ツーフのブログ

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嘘偽りなく、自分の考えを乗せてみる

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※自作のショートストーリーです


汚い。私は汚い。
何と言えばよいか、私はとにかく汚い。綺麗とは真逆にいて、美しさの欠片もない。
三人の魔女が言うように、「綺麗は汚い、汚いは綺麗」だとは思えない。

正直でもなく、何より、ふしだらとと表現しても良い欲求がある。
肉欲がある。
寂しさを 振りまいて、女を武器にして。
男という海に溺れ、その水さえも美酒のように飲み干してきた。
奥ゆかしさ、という概念からは程遠いところに私はいて、花を摘み、蜜を吸う。




   鏡を見る度に、私は自身の中庸さに胸をなでおろす。
いや、正直に言おう。私は自分がブスでないことに安心する。
決して、万人がきれいだの可愛いだのと言うほど、容姿に優れてはいない。
けれど、やや丸みを帯びた輪郭、ツンとした鼻、見開ける瞳。
胸も並み以上にあるし、贅肉は一部にしかのっていない。気にはなるけど、目につかない。
ちんちくりんでもない背丈で、声も姿勢も整っている。
女らしさという部分には隙が見えない。
それ故に、私は可愛い。
可愛い可能性のある人間に生まれて良かったと心から思える。
それは何より、私の付き合ってきた男の数が証明している。
初めての彼氏ができて以降、1年と私の横が空白になったことはない。
往々にして、好奇心と進取性に富んだ私は明るく、可愛らしくなれて、それで男はイチコロだった。
正直に言えば、イチではなくニコロぐらいな場合が大半であるけれど。
それでも、初心そうな、というより女を知らなそうな男は、勘違いする。
勘違いして、私を好きになっていく様がありありと見える。
お生憎、そういうのはノーサンキューだ。
良い男、というよりも私に社会的にも個人的にステータスを与えられる男。
そういう男だけが、私の琴線に触れ、肌に触れていった。
そのまま肌を重ね、溶けだして。
その浮遊感がもたらす快楽を全身で浴びた。
嬉々として、優越に口を緩ませて。

 そういった思考を、今までは普通だと思ってきた。
けれど、何故だか。何故かはわからないけれど、その思考が躊躇される。
そして、自分の汚さを思い知らされる。
その汚らわしさは、抱かれている時に露わになる。
物足りなさ、とはまた違う。断じて違う。
 愛も変わらず、相も変わらず、私はあの人を愛している。
内蔵が浸食され、体温が内から拡がっていく喜びは褪せもしない。
彼のものがそのまま私を喉まで貫いて、体中があの人ではちきれてしまいたい。
身体中の体重を失って、あの人にすべてを支えられて、
手が、足が言うことを聞かなくなるまで、 浸していたい。
あの人の体温が濡れた綿のように、重く、肌に貼り付いて離れず、
ひたひたと肌に吸い付き、 その瑞々しさを浴びて、私の肌が呼吸する。
恥ずかしさも何もなく、大洋の底に沈んで、太陽を抱く。
熱さで骨が燃えが、肉が燻るような心地がして、耳朶にかかる吐息で冷やされる。
息をこらえて沈みゆく人の交わるこの世界で、息の出来る唯一の瞬間。
私にとってあの人との時間がそうであることに変わりはない。

 ただ、その熱さは全ての男が同様に持っていた。
大して好きでもない男も、心が崩れるくらいに依存した男も。
全てが往々にして、熱く、固かった。
骨も何もかもがあって、物質的で重力を伴っていて、熱さを帯びていた。
そして結局、いつもやっていることは同じだった。
世の人間、全てが同じように営みを行っていて、どの男も同じように私を抱いた。
半狂乱で私を蹂躙し、弾けて、果てて行った。
 無論、気持ち的には違うかもしれない。
良かった時と悪かったとき、其々は明らかにあった。
イマイチと感じれば、けれど、動物という枠から逃れられない。
四肢と生殖器が絡み合い、快楽を無心する。
その、酷く野生じみていて、非人間的で、過分に本能的な行いは記憶に留まることが無かった。

 記憶。 
 私には情事の記憶が存在しない。
何一つ残っていない。
それがとても、拙く、幼く、ドロドロと汚れて、穢い。
そう思えた。
もっとも愛し合っていたはずの時間を忘れてしまっていることが、薄情で、酷く不遜な気がしてならない。
私が本当に愛していると思った男と寝た時の一瞬一瞬の記憶はなく、
同様に気まぐれで当てつけのように抱かれた男ともその時々の記憶はない。
言われたとおりに体を動かし、貪り、投げ出し。
その都度、湧いてきた感情のどれ一つも今は手から零れ落ちている。
愛し合うために交わりを求めているのに、何も残らない。
愛しあっているはずなのに、思い出にならない。

良し悪ししか感じれず、区別できない彼との一瞬一瞬が、惜しく、儚い。
それに気づいて、自分が何をしていて、何を欲しているのかが分からなくなってきたのだ。

 おそらく、神様の前でも、砂漠のど真ん中でも、森の中で泥にまみれても、恐らく人は同じようにするのだろう。
同じように裸になって、一瞬の快楽に身を浸かり、委ねるのだろう。
それでもその場合、違うのは単純に場所であり、空間であるだけで、精神と肉体を含めた私自身は変わらない。
私じゃない私は存在しない。
心がどこかに置き去りにされている。
空が動くだけであって、心が動かしてる感覚がない。
もっといえば。、私とあの人でしか築けない瞬間じゃない。
 手探りで、不器用にももがきながら、愛を手繰り寄せる。
そういったプロセスは微塵もなく、私たちは猿まねのように、 嬲り、舐りあった。
そして、私たちを動かすのは愛であったはずなのに、いつの間にか性欲にとって代わられた。
そのことにも気づかずに、今まで為すがままにされ、してきたことがひどく滑稽に思えた。


 何のために私は彼を、彼らを求めてきたのだろう。
私の欲求を満たすためなのか。彼の欲求を満たすためなのか。
私のと彼のと、各々の欲求を満たすためなのか。
定かではない。
ただ、私と彼との共同で産もうとする欲求ががそこには存在しなかったことは、微かに思い出せる。
私は私の為に彼を欲して、彼は彼の為に私を欲した。
そのタイミングが一致した結果だけが私たちの愛し合い方だった。
 時折、小道具や演出を入れていつもと違う何かを演じては見たものの、
脚本は常に同じだった。
結末は変わらなかった。
内容が違うように思えても、起承転結は、順番は守る。
常に型通りだった。
順番を間違えた時はいつだって、
傷つけあうだけか、傷つけあった時だけで、
涙が出るほど心が痛いときだった。
その交わりは決して、ハッピーエンドではなかった。

   待ち合わせの時間まであと五分。
自分が汚れずにはいられない、背徳的な渇望が胸を躍らせた。
 今こうして、私が思っていることをあの人に話したら笑われるだろう。
もしかしたら、幻滅もするだろう。
けれど、何度でも言うように、その瞬間は至極、そして疑問の余地なく幸せなのだ。
何より、体が正直に熱を帯び始めた。
いたずら心のような好奇心が胸をくすぐる。

