「じゃあ洗濯しちゃうからカメちゃんは二階のお父さんと丸男の部屋のお掃除しといてくれる?」

「はーい」

 

菱形が出勤し丸男が学校へ行くと家事を始めるサチコとカメ子。

これが二人の最近のルーティーン。

しかし一つ目が現れるまではこの時間にサチコが先生となりカメ子とカーメルに文字を教えていた。

それは一時間ほどのものだったがカメ子とカーメルから生活する中で気になったものを聞きサチコがその説明をしながら手本になるひらがなを書き二人はそれをノートに書いていくという簡単なものだった。

これは人間の世界に住むのなら読み書きができた方が良いだろうとサチコの提案で始まったもので最初はカメ子と二人で行なっていたが、勉強の事を知ったミヨがカーメルにも教えてあげて欲しいとやがてサチコは二人の生徒を受け持つ様になった。

しかし一つ目が現れてからその生活習慣はがらりと変わりカメ子とカーメルは研究所へ行ったり来たりするようになり、時には研究所に泊まり込む日もあったりと忙しい生活になったため次第にやらなくなっていた。

この授業は教えるサチコにとってもそれを横で見ているだけのミヨにとってもとても有意義なもので二人はこの時間をとても大切にしていた。

それはカメ子とカーメルが人間の世界で生活していて何を考えているのか、また何を不思議に思うのか良く分かったからだった。

基本的に肌の色以外の違いは見当たらないカメ子とカーメルだったが、カメムシの世界からやってきた二人の考え方は人間のそれとは違う事も多くあり、サチコもミヨも驚く様な事が少なくなかった。

例えば部屋の中を見回してもテーブルがあり窓にはカーテンがかかっていたりテレビやその他の家具もある。

普通に暮らす人間にとってはなんでものない事だったが、カメ子とカーメルにはその全てに名前がついていると言うのが不思議に思う事の一つだった。

中でも二人が特に驚いたと言ったのは食器だった。

コップ、皿、コーヒーカップ、茶碗、お椀などそれぞれに違う名前がある。

確かに形が違うというのは二人にも分かるが、結局何かを入れる物という点でその用途には変わりはない。

カメムシの世界での生活の中にも様々な草や木があり花もあるがそれをそれぞれの名前で呼ぶなどと言う習慣はなかった。

カメムシの生活の中でそんな事は必要のない事だった。

しかしカメ子とカーメルの二人はそんな今までにない習慣をカメムシである自分達には必要ないとするのではなく、人間の世界で生活している以上その全てを覚えよう吸収しようと一生懸命に文字を書きとっていた。

その姿はサチコにしてもミヨにしても愛おしくてたまらなかった。

そんな二人の学ぼうとする素直な姿勢に感心させらると同時にカメ子とカーメルの二人の性格の対照的な一面が見えることもサチコとミヨにこの時間を有意義に思える事だった。

まずカメ子はサチコが書いた手本の文字をしばらく見つめてから時間をかけゆっくりと丁寧に書いていくのだ。

文字を見つめている理由をサチコが聞くとカメ子は形を覚えるためだと言った。

そしてそのカメ子のやり方はゆっくりと丁寧に書いてるだけあって何度か書いていくうちにサチコの手本そっくりに書けるまでになり、時には丸男や菱形に見せてもどちらが書いた文字なのか区別出来ない事もあった。

カーメルの方はそれとは反対に文字を見るのは一瞬で見たと同時に書き始めていった。

しかしカーメルは形の認識が苦手なようで文字が鏡に移したように反対になる事が多かった。

特に「は、ほ、ま」のくるっと回る所が鏡文字の様に反対なるのが常だった。

本人はまじめに書いているのだがその文字だけはどうしてもそうなってしまうので、最初は注意していたサチコも終いにはこれも個性、読めればこれでいいという風になりやがて注意もしなくなった。

それにしても二人の覚えの速さや意気込みにはいつも感心させられていた。

そんな二人をサチコもミヨも本当の娘の様に思っていた。

 

