一郎がここに来るまでの間に話してくれた家族の話を思い出した。

 

 

「なあ勝一郎、お前のうちに行くって事はお前の家族にも会うって事だろ? 本当に俺達が行っても大丈夫か?」

「ああ大丈夫だよ。心配するなよ。うちの両親もきっと喜んで迎えてくれるよ」

 

カメ蔵とヤンバルも人間が家族という単位で生活をしている事は知っていた。

その家族という人間の営みに触れられるという事に二人はとても興味をそそられていた。

人間は自分を産んでくれた者と住処を同じくし、子が独り立ちするまでその単位は続く。

カメムシの二人にとってそんな人間の生活を羨ましく思っていた。

特に家族というものに強く興味を惹かれていたのはカメ蔵の方で、率直に自分の思いを勝一郎に話した。

 

「でもいいよな。俺達カメムシは家族で暮らすって事がないから羨ましいよ」

「羨ましい?」

「ああ。俺達カメムシの世界では、メスのカメムシは俺達を卵で産むと違う場所へ飛び立って行くんだ。それが俺達の世界では普通の事なんだ。だから、自分を産んでくれた者と一緒に暮らす事なんてないんだよ。でもよ、メスが卵を産むっていうのはその産卵中に何かに狙われるかも知れないし、ある意味命がけだろ? そんな思いをして自分を産んでくれた人と一緒に暮らすなんてすごい事じゃないかって俺は思うんだよ」

 

そしてカメ蔵は産んでくれた人と暮らせるというのは楽しいんだろうなとも言った。

すると勝一郎は、はははと笑いながら話してくれた。

 

「それなら俺も同じかもしれん。確かに父も母もいるが、今の母は俺の産みの親ではないんだ。俺を産んでくれた母親は俺が五歳の時に病気で亡くなった。そしてその一年後に父の後妻としてやって来たのが今の母親だ」

 

勝一郎は何でもない事のように話したつもりだったが、まだ会ってもいない人との関係を突然カミングアウトされ、カメ蔵もヤンバルも返事に困ってしまった。

そんな困り顔をしている二人を見て、ごめんごめんと言いながら尚も明るい調子で話を続けた。

 

「そんなに暗い顔するなよ。人間の世界には父親がいないうちも、母親がいないうちもある。その家族家族でいろんな事情があるんだ。それに産みの母じゃないと言っても、今の母親は俺を本当の息子として育ててくれたよ。何よりも大事に、誰よりも大切にな。その事は他ならぬ俺が身に染みてわかっている。だから俺は最後に会いたい人は誰かって聞かれたら間違いなく母親って答えるよ。で、今回は本当に最後になっちまうってわけだがな」

 

カメ蔵とヤンバルは勝一郎の口から最後という言葉を聞くとドキリとして余計に調子を合わせる事が出来なかった。

そんな二人の気持ちをよそに勝一郎はこれだけは約束してくれと、神妙な面持ちになった。

それは両親には自分が特攻隊員だという事は絶対に言わないでくれという事だった。

それはカメムシの二人にとってとても不思議な事に思えた。

一度突撃してしまえばほぼ間違いなく生きては帰って来ることは無いだろう。

それなら直接会うこの最後の機会にきちんと説明したほうが良いのではないかとカメ蔵もヤンバルも思ったからだ。

しかし、勝一郎は頑なに約束してくれと言う。

カメ蔵とヤンバルはおかしいと思いつつも、勝一郎から何度も念を押されると、これが人間の考え方なのかと、その気持ちを理解したわけではなかったが、とりあえず約束すると答えた。

 

 

 

「ねぇ、後ろの方はお友達?」

 

ミチはカメ蔵とヤンバルにも優しく声をかけたが、その裸同然のその姿には驚いた。

 

「それ葉っぱでしょ?  いったい何があってそんな格好してるの?」

 

そう言うとミチは粗末な者だけど葉っぱよりはいいでしょとカメ蔵とヤンバルに浴衣の様な薄い着物をくれた。

 

杉の木の上から落ちて来た時カメ蔵とヤンバルは、所謂裸同然の姿で落ちて来た。

本人達にして見たら普通の姿だったので気にはしてなかったが、勝一郎から人間の世界ではそんな裸で歩き回る奴などいないと言われ、何か身に纏う物を探してみたが山の中で身を包む物といったら葉っぱしかなく、仕方なく大きめな葉を体に巻きつけそれをつるで縛りあげるという物だった。

その姿はミチだけでなく、後から出てきた勝一郎の父勝男も驚かずにはいられなかった。

 

「まるで山賊にでもあって身ぐるみはがされたようだな。ま、とにかく遠慮せずにおあがんなさい」

 

そうして勝一郎の両親は突然の息子の帰郷とともに現れたカメ蔵とヤンバルを嫌な顔ひとつせずもてなしてくれた。

といっても、出された食事はほとんど具が無く微かに色がついているだけの汁とふかした芋がいくつかあるだけだった。

それは質素すぎるほど質素でカメムシの世界で聞いていた人間の食事とあまりにもの違いに驚いた。

カメ蔵もヤンバルも人間の世界に来るにあたって、どんな人間に会えるだろうという事が一番重要な事だったが、それでもほんの少しの旅行気分が人間の世界での食事にも期待をさせていたので、正直多少がっかりした。

しかし直ぐにこれは勝一郎が話してくれた戦況の悪化が原因である事を理解すると、結局はこうして自分達の首を絞める様な有様になるのにとカメ蔵もヤンバルも憤りにも似た感情が湧き上がった。