 私は多分、あの人を求めることを辞めないし、
もし、あの人が去って相手がいなければ探すのだろう。
寂しさや、寒さを嫌って、求めるだろう。
虫が光を求めるように、ワシが肉に群がるように。
求めずにはいられない。
何度だって、骨を埋め、一つになろうとして、あたかも一つになって、一人じゃないと思いたくなるだろう。
私は一人で大洋を泳げるほど、勇気もなければ気概もないのだ。
何より、目的地を知らない。
1人で船をこぎ、泳ぎ、自らの航路を知らずにも進めるほど私は強くない。
死ぬのは。
怖い。

 それでも、私は脱したい。逸したいのだ。
通り一遍の愛し方から、獣じみた愛し方から。
今はあの人と、特別な何かを見たい。
作りたい。
 勿論、夢の国にだって水族館にも行きたい。
海にだって、外国にだって行きたい。
けれど、私が欲しいのは、濃密で記憶に残るような二人きりの永遠なのだと思う。
忘れてはならない思い出で、時間なのだと思う。
例え無人島に漂着してそのまま死のうとも、死ぬまでの日々を強く記憶に刻み続けたい。
身体と精神とが乖離することもなく、ゆらりゆらりと、果てしない海を漂う。
それでも良いと言ってくれる貴方がいるのかもしれない。
   
 「お待たせ」
彼が定刻数分過ぎ、やってきた。
後ろからゆっくりと彼は現れ、耳元でそうささやいた。
私にはそんなことが無理なような気がしてきた。
濃く、生臭い快感がリフレインする。
身体は覚えていた。
存外に初心な私の存在を見つけ出して、あざ笑い、私は私を置き去りにした。
その私はきっと、白馬の王子様をシワシワになるまで待ち続るのだろう。
同情する。
特別とは何かを考えるお話。本当に特別は何なんでしょうというのが私の気分ですが。
 今回は不幸の成り立ちから考えます。ですから、不幸な人と、不幸な人の気持ちを知りたい人は見て頂けると幸いです。自分は幸せで、不幸になんか触れたくもない、という方は見なくていいです。なお、なるだけ、作品を見たことない人にも分かるように書いたつもりですが、そりゃ経験が違いますがご容赦を。
 
 さて、私はどこまで行っても、この物語シリーズは不幸との対峙だと思っています。不幸というよりは、遣る瀬無いこと、とでも言いますか。

 「不幸でい続けることは怠慢だし、幸せになろうとしないことは卑怯だよ」

 ほぼ最後に出てくる一文に、ハッとした。 
 僕は正直、人の不幸を知らない。自分の持ってる不幸しか知らないのだ。勿論、想像することはできるけど、やはりそれは伝えてくれないと分からないものだし、そう頼ってきてくれる人も別段いたわけじゃないから、やはり知らないのだ。些細なことで不幸を感じる人もいるだろうし、全く表に出さない人もいるだろう。まぁ、それが普通なのかもしれない。
 けれど、人を信用できなくなると、耳の中に理想論のような「普通」しか入ってこないから、やはり僕は不幸なのだと思わざるを得なくなってしまう。

 「平等であるべきだと思うものについて、人は嫉妬を覚えるけれど、其々で良いと思えるものについては、人は羨望を覚える」という風に思っている。多くの場合、不幸は嫉妬から生まれるの。
 この世界は、メディアや何から何まで、普通を描いていて、普通じゃないものは敬遠される世界だ。少なくとも、人格形成を決めるような小中(高)までは。大抵の場合は、自分の境遇と他人の境遇を比べて、優劣をつけて、自分が不幸だと知った時、誰かに嫉妬する。自分が不幸だという現実を突き付けれられて、なんで自分はそうじゃないんだって社会や他人に嫉妬するのが不幸の始まりなのだと思う。別に他人なんてどうでもいいと思えば、本当にどうでもよくなる。
 ある作曲家が
 「嫉妬と保身と自己嫌悪。この複雑に関係する三つの病を治さないことには、幸せはやってこない。」
 と仰っててひどく納得したものだ。

 で、この不幸の悪循環が何故起きるかというのを個人的な経験に基づいて、かつ、斧乃木ちゃんのセリフを拝借してしまうと、それに尽きてしまうのだ。集約されてしまう。。

 「(言い訳のようにも聞こえるけれどね。)幸せにならないから勘弁してください、幸せになろうとなんかしないから、どうか許してください、どうか見逃してくださいと言っているようにも。僕たちはこんなに不幸なんだから責めるなよ可哀想だろって主張しているようにも。ねぇ、鬼いちゃん、ひょっとしてあなた、不幸や不遇に甘んじていることを『頑張ってる』と思っちゃってるんじゃないの。」

と斧乃木余接は語る。不幸の免罪符。簡単なイメージでもしかしたら、キリストがその身に罪を背負って…云々みたいなイメージを持ってしまうのかもしれない。僕が不幸だから幸せになれる。僕は不幸だから幸せになれるはずがない。僕は。僕は、僕は。世界中の不幸を自分が独占していて、他の皆は全て幸せで、全て敵で。敵である。僕が幸せになれない理由である。そのうち、僕のおかげで君たちは幸せでいられるんだとも思ってしまうかもしれない。そういう可能性だってある。

 傲りが出てきた。自己否定を怠ると、不幸の根源に対処しようとして殺人衝動が出てきてしまう。どんなに人の形をしていても、それは不幸の「源泉」でしかないのだから。無差別殺人犯にとっても事情は大して変わらないと思う。僕以外は幸せだから、僕の幸せ成分を獲っているから、僕は幸せになれないんだ。そう思うのかもしれない。

 そんな、殺人衝動に気づいた時、それがマズイと思ったら多分人を殺しはしないでしょう。けれど、そこですることは自己否定、自己卑下なのだ。僕「なんか」が彼らを殺していいはずない。僕「なんか」じゃ人を殺せない。僕「なんか」が幸せを求めようとしたこと自体が間違いなのだ。

 そうして、堕ちるところまで堕ちて、帰ってこれなくなるとその理由づけに保身が始まる。それが不幸の免罪符。不幸に耐えてればいつかいい事ある。必死に不幸に耐えることだって・・・
 何もならないのだ。何にもならない。斧乃木ちゃんは言う。

 「そういうのを世間では『何もしていない』って言うんだよ。普段の怠けだ。不幸なくらいで許されると思うな。終わったくらいでリタイヤせずに、ハッピーエンドを目指すべきだ。」
 「不幸でい続けることは怠慢だし、幸せになろうとしないことは卑怯だよ」
 
 卑怯。卑しく怯える。心が貧しく、怯えている。勇気が無く、物事に正面から取り組もうとしないこと。それを狡い、という人もいるかもしれないが、これは欠陥なのだ。そう、不幸から逸脱するためには勇気が必要だった。裏切られても耐えられる勇気、何かの為に何かを見捨てる勇気、変態の汚名を受ける勇気。勇気を以て前に進み、人生を、物語を進めなくてはならないのだ。待っていることは解決にはならない、後回しになるだけだ。前には進まない。待ちくたびれた時にはもう遅くて、帰る場所は風化して、他の誰かはそれぞれ前に進んでいる。置いてかれていく。待ち合わせなどしてもいない未来から、置いてかれて、老いて枯れる。