 

 

「カメ子。聞こえるかカメ子」

 

カメ子が菱形の部屋の掃除を終え丸男の部屋に入るとどこからか声が聞こえて来た。

それは懐かしい感じのする声だったがもしやと思いカメ子は身構えた。

 

「誰? どこにいるの?」

 

声の主はそんなカメ子の慌てぶりを面白がっているようでからかい気味に話しかけた。

 

「残念じゃのう。久しぶりで忘れてしもうたか。ワシはお前達の事は忘れた事はないのだがのう。ハハハハハ。」

「もしかしてカメ爺?」

「そうじゃ。カメ婆の魔法の杖の力でこうして話しておる。しかしその声を聞くに元気にしておる様じゃのう」

「うん、あたしは元気」

 

久しぶりに聞くカメ爺の声は懐かしさもありカメ子は心を弾ませた。

そしてその弾む心のままこんな事があんな事がと人間の世界での事を話し始めた。

最初カメ爺もカメ子のはしゃぎ様が嬉しくその勢いにまかせ話を聞いていたが、話が尽きる事がなさそうなのが分かると話を途中で割った。

 

「すまんのうカメ子。今日は話があってこうしてカメ婆に頼み声を届けておるのじゃ。まずワシの話を聞いてくれんか?」

「あ、ごめんなさいカメ爺。久しぶりだったんでつい嬉しくなっちゃって」

 

カメ子がそう言うとカメ爺は真剣な声色で本題に入った。

 

「よく聞くのじゃカメ子よ。我らの準備は整った」

「準備が整った?」

「そうじゃ。戦いを決意したカメムシ達が集まったのじゃ。これより一週間後の朝、日の出とともに奴らの元に向かう。それを人間達に伝えて欲しいのじゃ」

 

カメ爺の口から出た「戦い」という言葉を聞いてカメ子は体を強ばらせた。

そして「あの一つ目達と戦う時がとうとう来たんだ」そう思うと懐かしさにはしゃいだ気分は吹き飛んでいった。

 

「わかったわカメ爺、すぐに伝えに行く」

「この事はカーメルにも伝えておる。二人から人間に伝えてくくれ」

 

そういうとカメ爺はたっぷりの間を置きもう一つ人間に伝えて欲しい事があると言った。

そしてこれこそが戦いに向かうカメムシ達にとって大切な事であり一番伝えてほしい事なのだとも言った。

 

「一番伝えてほしい事?」

 

カメ爺はカメ子の反応を確認してから自身の胸の内を語り出した。

 

「それは我々カメムシの事じゃ。戦いに向かう我々カメムシの事をお前たち二人から人間に伝えてほしいのじゃ。 我々カメムシの気高さを、命の危険をかえりみず戦いにいく我々の精神を、そしてなんの見返りも求めずに戦いにでる我らの心意気を伝えて欲しいのじゃ」

「見返りを求めない?」

「そうじゃ。ワシらカメムシが戦いに向かうのは人間たちに何かをしてもらえるからとか何かをしてもらいたいからという事ではない。そんなかけ引きのような事では断じてないのじゃ。我らカメムシの未来の為、人間達の未来の為に立ち上がったのじゃ」

「ねぇカメ爺、もしかしてそれって愛?」

「愛? そうかも知れぬな。いうなれば・・・・」

 

カメ爺は一旦言葉を区切ると次の言葉をゆっくりと力強く言った。

 

「これは愛するものを守る為の戦いじゃ」

 

カメ子にもカメ爺の思いは伝わり体の中心から熱くこみ上がるものを感じた。

最初その熱さはカメ爺の言葉が体に沁み込んでいるからだとカメ子は思った。

自分の持つカメムシの気高さというものが、戦いに向かおうとしているカメムシ達への思いと重なり自分も熱くなっているのだ、とカメ子はそう考えていた。

しかし、そうではなかった。

 

