「サチコさん。サチコさんいらっしゃる?」

 

ミヨはカーメルと暮らすようになってから菱形家とは家族ぐるみでの付き合いをするようになり互いの家を頻繁に行き来するようになったが、ミヨが人の家に黙って上がるような事は今まで一度もなかった。

それどころかチャイムも鳴らさずドアを開けるという事すら今まで無い事だった。

そのミヨがサチコの名を呼びながら人の気配を探し上がり込んできた。

 

「あら、ミヨさん」

 

ミヨは勝手にごめんなさいと言うとカメ子はどうしてるかと聞いて来た。

その声と表情は普段のミヨとは違いサチコにもミヨがかなり動揺しているのがわかった。

 

「カメちゃん? カメちゃんがどうかしたんですか?」

「これがねテーブルの上に置いてあったの」

 

そう言うとミヨは持ってきた紙をサチコに見せた。

 

 

「あー、また ”ま” の字が逆さになってる。 それにいまままでって ”ま” が一つ多いじゃ・・・・えっ? なにこれ?  いままでありがとう? なによこれ・・・・・ミヨさんなんですかこれ? なにかあったんですか?」

 

書いてある文字は一目見て明らかにカーメルの物だという事はサチコにもわかった。

しかし書いてある言葉からは不吉な予感しかしない。

ミヨの不安な気持ちがサチコにも伝わって来た。

 

「それがね。あたしにもわからないのよ。これって、いままでありがとうってことよね? なんでカーメルちゃんがそんなこと言わなきゃいけないの?」

 

サチコはミヨの問いに言葉で返事は出来ず、真顔で見つめ返すしか出来なかった。

そんな呆然としているサチコにミヨは聞いた。

 

「それでね、カメちゃんなら何か知ってるんじゃないかと思って来てみたの。 カメちゃんはどこ?」

 

カメ子が家を出ていく時どこか表情が重たいように見えた理由が何だったのか今になってサチコにも察しがついた。

もしかしたらあの今まで感じた事の無い温かさはカメ子の最後の挨拶だったのかもしれない。

そう考えるとサチコは全身の力が抜けていき立ってるのがやっとだった。

 

「カメ子はさっき出ていきました。カーメルの様に手紙は置いていかなかったですが・・・・」

 

いつもならちょっとねなど言われると何かあるなと考えることが出来たが、さっきは今までにない温かさに包まれそれこそ何とも言えぬ心地良さの中にいたので、カメ子が出ていくなんて夢にも思っていなかった。

そこへ丸男が帰宅した。

 

「ただいまー」

 

丸男は家に上がるなりお腹空いたと言いながらテレビの部屋で呆然としている二人を見た。

 

「あ、ミヨさんこんにちは」

「・・・・って、ちょうだい」

 

サチコが丸男に震える声で言った。

最初その声は丸男には聞き取れなかった。

 

「えっ? なに?」

 

サチコは青ざめた顔で丸男を見ながらもう一度、今度ははっきりとした口調で言った。

 

「研究所へ連れてってちょうだい」

「研究所?」

「早く連れてってちょうだい」

「どうしたの突然」

「いいからあたしを研究所に連れてってちょうだい」

 

丸男には何が起こったのかわけがわからなかったが、とりあえず着替えてくるから待っててと言った。

 

「いいから 今すぐ連れてってちょうだい! 早く!」

 

普段からは考えられないくらい取り乱してるサチコに丸男はその場にカバンを置くと制服のままサチコを連れて家を出た。

 

 

 

「一週間後か・・・。うん、わかった。ありがとう」

 

カメ子もカーメルも東岸に話が伝え終えると改めて緊張が高まるのを感じた。

そして二人は東岸や増田等研究所で知り合った皆に簡単な挨拶を済ませるとカメムシの世界へ戻ろうとした。

しかし東岸はカメ子とカーメルは戻らなくてもよいのではないかと聞いたが、カメ子もカーメルもこれはあたし達にしかできない仕事だからと答えた。

それはカメ爺が言ったカメムシの気高さと言うべきものだった。

これには東岸も増田も返す言葉はなく、ただ、よろしくとだけ言った。

しかし坂東と菱形はそうはいかずどうしても戻らないといけないのかと食い下がったが、カメ子とカーメルの決心は変わらなかった。

坂東と菱形とは涙での別れになった。

その涙にはカメ子もカーメルも後ろ髪引かれたが、別れの言葉を伝えた。

 

「お父さん、坂東さん本当にありがとう。 でもね、人間との橋渡しをしたあたし達が行かなければいけないの。あたし達も寂しいけど元気でね」

 

笑顔で言うカメ子とは違って、二人の涙を見て感極まったカーメルは唇をかみしめるだけで別れの言葉は口にできなかった。

そこへ内線電話がかかって来た。

 