 ここまでが僕の考える不幸の話。そしてここからが神原駿河という少女の話と、終物語の話。
 ここまでで見飽きたら、一度戻りましょう。そして、おかえりと僕は言えたらと思います。
 以下続きます。


 さて、その一方で、神原駿河はどこまでも愚直だ。優しいなんて生易しい言葉では言い尽くせない。僕と神原が明らかに違うのは、枝分かれする根底には、彼女には勇気があるということだ。その勇気で真っ直ぐに向かってくる。自分が痛みを知ると分かってても、進まない人を見過ごさない。愛の反対が無関心という言葉に抗うかのように、同調するほどの重すぎる愛とでもいうのだろうか。戦場ヶ原さえも後ずさりしたほどの、重すぎる愛。卑怯とは程遠いその行動力、それが神原を神原足らしめている。人を傷つけない為に本当の努力をした人間である彼女は、独り善がりでない人の救い方を知っていた。それが勇気だった。勇者だった。選ばれしもの。ケムコとは関係ないけれど、それこそが才能なのだろう。
 当然、神原も人を選ぶのだろう。鉄砲水のように変態の極致ともいえるような性癖を曝け出しながら話しかけてくるのは阿良々木君に対してだけらしいし。花物語で見る彼女が全く別人だったように、変態で形容される神原駿河というのはアララギ君と----おそらく戦場ヶ原に対してだけなのだろう。
 そうできる理由を考える。投げっぱなしの信用。僕は、それが神原とアララギ君を繋げていると思う。二人を繋ぐのは愛ではない、なんとなくだが何となく感じることだ。恋愛感情に発展しない関係。男と女の友情。そういうものが見て取れる。多分に神原が男っぽい、というより女子女子しくないということもあるのだろうが、それよりも二人は殺し合ったほどの仲だ。そして、戦場ヶ原に選ばれる才能というものを持った阿良々木君は、神原にとっては否が応でも認めなければ相手なのであって、強者である義務、Noblesse Obligeを知っている彼女はどうしようもなく、彼に従わざるを得ないのではないかと思うのだ。多くのものを勝ち取ってきた神原でも勝てないのだ。ナンバーワンがオンリーワンを意味するように、報酬は勝者にしか与えられない。戦場ヶ原の特別は、少なくとも現段階では阿良々木君ただ一人なのだ。
 
 代替のきかない存在。特別であること。僕は僕以外の何物にもなれず、かといって誰かが僕に成り代われる物でもない。特別であるための物語。永くなったが、やはりこの物語はここに執着し、終着する。
 初代怪異殺しと忍の物語であるが、今の神原と戦場ヶ原の焼写しの物語であると言っても良いのかもしれない。「二番手の気持ち。」それを知っている神原であるからこそ、忍と対峙した。今でこそ神原は救われているのかもしれないが、救われなかったときの気持ちを考えると、他人事とは思えないのじゃないだろうか。見るに堪えかねた、という風に。

 そして、初代怪異殺しと阿良々木君が向き合った時の言葉だ。
 「お前は特別で、選ばれた人間なのかもしれない。僕は特別じゃないし、選ばれてないかもしれない。お前の代わりは誰にもできなくても、僕の代わりは誰にもできるのかもしれない。だけどな。」
 「お前は僕にはなれないよ。僕の代わりはいくらでもいるけれど、僕は僕しかいないから。」
 「お前は僕じゃないように、僕はお前じゃない。そういうことだろう?」
 忍の現段階の特別である阿良々木君は、二番手の初代怪異殺しにそういった。

 その前に戦場ヶ原に電話をかけて、こういわれた
 「絶対的な絆なんて結構怖いしね-----だから乗り換えられないよう。努力しなさいという話でしょう。特別な人間にはなれなくとも、誰かの特別にはなれるでしょ」
 「私は神原や阿良々木くんにとって特別な人間であろうと絶え間なく努力している------安心しなさい、阿良々木くん。あなたは十分、特別な人間よ。私にとっても、神原にとっても------忍ちゃんにとっても。私たちはあなたを選んでいる」

 阿良々木君が、初代怪異殺しに対して毅然と「僕は僕しかいないから」と言えたのは、その言葉があってこそだろう。少なくとも、今は、特別であることを実感できる。それが彼を前へと進める。そういってくれる彼女らを信じて、彼は前を向いていられる。
 
 特別なんてものは存在しない。主観の集合である一般的な特別には、誰一人もなれず、誰もがなれてしまう。受験勉強で一点の差で勝者と敗者がいても、敗者にとっては勝者が特別に見えてしまうだろう。似たようなスケールでも、もっと大きなスケールでもそれは起きる。 ジョブズだってアイフォンを買えないような戦渦の中の人間からしたら、特別でもなんでもない。
 ただし、誰かの特別には誰だってなれる。その誰かが分からないところが世の中厳しいところだけれども、それでも、なれるのだ。凡人が大半を占めるこの世の中で、特別になれる。すごいことじゃないか。努力して、誰かの特別になろうとすること。それを恋という言葉で片付けるには、非常に忍びないけれど、肉体と精神と道徳と約束とが全て許される特別になれるのは、やはり恋人なのだろうから恋とでもしておこう。恋であり愛なのだ。
 残念ながら、恋はいつまでも続くという思い上がりが恋を終わらせる。変わらないものなんてなくて、愛もそのうち変わっていく。だから乗り換えられないように、努力しなくてはいけない。それを怠った僕は、痛い目を見た。もうそのことは絶対に忘れないと、我ながら今回、誓う羽目となった。

 誰かの特別になる気がないなら、関係を軽々と言葉にしちゃいけない。たとえそれが曖昧な言葉で濁すという残酷さを孕んでいようとも、言葉にしてはならない。親友という言葉も、恩人という言葉も、恋人という言葉も、ましてや家族という言葉を使うべきではない。関係が、言葉が先に立つから壊れる。親友ならこうであらなければならない、恩人なら、恋人なら。家族なら。それはもはや、特別になる気を失っていて、義務を誰かに強いている。気持ちじゃない。
 今一度問いかけなおす。僕は誰かの特別になろうとしたか。それに対するだけの行動をしたか。特別だと思ってくれる、相手が望む行動をとろうとしたか。それは面倒かもしれない、重すぎるのかもしれない。けれど、言葉と現実のギャップに悩まされるくらいなら、僕は友達で構わないし、恩だってきてやるし、友達以上恋人未満でもいてやる、仮族でもいてやる。面倒だと思ったのなら、過大評価された関係なのだろう。重いと思ったら、それは自身にその重さを背負えるだけの力が無いか、やる気がないだけだろう。
 なら、その人の特別になろうという気が自身に無ければ、それでいい。無理に親友にも恩人にも恋人にも家族にもなる必要は無い。だからと言って、終わらせる必要もない。僕たちは出会えたことで、またこれからも共に歩みを進めていくことで、物語は進んでいくのだから。
 特別でないことは無駄じゃない。特別しかいらないなら、より"幸せになろうとしないことは卑怯"なのだと言われてるような気がする。勇気をもって、より幸せを探るべきなのだ。