「愛するものを守る為・・・・」

 

カメ子はそう口にするとカメ爺から伝わる熱さはそれまで自分が悩んでいた事の答えである事に気づいた。

それは誰もその意味を説明しきれなかった言葉、モロミが自分で感じるしかないと言った言葉。

そして今その言葉の意味がはっきりとわかった。

確かにその意味を言葉では説明出来ないがどういうことなのかカメ子には今はっきりと感じる事が出来た。

 

「しかしカメ子の口から愛などと言う言葉が出るとはこのカメ爺、よもや思いもよらなかったぞ」

 

そう言われるとカメ子は照れ笑いをした。

そんなカメ子の心を感じるとカメ爺は「カメ子とカーメルを人間の世界に行かせて間違いはなかった」心の中でそう思った。

 

最後にカメ爺はもう一度「人間に伝えてくれ」と言い残しその気配を消した。

カメ子はカメ爺の気配が消えた部屋の中で少しの間懐かしさの余韻にひたった。

その余韻の中、これからの事を考えると自身の内側から熱い思いが湧き上がって来た。

そしてカメ爺が言った「愛する者を守る為の戦い」と口にするとコロやベータ、モロミや吾一、そして丸男など様々な人の顔が脳裏に浮かんだ。

カメ子はそれらの人の事を思うと湧き上がった感情が爆発しそうになり自分でもコントロールできなくなってしまうのではないかというほど激しいものになっていくのを感じた。

この時カメ子がそのざわつく心を落ちつかせようとすると、最後にある人物の顔が脳裏に浮かんだ。

その人は優しく微笑みかけてくれていた。

自分の全てを包み込むように。

そしてその時はっきりとわかった。

自分に対しなんの見返りも求めないで愛を注いでくれた人がいたという事が。

カメ子はその微笑みに触れると感情を落ちつかせることができ、そのまま静かに階下に降りた。

 

 

 

「あら、終わった? ありがとう。こっちはもうちょっとかかるから待っててね。こっちが終わったらお茶にしようね」

 

カメ子はそんなサチコの言葉には返事はせず唐突に言った。

 

「ねぇ、お母さん。あたし分かったの」

「ん? 分かった? 何がわかったの?」

「愛」

「愛?」

 

カメ子は不思議がる母サチコの前で両手を大きく広げるとその両の手でサチコを思いっきり抱きしめるとはっきりした声で言った。

 

「これが愛だわ」

 

突然の事でサチコは面食らった。

しかし、しばらく前にカメ子から愛とは何かと聞かれた時はどぎまぎして答えに詰まったことがあったのを思い出した。

あの時は何となく話を終えたが、きっとカメ子はあれから愛という言葉の意味を探していたと思うと笑みがこぼれた。

そして今カメ子の導き出した答えがとてもカメ子らしいなと思い、自分も両手でカメ子を抱きしめ返した。

 

「そうね。これが一番分かりやすい答えかも知れないわね」

 

カメ子は母サチコを抱きしめる事で自分の気持ちを伝えようとした。

それはこれまでの感謝だけでなく自分の事を本当の娘の様に愛してくれた母への贈り物だった。

「愛」それはこの人間の世界でカメ子が唯一理解の出来なかった言葉であった。

しかし今カメ子はそれを心の底から感じていた。

そして愛のおかげで人もカメムシも強くなれる事を知った。

その自分の感じた思いを言葉ではなく抱きしめる事によって心から心へ自分の思いの全てを伝えようとした。

 

サチコも体温とは違う温かさをカメ子から感じていた。

それはいつまでもこのままでいたいと思うほどとても心地のよいものだった。

普段のカメ子からもカメ子の持つ目には見えない優しいさや温かさを感じる事があった。

それはカメ子と一緒にいる者なら誰でも感じた事があるもので相手を包み込むような独特なものだったが、今感じる温かさはそれとは比較にならないものだった。

サチコはそれを不思議に思ったが、今はカメ子が見つけた愛の答えであるこの温かさに身を任せよう、そう思った。

しかしサチコが感じていたもの、それはカメ子が探していたものの答えであると同時にカメ子からサチコへ別れの挨拶だった。

この時カメ子は別れの言葉は口にしなかった。

ただ自分の感じるままに愛する人に心の中にある思いを全身で伝えた。

そしてカメ子は気持ちを伝え終えるといつもの様にサチコに言った。

 