カメ蔵は人間が行う戦争という馬鹿げた行為の事を考えた。

まだ口にする物があるうちはいい、その内そうはいかなくなるだろう。

どの世界においても争いごとが起これば病人や子供の様な立場の弱いものがまず危険にさらされ大変な目に合い、やがて食べ物にありつくことさえ困難になる。

それが戦争というものだ。

なぜ人間はそれに気づけないのだ。

特攻隊だって同じ事、余りにも愚かな行為だ。

何故だ・・・・。

そう考えるとカメ蔵の気持ちは沈んだ。

同じ事を考えていたヤンバルも箸に手をつけずに固まったままでいる。

 

「どうしたの? お腹減ってるんでしょ? 今はこんなものしかないし、大した物じゃないけど遠慮しないで食べなさい」

「で、でも・・・・」

 

こういう時どういう風にしたらよいのか心得ているカメ蔵はとりあえずありがとうと言って食事に手を付けたが、ヤンバルは申し訳ないという気持ちが先に立ち、自分の思いが口をつきそうになった。

するとミチは言った。

 

「あら、もしかしてあたし達の事気にしてるの? あたしとお父さんはさっき食べたばかりだから大丈夫よ。 あなた達は気にしないでお食べなさい」

 

カメ蔵とヤンバルはその言葉が直ぐに嘘だとわかった。

きっと今置かれたこの状況の中ではこれがこの家においての精一杯のもてなしであるのだろう。

苦しい状況の中こういう気遣いが出来る人間もいれば、戦争をする人間もいる。

人間の温かい心に胸が一杯になるが、後者の人間がとにかく不思議でならなかった。

しかしカメ蔵とヤンバルはこの時人間の世界にやって来て本当に良かったと思った。

今はこのもてなし受けよう、そしてその人間を信じようと思った。

そうしてカメ蔵とヤンバルは質素ではあるが、温かい心からのもてなしを受けた。

 

 

次の朝、カメ蔵は目を覚ますと同じ部屋に寝ていたはずの勝一郎の姿がない事に気づいた。

 

「おい、ヤンバル。起きろよ。勝一郎はどうしたんだ?」

「知らねえよ。用でも足しに行ったんじゃねえのか。 そんな事より頼むからもう少し寝かせてくれよ」

 

昨晩、カメ蔵もヤンバルも人間の世界での初めての夜に興奮していた。

その二人の興味のまとは部屋の中に敷いてある布団だった。

特にヤンバルのはしゃぎようはカメ蔵も呆れるほどだった。

カメ蔵もヤンバルも何かの上に寝るというのは理解できたが、掛布団の様に自分を包むようにする寝具はカメムシ達からするととても珍しかった。

カメ蔵は床につくと一日の疲れが押し寄せ自然と眠りについたが、ヤンバルは興奮して中々寝付くことができず、勝一郎相手にカメムシの世界との違いを遅くまで話していた。

そんなヤンバルを起こすのを諦めたカメ蔵はこっそり部屋を出た。

まだ勝男もミチも寝ている様で家の中は静まり返っていた。

すると居間で一人静かに背筋を正し正座をした勝一郎がいた。

この時の勝一郎には昨日この家に入る前と同じ様な緊張感が漂っていた。

それを見てカメ蔵は声を掛けてよいのか迷ったが、ただの挨拶の様に出来るだけ砕けた感じで声をかければいいだろうと思い声をかけた。

 

「よう、勝一郎」

 

カメ蔵に声を欠けられ一瞬ビクリとしたが、勝一郎も直ぐに返事を返した。

その返事からは緊張感は消えていた。

 

「おはようカメ蔵。早いんだな。ヤンバルはどうした?」

「あいつはまだ寝てるよ。 起こしたんだけど、まだ寝たいってさ」

「ははは。そうだよな。あれだけはしゃいで遅くまで起きてたんだからしょうがないな。あいつ、お前が寝ちまってからも凄かったんだぞ。でもま、ちょうど良かったっちゃ、ちょうど良かったよ」

「ちょうど良かった?」

「ああ、話し相手にな。実は俺も緊張で寝れそうもなかったんでな」

 

勝一郎の眠れないほどの緊張が何なのかすぐにわかった。

流石に片道の燃料と爆弾を積んで敵に突っ込んでいくなんてどう考えても常軌を逸しているし、異常な事としか思えなかった。

カメ蔵は特攻隊の話を聞いてから、そんな人間の考えを理解出来ずにいた。

しかし人間の事には決して口を出すまいと決めていたので、自分の思いを勝一郎に言う事はなかった。

寝れないほど緊張するのであれば、もしかしたらその心の内は自分と同じなのかも知れない。

そう思うと自然と口から言葉が出た。

 

「なあ、勝一郎」

「なんだ?」

「特攻隊ってのには絶対に行かなきゃいけないのか?」

「えっ?」

 

その瞬間、勝一郎の顔が強ばるのがわかった。

その部屋には明かりがなく、日差しもまだ差し込んでいなかったので顔色ははっきりとはわからなかったが、微かに震えているように見えた。

 

「もう決まってるんだ。 今更どうのなんて言えんよ」

「でも、どう考えてもおかしいだろ?  死にに行くようなもんじゃないか!」

 

「死にに行く」その言葉を聞いて勝一郎は語気を強め言った。

 

「ちがう! 俺はこの国を守る為に行くんだ!  俺が、いや、俺達特攻隊がこの国を守る! 俺達は愛するものを守る為に命をかけるんだ!」

 

カメ蔵は言葉を失った。

勝一郎もいい終えると激しく肩で息をするだけで、それ以上何も言葉を発しなかった。

沈黙がその場を支配すると、やがて重苦しい静寂がゆっくりと二人を包んでいった。