  長々と書いてきたけれど、これが終物語(中)を呼んだ気分、ということにしておこう。
 多分途中で飽きてここまで見てはいないだろうけれど、見てくれた人にありがとうございます。
 そして、僕の自問自答も思ったことも、自分に起こった場合と考えて頂ければ、僕は書いた甲斐があったというものです。
 少なくとも、こういう人間がいるんだなぁというサンプルくらいになれたら幸いです。 
口では言えない伝えたいことを……ってことで手紙が始まった。その後、ネットが発達して、手紙はEメールになって、それがもっと広くなってSNSになった。そうして、口では言えないことの積み重ねで生まれたネット人格ができ始めたわけだ。でもなぜか、人徳の無さ故かそれでも否定される僕って何なのだろうと最近思う。
 ネットが空間と時間という障壁を取り除き人と人を繋げてくれて、それぞれがネット空間に文字やコンテンツをそっと置いていく。そういった中に、自分の分身のような思いと興味を託しているはずなのに、それで人間関係が広がるわけでもない。
 何のためにネットがあるんだろうなぁ、っていう思いが最近強い季節になってまいりました。
 最近はマスコミの過剰報道や、twitterの右翼と左翼などの発言を見て閉口している毎日ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。罵詈雑言とエゴだらけの世界にいいかげん、僕もストレスがたまっているので少しばかり思うところを書かせてください。

 先日、僕が嫌いだった人たちが悉く好きだったあるヴォーカルグループが結成何年とかなんとかを迎えたそうです。まだやっていたのか、という気持ちでしたが、その反応をTwitterで見ていくとまぁなんとも愛されたグループで。でも、実際、いじめっ子だってそういう物を唄うんだよね、憎かりし奴らも嬉々として唄ってたわけだ。僕が被害者(仮)にならない場合でも、何かしらの軋轢が存在していたことは見ているし、そういった人たちが完全無欠の善人である可能性はまずない。高校の頃なんかそんな人ばかりであったと思う。
 世界に一つだけの花を含めて、結局、歌に力なんか無いと思わされる歌やグループなんかたくさんあると思い知らされたグループの一つだったわけだ。現代のJPOPは自分の恋ばかり歌っている。そういうのは結局、強者の讃美歌でしかないし、強者であることを正当化させる口実に使われたに過ぎない曲でしかなかった。たぶん、死ねって言われた人間は世界に一つだけの花なんか唄えないし、無視され敵視され続けた人間なんか、また泣いて笑って君と出会えた奇跡なんて唄えないだろう。最悪、君と出会っちゃった不運と愚痴をこぼす。むしろ面と向かってそう言われることもままあるのだ。稚拙な関係性と価値観が大多数を占める高校や中学なんてそんなもんである。しかし、どんなに綺麗言や理想が歌われても、それが人と現実に降りて憑かないのです。僕の趣味ではないが、音楽の限界をそのように目の当たりにするのはやはり悔しいわけである。彼らは愛や友情を唄えるのに、何故に友愛を唄えないのかと。
 そんな中でもBump of Chickenは違ったはずだった。若者に大きな人気を博したが、彼らの歌は明らかに弱者のための歌だった。けれども、上記と似たように都合のいい部分のエッセンスだけ取り出して、結局また強者の為の讃美歌と化してしまったのは何故だろうと思ったわけである。少なくともm僕の周りはそういう人が多かったように思う。僕の大好きな「Super Nova」は若者にとっての「Imagine」になれるだけの名曲だったと思うが、多くの人はSuper Novaを直視していないだろう。藤原さんは僕にとってジョン・レノンになれるだけの詩を書いたと思うし、世界中で歌われたら良いなとさえ思う。
 けれども、中学生や高校生は厨二病的にロックと解釈するに留まってしまった。天体観測からSailing day 、車輪の唄、カルマ。同時期の売れたアルバムという見方もできるけれど、やはりロック路線か恋の唄。結局多くの若者は恋とロックに埋もれてしまい、ビートルズ的な愛と平和はオールドファッションでしかない平和ボケの道を進んでしまった。藤原さんはビートルズ的な愛と平和を唄っていたと勝手に解釈しているが、そう感じた人はわずかだったように思う。もっと哲学的で、人の心理を抉るような歌でありバンドだったはずなのに、なんだか悔しいと思うのである。
 音楽も恋も、好きだ!愛している!って言うのは構わないし、それは素敵なことだけれど、なんで好きでなんで愛しているかを言えないと、最期はただの娯楽に成り下がってしまう。好きだと思い込む気持ちに溺れたり、単純な快楽に身を任せてしまったりと、芸術はどんどん精神性と哲学を失ってしまうだろう。勿論、クラシックならそうはならない。少なくとも30分近く、作曲者や演奏者の精神の現れである音楽と向き合わないとならないからだ。けれどもポップミュージックは4分間だ。その間に、楽しいや悲しいなどの文脈を持った感情はそう簡単に表せない。ポップミュージックは一瞬を切り取った感情でしかないからだ。そのような一瞬の感情に身を任せることはまさしく、非理性的で快楽的で、即ち娯楽でしかないわけだ。
 日本の音楽業界はパッケージングと単曲・シングル売りにより、音楽の娯楽化に拍車をかけた。勿論、音楽が娯楽でないというわけではないのだが、問題は恋の唄でありふれてしまったことだ。しかも、うなるようなグルーヴ感もなく、鳥肌の立つような歌唱力もなく唄われてしまった。非常に一面的な感情だけをポップミュージックは与えてしまったと思わざるを得ないのである。
 だから、ポップミュージックはある意味で死んでいる。一瞬の出来事の焼写しでしかないと思うんだ。しかも、日本に限って言えば恋という感情だけを伝える一瞬しかなくなってしまった。だからそんな一瞬にも意味を持たせるために、何故好きなのか、愛しているのかを言えなくちゃならないと思うんだ。何度だっていうが「愛している」は特別な言葉ではあるけれど、小学生が語る「楽しかった」と大差ない言葉でしかない。そんな言葉に頼り切った愛はすぐに終わる。
 女性に「私のどこが好きなの?」って聞かれれば何も言えないでしょう。いや、言えたとしても「それだけ?」ってなって、結局全部言う羽目になる。だから言えないのだ。時間の経過や過去を背負って立っている目の前の彼女は生き物だから、そう簡単に言えない。彼女には時間と物質的質量が地続きで存在する。そんな奇跡を言葉で言い表すのは難しい。
 でも、彼女のパーツ一つ一つは違う。「私の髪のどこが好きなの」って聞かれれば答えられはずだ。髪そのものは生きていないから、手で触れて、サラサラなのか少し手に引っかかるのか、感触を伝えればいい。意志の無いそこに存在しているだけの彼女の一部があるだけでしかないのだから、それが何故愛おしく思えるのか伝えればいい。
 それすら言えなかったら多分フラれるでしょう?僕が女だったらオサラバします。
 というわけで、本当に音楽を愛しているのであれば、ポップミュージックに対して僕らは愛を語らねばならないと思うのだ。一曲一曲、1グループ1グループに愛をささやくこと、それが積み重なって音楽を愛せるように、そして自分を愛せるようになるのではないかと僕は思う。
 芸術なんてのは作者の手を離れた途端、全て個人のものになり経験になる。結局自分の価値観とのマッチングの適不適でしかなく、ある曲を聞いてそう感じた!っていう感情はその人にしか起きないはずである。だから、音楽の心理的解釈なんて自分との直面でしかないはずだ。あまりに技巧に優れている場合を除き、音楽は自分との対話でしかない。
 だから(女性と見立てるような対比を行ったけれども)他人を愛するように音楽を愛することは音楽を言い訳に使いすぎだと思う。音楽は自分の中に潜在的に存在するモノであって、誰かが提供してくれるものではないんです。つまり、モノじゃないんです。勿論、映像が付くと話は全く違いますが・・・。(それと実際、恋なんて自己満足だと思うので他人を愛しているようで実は自分を愛しているのだと思うのですが。)