「お母さん、あたし出かけてくる」

「あ、そう。どこへ行くの?」

 

カメ子はサチコのどこへとの問いには答えられずちょっとねと答えた。

普段ならならそんな言葉を濁すカメ子の事を訝しく思うサチコだったが、今カメ子から感じた温かさがそんな普段通りの判断をさせなかった。

 

「ねぇ、今日は久しぶりに野菜サラダにするからね」

 

野菜サラダと聞いてカメ子は「やったー」と喜んで見せた。

この時カメ子にはそれが正しい事だと思ったからだった。

そして玄関のドアを開け外に出た時にサチコから「早く帰って来てね」ともう一度声をかけられた。

カメ子はそれには聞こえないふりをすることがやはり正しい事だと思った。

しかし、これが最後だと思うと、その顔をもう一度とこの目にしたいという思いが沸き、振り返ったが、振り返ると同時にドアは閉まった。

それはこれまでの世界とこれからの世界の境界のように感じられた。

そんな何も言わぬドアをカメ子が見つめていると、その背中に声がかかった。

振り返るとそこにはカーメルが立っていた。

 

「ねぇカメ子、カメ爺と話しした?」

 

カーメルにそう言われるとカメ子はカメ爺から聞いた何の見返りも求めず、何のかけ引きもない、ただ愛する者のために戦いに向かうのだというカメムシの心意気の話をカーメルに伝えた。

するとカーメルは大いに納得し、研究所に行ったら必ず伝えると意気込んだ。

以前、東岸がカメムシの事を軽んじるようなことを言ったことがあるのでその事を思い出したのか、興奮し熱くなるカーメルをなだめるように笑顔でカメ子が聞いた。

 

「ねぇ、それよりミヨさんにはちゃんと挨拶して来たの?」

 

すると、なんとなく歯切れ悪く答えるカーメルにカメ子は本当は挨拶できなかったんじゃないかと茶化すとカーメルは今度は胸をはって答えた。

 

「最後なんだもん、挨拶くらいちゃんとして来たわよ。いい? あたしはね、手紙を書いたの。せっかく人間の世界にいて文字も習ったんだから人間の流儀で行かないとね。どうよ」

「手紙かぁ。あたしは考えもしなかったなぁ。すごいねカーメル」

「まあね。当たり前じゃない」

 

そう得意げにそう答えたカーメルだったがその表情はどこか名残り惜しそうだった。

そしてボソッと独り言のように言った。

 

「でも、もう少し人間の世界にいてもよかったかな」

 

これがカーメルの本音だと言うことはカメ子にはわかった。

何故ならカメ子も同じ事を思っていたからだ。

そんなカーメルにカメ子は言った。

 

「別に残りたかったら残ってもいいんだよカーメル」

 

カメ子は幾分からかい気味に言ったが、本当に残りたいのであればカーメルだけはここに残っても構わないと思っていた。

しかしカーメルはいつものお構いなしの調子で答えた。

 

「まさか。冗談言わないでよ。確かに楽しかったし良い思い出がいっぱいあるけどあたし達にはやる事があるじゃない」

 

同じカメムシでも正反対な性格のカメ子とカーメル。

周りからは水と油の様に思われる事もあったが、二人は互いの心の内をよくわかっていて誰よりもよく理解しあっていた。

 

「さあ行こうカーメル。まずは研究所の東岸さんの所へ」

「うん。そしてカメ爺の元へ」

 

そうして二人は研究所へ向かった。

愛する者を守るために戦いの場へ向かって行った。