「東岸さん、菱形様の奥様がいらっしゃったという事です。どうしますか?」

「菱形さんの奥さん?」

 

東岸は少し考えたが、カメ子と最後の別れという事を考えると合わせあげた方が良いだろうと思いすぐに通すように言った。

それを聞いたカメ子の表情が曇った。

 

「カメ子・・・・・・」

 

カーメルがやっと振り絞るように言うとカメ子の手を握った。

そこへこちらですと所員に連れられたサチコと丸男がやってきた。

 

「カメちゃん! カーメル!」

 

サチコの一声で部屋中にいる者全てがその手を止めカメ子とサチコを見た。

静まり返る中サチコは言った。

 

「どこに行くの? まさか例の宇宙人と戦いに行くなんて言うんじゃないでしょうね。ダメよ。そんなの絶対にダメ。そんな事あたしが許さない。絶対に行かせない」

 

東岸はサチコが何しにここへ現れたがわからなかったが最後の別れを言いに来たのだろうくらいに考えていたのでカメ子とカーメルを止めに来た事に驚いた。

 

「お、奥さん。落ち着いてください。お気持ちはわかりますが、これはカメちゃんとカーメルちゃんじゃなきゃダメなんですよ」

「何がダメなのよ。自分の娘が戦争に行くなんて許せるはずがないでしょう。それにここは何なのよ」

 

そう言うとサチコは周りを見渡して言った。

 

「ここから戦いの指示をするんでしょ? それならここの人達に任せればいいじゃない」

「いや、それが我々じゃダメなんですよ。カメちゃんやカーメルちゃんにお願いするしかないんです」

「ここがダメならもうそれでいいじゃない。誰も文句なんか言わないわよ。ここがダメなら負けでいいじゃない」

 

サチコはいつの間にか涙声になっていたがその言葉ははっきりとしており、何を言っているかはその場の全ての耳に届いていた。

そしてサチコはその全ての者に向けて言うかのように更に声を張って言った。

 

「この子達が戦争に駆り出されるなんて絶対に許さない。そんな事あたしは絶対に許さない」

 

サチコの言っている事は無茶苦茶だったが、東岸はその迫力に押されそれ以上言い返せなくなってしまった。

その他の者も場を注視してるだけで誰も言葉を発するものはいなかった。

その静寂の中カメ子はカーメルの手を払いサチコに近づくと言った。

 

「違うわお母さん。あたし達は負けられないの。そんな事になったらこの国だけじゃなくこの星全体が滅んでしまうことになるの」

「だから何でカメちゃんがそんな所に行かなきゃいけないの?  カーメルあなたもよ。あんな手紙だけでミヨさんを残して行っちゃうつもり? ねぇ? ミヨさんだってあたしと同じ気持ちでいるわよ。いい? 死んじゃうかもしれないのよ。 そんなの絶対にダメよ。 あたしの・・・・あたしの娘が・・・・」

 

ミヨの名前を出されてカーメルはその拳を力一杯握った。

それはミヨに対する精一杯の思いだった。

その時カーメルはミヨの顔を思い浮かべた。

つっけんどんで誰に対してもお構いなしの自分に厳しく言う事もあったがその分誰よりも自分を受け入れてくれ娘のように接してくれたおばあさん。

得意の漬物の酸いた匂いも思い出されたがそれももう味わう事が無いのだと思うとそれすら懐かしく感じられた。

何を置いても自分の事に一生懸命になってくれ愛を注いでくれたあたしのおばあさん。

カーメルのその涙でくしゃくしゃになった顔からはそんな思いが聞こえて来た。

 

カメ子はその場にへたり込んだサチコの前へ来てしゃがみ込むと同じ目線で言った。

 

「お母さん、あたし達は死にに行くんじゃないわ」

「何しに行くのよ」

 

サチコの問いにカメ子は毅然として言った。

 

「愛する人達を守る為に行くの」

 

サチコは家を出る時に自分を包んだカメ子の温かさを思い出した。

二人は本当に行ってしまう。

カメ子の態度がそう示していた。

絶対に行かせはしない、そう思ってもサチコにはそれ以上何も言えなかった。

そしてカメ子はサチコの後ろで泣いている丸男に笑顔を向けた。

 

「丸男。今までありがとう。お父さんとお母さんをよろしくね。 それと・・・」

 

 

カメ子は一旦くぎると振り返りカーメルを確認してから付け加えた。

 

「ミヨさんの事もお願いね」

 

カーメルは涙に濡れた顔で丸男を見ながら何度もうなづいた。

そしてカメ子はカーメルに行きましょうと言って振り返るとふわりと浮かんだ。

浮かんだと同時に二人の姿は透けながら段々と小さくなっていった。

 

「カメ子! カーメル!」

 

その消えゆく姿に叫ぶサチコの声が部屋の中に響き渡った。