 ってここまで書いて、これこそ僕のエゴなのじゃないかと猛烈に反省しておりますが、こういう風に音楽を聞いているいる人間がいるんだよということを知っていただきたいだけなのです。
 というよりも音楽を好きな人間が、人を貶したり無礼だったりするの許せないだけです。音楽は世界を救うって信じているだけです。本当にスミマセン。
 ちなみに、音楽は世界を救うっていう言葉の80%はそう思いたいっていう願望でできています。何故なら、自分自身が音楽に救われたのだから、そうならない理由が思い当たらないからです。
 非常に宗教的で、面倒くさい話ですね。でも、そんなもんでしょう。
僕は先日、自転車のヘルメットを盗られました。実際、盗られたのか誤って誰かにゴミと判断されたのか真相は不明ですが、とかく何故かヘルメットだけ消えたのです。汗も多分に染み込んだであろうヘルメットをですよ。いったい誰が何に使うんですか!!もし、僕のファンであるなら速やかに返却お願いします。僕は魔法使いになるつもりなので恋仲になる気はありませんが、お友達になりましょう。

 まぁ、久々に人の毒気に当てられたわけです。
 誰かが故意に僕の物を盗る、という行動の恐ろしい事この上なさ。
 まず、「誰か」がわからない。おそらく僕と顔を合わせる人間がそもそも少ないので何とも言えないですが、これは明確に僕に向かって悪意が突き付けてきた訳です。いったい誰が。すれ違うあの人かもしれないし、隣の隣あたりで座ってる人かもしれない。さっき目線が会った人かもしれないし…と、すれ違う人全員に犯人である可能性があるわけです。いつ後ろから狙われるかわかったものじゃないし、いつまた自分の物が盗まれるかわからない。世の中に安心なんて言葉は無いんですかね。
 もっと恐ろしいのが「もの」を盗るという人間が存在することです。被害額の大小なんか問題ではありません。行動を起こす前にその結果何が起きるかを考えなかったのか。被害者がどんな思いをするのか考えなかったのか。その無思慮さに心底恐れ入るのです。勿論、異常性愛者とかだったらまだ納得できます。けれど、普通の人間の皮を被って、そこらへんで笑っていたり恋人がいたり、とするような人がそういうことをするのが理解できません。

(以下、宗教臭くなるので痛々しい奴だと思い読んでください(笑)

 さて私は、犯罪が起きるのは想像力の欠如の結果だと思っています。自分の行動が起こす被害と不幸をイメージできないから起こすことです。または、イメージできるけれども、相手に及ぼすであろう不幸と現状の自分の不幸とを天秤にかけて、自分の方が不幸でそうする権利があると思い込んだり、被害者には相応しい罰だと判断して正義を執行するように振る舞ったりします。ただ、実際、人の不幸も幸せも人の数だけあって、それぞれのベクトルは全く違うわけです。僕らは学習し芸術に触れ、生きる過程でそれを学んでいくはずなのですが、どうもそういった人たちはそれを知りません。彼らは自分の存在を過小評価しすぎていて、目に見えること全てを過小評価しているのでは無いでしょうか。

 おそらく、この日本で普通に生きていれば、ヒトラー率いるドイツによるホロコーストというものがいかに凄惨だったかを知る機会は多いでしょう。その中で重要人物として裁かれ、ホロコーストの指揮を執ったルドルフ・アイヒマン。彼は異常者でも何でもなく、ユダヤ人に特別な恨みを抱いているわけでもなく、普通に頭のいい官僚でありました。但し、彼は戦後裁判の中で、ただ命令に従っただけであると頑なに主張します。その手で虐殺を指揮し、収容所を見ているにも関わらず、彼は虐殺をしたわけではないと言うのです。彼がユダヤ人の移送事業を指揮したという事実があるにもかかわらず、命令だから仕方なかったとか、虐殺だと知っていたら行わなかったなどと言い、責任逃れをするわけです。

 対して、杉原千畝という誇るべき日本人がおります。御存じの方も多いでしょう。彼はある大使館の領事をやっていたのですが、ある日ナチの迫害から逃れてきたユダヤ人が大挙して彼の下に押し寄せました。亡命申請の為です。杉原は本国に支持を仰ぐも、国はこれを拒否。再度連絡するもこれを認めないということでした。
 目の前にいる多くユダヤ人を前に、杉原は考えに考え抜きました。彼は公務員ですから、お上の命令は絶対です。けれども、もしここで杉原がお上の命令に従ったなら、ユダヤ人たちはナチに捕まり殺されていくのは明らかです。しかし、彼にも家族がいます。戦乱の世で職を、しかも食い扶持をつなぐ職を投げ捨て、家族を路頭に迷わせても良いものか。考えます。
 そうして、彼は職を追われることになりました。そうです、亡命申請を勝手に許可したのです。考えに考え抜いて、自分よりも目の前の命をとったのです。

 考えることを放棄したルドルフ・アイヒマン、考え命令にまで逆らった杉原千畝。彼らを分けたのはいったいなんでしょう。

 杉原の過去を見ると、結構苦労しているんです。詳しいことは述べませんが、自分が感情移入してしまうくらい彼の過去はしんどいものだったと思います。
ちなみに経験談として、僕みたいなクソ野郎で自己卑下の達人になると、世間とか空気に自分自身の修正を促されることがたくさんあり、そして何度もそれを行うことになるんですよ。空気を読めとかじゃなく、「なんでお前がいるんだよ」っていう根本的でアイデンティティすら左右するような改善の強要されるのです。その度に死にたいって思うし、その度に自分自身が分からなくなる。
 結果、その度に生きるってことは何なんだろうと思わなくてはならなくなるのです。現実を直視して、どう生きなければならないかを考えなければいけない。反抗してもっと嫌われてアイデンティティを破壊され続けるか、キャラを崩して傀儡的に自分を偽って迎合するか…人生と生き方の検討と修正の連続であるわけです。どうやったら明日は笑えるか、どうやったら明日は悲しまないで済むか。そう考え続けてきたわけです。
 だから、僕は現実を人と人との関わりとして見てきました。人の集合が社会であって、生きていくためにはそこに自分をうまい具合に浸透させていかないとならないわけです。かといってそこで思考を停止すれば、自分でなくなってしまう。良い具合のバランスが必要で、それを探すわけです。単なる反抗心などではなく、社会から分離した時でも生きていけるように、行動と精神を社会から自律させなければならないと思うのです。杉原もそうは思わないでも、少なくとも似たようなことを思ったのではないでしょうか。

 しかし、アイヒマンは全く違います。彼はもしかしたらボンボンだったかもしれません。そして有能な人間だったのでしょう。そういう世界では、結果と報酬の受け取りが効率的に進むべきだと考えがちです。効率化を最優先された資本主義の価値観です。また資本主義的な世界は分業を高度化することで財貨をなすため、専門家の集合で作られます。つまり、そこでは人間よりも行動が集合する社会であるのです。専門家なら誰でもよくて、要は担ってくれる人間=歯車が必要なわけです。歯車と歯車のかみ合わせは重要視しますが、それに専心するばかりに歯車でもな無い外部の人間への関心を失います。
 アイヒマンは間違いなくSpecialistだったはずです。しかし、彼はSpecialな歯車でしかなく、彼一人では何もなせないのです。他人がいないと自分が機能しない、非常にもろく弱い人間だったと思うのです。アイデンティティとそれに付属するべき思考が、システムの中でしか機能しない人間だったのではないかと思います。彼は自律するということを知らなかったのです。
 ここまできて僕が言いたいのは、アイヒマンや今の現代人に無くて、杉原千畝にあったのは「自律」だったのではないかと思うわけです。 
Self-ControlでもなくAutonomyでもなく、AIによるような自律機動兵器という意味での自律に近い意味合いで僕は自律という言葉を使います。

 (ちなみに、僕の大好きな「ES」という映画も、このアイヒマンという存在から生まれた実験をもとにした映画です。囚人役と看守役に分けてその心理状態を見る実験でしたが、看守役の被験者が暴走し、非人道的なことに及んだ映画です。)

 多くの人が、人間の醜さを知り、多少の歴史を知っていても、犯罪というものは無くなりません。何故かと言えば、それぞれがアイヒマンのように、社会の歯車と化していてもそれを自覚せずに、ただ命令だからというように生きているからです。この命令は神も下し、人も下す命令です。特に日本においては空気すらその命令を下します。多くの人がアイヒマンのように思考を放棄し、想像することもせずに生きているような気がしてなりません。だから世界は未だに汚く、美しさで満ちていない。
 歴史は、thoughtlessnessであり続ける事を人間への冒涜として裁いてきたにも関わらず、自分がこの立場だったらという想像を多くの人がしていないと思うのです。そして親になって、そのことを子供に伝えない。そうして歴史は風化して行くのだと思います。
 だから、映画を見て、ただのエンターテインメントとして見るだけにすると、そういった過去の惨劇や何やらを追体験する機会を失ってしまいます。それは、人としてとっても勿体ないと僕は思うのです。だから感想は文字にしましょう(お願い)

 ちょっと話をずらしてしまいましたが、少なくとも「いじめ」と呼ばれる問題は全て無思考性がもたらす悲劇です。自分が被害者だったらという想像を忘れています。
 特にネット世界では無思考性による悲劇は顕著で、画面の向こうに人間がいることなど忘れて、なおかつ匿名であることにかこつけて責任の避難先を用意しながら、他人の中傷などが行われます。この辺は遠隔操作機による未来の戦争を思い起こしていただければ、いかに悲惨な状態化が想像しやすいでしょう。ゲームのようにボタン一つで人を殺せる時代の怖さは誰しもが危惧するところでしょう。

 民主主義や資本主義といった制度は、マジョリティーに権威を与えて、人々の生活に官僚制的思考をもたらしてしまうのです。それが市民を歯車化し、それと同時に数値の内の一つでしかないと個人を矮小化してしまいます。
 例えば、政治に無関心なのは、膨大な情報量が必要でその収集に時間がかかり、各個人が探し・考えることをやめた結果、考えている人に任せようという責任逃れに過ぎません。
 環境問題にも似たようなことが言えて、誰かが頑張るだろうという思考が働き、問題を直視しない者たちは雑事として向き合うことを辞めます。
 僕が最初の方で自身の過小評価と言ったのはこのためです。個人であることを、加えて「人間」であることを放棄すると社会が歪むと思います。バタフライエフェクトだなんて大見得切って言う気はありませんが、社会は個人の集合でできています。それぞれが係数や条件式としての役割を果たしながら、社会という数式を作り上げる訳です。
 ならば変数とはなんでしょう。変数は個人の思考と行動により定義されるパラメーターだと思っています。どうせ答えがわかっていないんだから、その変数には何を代入しても良いわけです。 答えが解っているものならば、個人はいくらでも定義されてしまいますが、誰にも分かりません。だったら適当な数を代入していけばいいじゃないですか。それで、良い答えになるように探していこうよ。
 数学の問題を解けないと思って放棄したらそれこそ終わりなんです。人間は終わってしまっていたんじゃないでしょうか。

 思考をしないというのは、人間であることをやめるということです。知性を失ったら人間は、猿やイルカと同程度の動物に過ぎません。考える事こそ人間である証拠であり、「我思う故に我あり」うることなのですが、どうもその人間としての自覚が足りないから、犯罪も不幸も起きるのではないだろうかと思うのです。
 人間としての自覚という点で明らかに足りていないことを思い知らされたのが自然災害です。自然災害ににより文明が失われた時ほど、人間が地球に住み、動物であることをおもい起こさせる瞬間は無いと思います。何故なら防ぎようがないですから。あの「どうしようもなさ」に為す術もないような思いをしない人間がいるでしょうか。 少なくとも、僕は震災でその実感を強く持ったわけです。電気が危うくなり、人が死ぬ現実は近くにあるということを感じたわけです。あれいらい、人であろうと努力しようと思うわけです。

 いや、もっと、直向きになろうよ。多分多くの人は恵まれていて、どこからも個人の修正を強要されないだろうけれど、それでもやっぱり世の中の歪に対して、何の考えもないのは良くないと思うんんだ。
 この世界を作ったもしかしたら神と呼ばれるモノは、人間に詩と音楽を感じられる力をなんとなくくれたんだからそれを糧にして生きて行こうと思う。そういったものを作るのは、人であるわけだから、やっぱり人の繋がりは大事だと思う。
 想像しよう、新しい世界と新しい出会いと、今ある可能性を。 

「想像力こそが全てを変える」
貴志祐介が「新世界より」の最後にこの言葉を持ってきたのは素晴らしいと思う。

あ、そうそう、ヘルメットは結局みつからず。落とし物センターにもいませんでした。心配性の親父が新調してくれましたが、見つかって欲しいですね…。
 申し訳ない。のろけ話をしたいと思う。
 今日で彼女と出会ってから8か月くらいだと思う。思う、というと少し薄情に聞こえるかもしれないが、それはそう、甲斐性の無さみたいなものだ。不徳の致すところである。後で謝ろう。
 
 僕が彼女を見つけたのは僕の行きつけの店みたいなところだった。毎日は来ないけれども、気がついたら行こうかな、と思っているようなお店だ。喫茶店だけれどもお酒も置いてる。昔のどこの家庭にもあったような、分厚くて重くて、角が丸まっている机。ワックスがかかっているのが目に見えるような色合いの机が、店内に二台。カウンターもあって、大きな背もたれと、臀部の形に合わせて凹みのある木製の椅子。使っている物が殆ど実家のようで、僕はなぜかそこに行くようになった。80円で出される何の拘りもないコーヒーをいつも飲んで、ただ意味もなく座るだけにそのお店に行っていた。80円のコーヒーでボーっとしていられるなら、いい場所である。音楽も当たり障りなく良い。時々かかるハードロックがかかる場合だけは、ゆっくりするという感じにはなれないが。
 ここのマスターは特に誰かに話かけるのでもなく、ただ黙々と突っ立ているだけである。コップを磨いたり、仕込みをしたりしているだけである。時々、意味もなく立ち止まり、目を瞑って空を仰ぐときがあって、僕は最初それを気味悪いと思った。宇宙人と交信でもしてるのか、神様と対話でもしているのか。そのうち頬を緩めてニヤけるからまた怖い。危ない人という感じが漂い、次また来るのを辞めようかなと思ったほどだ。けれど、大体後ろを向いてやってしまうように心がけているらしいので、そのうち大して気にならなくなった。僕はレアケースを目にすることが多いらしい。
 いつか、珍しく酒なんぞ飲みながら少し調子よくなったマスターとこのお店の話をした。彼は無駄に金があるらしく、単に音楽と食器や雑貨などが好きでこのお店を開いたそうだ。減るもんじゃないし、ってことでそこそこ趣味の食事を提供してるのだそうだ。例の交信は、本人の言葉によると「音楽に酔っている」とのことらしい。全部彼の趣味だそうで。
 その時に、彼女も同じ日に、隣の席にいて会話の中にいた。時々このお店に来ているのは知っていたが、何分僕はシャイなので話しかけるということが上手くできないし、特に話すことも思いつかないから、風景の一部に紛れているだけだった。それがその日は、マスターが急に「さ、宴会だ」とか言いだして、その時にたまたまいた僕と彼女に酒を飲まないかと言い始めたのだ。どうも、「偉大なアーティストへの手向け」だったらしい。僕らは訳も分からず、言われる通りに看板を「CLOSE」にしたり、使わない椅子を机に上げたりさせられた。余った食卓に、つまみやご飯を乗せて宴会が始まったわけである。宴会と言っても、マスターが延々話し続けていたような気がするが。
 後日、彼女が店に入ると、会釈するようになるくらいの仲にはなった。むしろ、そうしないとなんだか気まずいからそうしていた。実際、あの日、僕と彼女の間では大した会話はしていない。お互い名前すら言わなかった。
 彼女はそこそこ背が高くて、僕より指3本分くらいしか背は変わらない。けれど、いつも地味ながらスラッと服を着こなしていて、歩き方は綺麗だった。流行を追うわけでもなく、かといってだらしなくもない恰好で、大体カーディガンかベストを羽織っている。透けるような服も、露出の多い服も見たことなく、コンパクトな存在感を放っていた。収まりの良い、とでも言えばいいのだろうか。どこで見ても誰の目の毒にもなることは無いような、女性らしく、けれども媚びるようなそぶりも見せない。そんな人だった。率直に言うと、僕のタイプである。
 後日、マスターは僕ら二人だけがお店にいる日、それぞれのところに謝罪に来た。そして、謝罪の印に、と少し大きめの声で言い放った後、小さなホールケーキをカウンターの上に置いた。ホールケーキである。なんてセンスが無いんだ。それぞれのもとに言って個別で謝った(?)後に、ホールケーキを食えと。しかも二等分されている。二台しかないそれぞれの机の端で、向き合ったような形で座った僕たちはお互いに目をやった。そして、思わず笑ってしまった。同じこと思っていたらしく、僕らは空気の抜けるような笑い声を二人であげていた。
 「いただきますか。」
と僕は声をかけて、彼女をカウンターにいざなった。

 それから、彼女の名前も知って、「こんにちは」というくらいにはなった。そのうち、何度も挨拶だけをするうちに、気がつけば席は近くなっていった。他人という壁が取り払われて、僕らはお互いに同じ空間を共有する空気になった。張り詰めもせず、気にもかけすぎず。くしゃみをしても周りを見渡さない間柄。BGMは僕に向かって心地よく響くように、誰かに対して何かを強要される気配が取り去られた空間。だんだんと居心地の良い場所代わっていった。
 大して客の来ないこの店で、マスターに許可をもらって勉強するスペースにもさせてもらった。そうすると、彼女もどうやら同じように以前から頼んでいたらしい。時々、同じように彼女も机に向かって何か書いていた。僕ら以外に数人客がいる日には「お前らあっちにいけ」と同じ場所に追いやれる。だからと言って何の緊張もしないし、照れ笑いなどもしない。お互い「またですか」と言わんばかりに肩をすくめて、そのまま気の向くまま、それぞれのペースで学習が再開される。むしろ、そのころまでにはマスターの厄介者みたいになっている気がする。

 とりあえずここまでにする、僕もレポートを書かなければ。


 
さて、千と千尋の神隠しの話からRaymond Carverの短編、"small good thing"に話を移しましょう。
 僕はこの短編の断片と一浪中に出会ったわけです。名文のリスニングと音読を兼ねて、という形でした。その本の数ある断片の中で一番好きだったのがコレでした。その2年後くらいに、大学の授業で扱った日には嬉しかったですね。再開したわけです。まぁ、クラスメイト達はなんだか投げ遣りで悲しかったですが。
 簡単に言えばこのお話は、ある夫婦の子供が誕生日の日に事故に遭い、その後死んでしまって、消沈と激昂からほんの少し回復する話です。パンを食べて、少し気がまぎれる、本当にそれだけです。
 千と千尋の神隠しの話から関係しますが、奇跡を認識することって本当に素晴らしいことだと思うのです。千尋の場合は、川で溺れて、「それでたまたま助かった」ということをハク(つまり川)が起こした奇跡だと感じて恋をします(面倒なので恋とします。)。ただ単に運が良かっただけなのに、それを奇跡である感じとって恩義と思慕と共に大切な物としたわけです。ハクが名前を取り戻したときに「嬉しい」と涙を浮かべて、千尋は幸福を全身で受けていた思う。ハクの存在に気が付いた奇跡を感じ取って。

 さて、この、Small Good Thingの場合の奇跡とは何か。抗いがたい美味しいという感情がそれにあたるんじゃないかと思う。この話に出てくる夫婦の場合、Scottyの死という絶望的な状況の最中、食物を貪欲に吸収する身体が感じた「美味しい」という感情こそがそれなので。精神的どん底に突き落とされていた二人が、この世の終わりだという風にさえ思いかねない状況で繋いだ命の糧により、自分が生きている、という強い実感を与えたと思う。
 それは本当に些細な、しかも本能的な充足だったと思うけれど、人間が疲弊しきった状態から何らかの糸口を掴んだ時の救いの感覚というのは言葉にできないくらい幸せだ。味覚に至っては幸せは確実に感じられる。カオナシの場合、暴走するまでに至った経緯は彼が千尋に救われたからであったように、「救い」というのは人間にとってあまりにも強烈だ。
 それは、オウム真理教に魅入られた人々にもそうだったろう。僕にとっての音楽や、数少ない人間関係もそうだ。誰かにとっての恋愛なんかもそうだろう。救いに対して、人は心のバランスを崩してしまうくらいに、その奇跡にすがってしまう。それくらい人間は弱い生き物なのだ。
 でも、些細な良い事(small good thing)というのは、この話のパンがそうであったように、本当に小さなことなのだ。そういった小さなことは気付かないだけで、あちこちに落ちている。
 
 「偶然の一致というのは、ひょっとして実はとてもありふれた現象なんじゃないだろうかって。つまり、そういう類のものごとは僕らの周りで、しょっちゅう日常的に起こっているんです。でもその大半は僕らの目に留まることなく、そのまま見過ごされてしまいます。まるで真昼間に打ち上げられた花火のように、かすかに音はするんだけど、空を見上げても何も見えません。しかしもし僕らの方に強く求める気持ちがあれば、それは多分僕らの視界の中に、一つのメッセージとして浮かび上がってくるんです。その図形や意味合いが鮮やかに読み取れるようになる。そして僕らはそういうものを目にして、『ああ、こんなことも起こるんだ。不思議だなぁ』と驚いたりします。本当は全然不思議な事でもないのにかかわらず。そういう気がしてならないんです。」

 これは、村上春樹の短編「偶然の旅人」の一節ですが、これを語った彼は、不和だった姉との仲の回復を契機に、より良い人生をおくれるようになったと話しています。それは偶然が起こしたことですが、えてして人生とはそういうものだと僕は強く感じます。
 僕の体験談、というか日常的に思うことですが、音楽にはその時々で光り輝く瞬間というものがあります。僕のWALKMANを起動すると"every-time has its music"という言葉と共に起動するわけですが、本当にその時々で普段何気なく入ってる音楽は光り輝くのです。その好例はもちろんクリスマスですが。
 そういう発見を探していくと、人生はどこまでも楽しくなっていきます。
 電車の中で席を譲りあっている光景とか見ると嬉しくなりませんか?雲が鳥のような形に見えるとすごいと思ったりしませんか? 些細なことで良いんです。でもそれをそう感じられるのはあなたが生きているからなんです。あなたが死んでいたらこの景色は見られないのです。もし、あなたが失明したらその景色は存在しないのです。見える事は素晴らしいことだと思いませんかね。
 憐れむ気は一切なくとも、ギターを始めよう!と思った時に腕が二本あることってすごくすごい事じゃないですか?海で泳ごう!と思った時に足が二本あるってことってすごく奇跡的なことじゃないですか?目の前にいる彼女を見つめて、拒否もされずに視線を交わせるってとても素敵なことじゃないですか?
 そう思えば、人生はもう少し楽しくなるし、むしろどこまでも楽しくなると思います。毎日の食事に頂きますを言って、美味しいと言って、芸術に触れて、誰かに触れて、布団に入って眠る。どこかしらに嬉しいがあるはずです。
 高度にシステム化、資本主義化された社会で安寧を見つけられるのはいつもここなのではないでしょうか。生きることに感謝する。そうまで言わなくても、現状を認識して、一つ一つの物質と命の成り立ちを考える。そうするといかに自分が無知か痛感するし、それと同時に『空の青さを知る」と思います。そんなの感動するわけもないじゃない、という方がいれば、僕は答えねばなりません。
 「じゃあそれを作ってみろよ」
 できないですよね。そういうところにun-contorolableな物を感じ取れることを見出します。そこから安定と妥協、そして調和の仕方を探っていかねばならないと僕は考えます。できないものは仕方ないじゃん、というのは怠慢です、諦めです、敗北です。存在そのものに適材適所という概念があるのです。
 僕は震災の時、電気がなくなったら音楽が聞けないことを学びました。省電力を呼び掛けられ、可能な限りの電気しか数日は使わない日々が続きました。夜も早く寝ます。俺から大事なものを奪うなよ!という感情よりもいかに音楽が電気に支えられているかを痛感したわけです。

 多分に質素なアメリカンインディアン達も、ごく当たり前のような原始的な小さなことに感謝して幸せを留めていたと思う。神に感謝する、という宗教的で合理的な奇跡の享受の仕方は、物があふれていなくとも彼らの幸せとなっていたと思うわけだ。身を切るような思いをすればするだけ、その幸せは感じ取りやすい。「空腹が最大の調味料」というのはその精神を顕しているよと感じる。

 さて、その小さなこと。僕らでも生み出せます。例えば、コンビニのレジの人にありがとうと言う。外食してご馳走様を言う。お年寄りに席を譲る、落とし物を拾ってあげる。全部簡単にできることです。この世界において、人間一人ひとりがPlayerであります。人生を幸せにするプレイヤーです。その一方でPrayerでもあります。幸せを願うものです。僕らは確かに仮面をつけ生きていますが、それと同時に幸せの生産者である権利もあるわけです。行動の一つ一つが芸術で、パフォーマンスです。僕ら一人一人が景色なのです。だったら良い景色を見たいでしょう。どういうのが良い景色なのか、頭に思い描いて、景色の一部になること。僕はそれが楽しいと思います。
 このことは、自転車から学んだのです。自転車は、道端に停めれば景色になります。バイクも、車もです。なら、最愛の自転車を作って、町に飾っておいた方がさび付いて痛んだママチャリの何倍もカッコイイじゃないですか。
     
      話がずれました、a small good thingに話を戻します。
 それでも、人の世界には不条理というものが存在します。事故で亡くなったり、仲間外れにされたり、誰かに足を踏まれたり、宗教の為に闘ったり、国のために闘ったりするわけです。

 「何が正しくて何が間違っているか、ずいぶん迷っていたね。正解はない。皆正しいんだ。皆が世界を良くしようと闘った、そして世界は良くなった。あれ(闘っていた仮想世界)があったから君たちは出会い、戦った。意味の無いものはない。どんな邪悪な物にも、悲惨な物にも必ず人類をよりよく導くための意味がある。それを見失わないことだ。」
 
 これは僕が大好きなアニメ「C」の言葉だけれど、世の中に普遍的な正義なんてものは無い。
各個人のエゴそれぞれが正義であって、それの為に人は邁進する。人を邁進させるのはエゴであり正義でなくてはならないし、それが最も活力を与える。自分の正義の為なら人は動く。
 だから、もし、世の中に真に邪悪な物があるとすれば、他人を憑代にして正義を語る偽物がそれだ。そういうのが偽善的なボランティアを産むし、それがまた悲劇を生む。ありがとうと言われるために行うボランティア活動はだいたいそんなもんだと思う。自分の信じる正義が遂行されていれば、報われる必要なんかないからだ。
 もう一つ、邪悪なものがあって他人の努力を茶化すことがそれ。例えば、正義の味方が必殺技を言う。そんなの言わなくていいじゃんって茶々が入る。そうすると、萎えるよね。頑張っている人間に対して失礼だよね。こういのが2chを初めとするネットでそこそこ溢れている。匿名にかこつけて、非難を浴びせる。これは邪悪そのものだと思う。
 その他にも実際邪悪なものというのはあるのだけれど、目に見える邪悪な物すべてが真に邪悪なのではないということが大事だと思うのです。邪悪な事というのは、ある意味でではあるけれど村上春樹の短編「ハナレイ・ベイ」で見たように、何の悪意もなく身にかかることがあるのです。災害もそう。誰も人を殺したくて事故を起こすのでないし、誰も病気になりたくてなるわけじゃない。意味もなく理不尽や不条理は顔を出して、私たちをどん底に突き落とす。
 この話におけるパン屋もそうだった。意図した悪意を向けたわけじゃない。"you Evil Bastard!"だなんて罵声を浴びていたが、Scottyの死など知る由もないパン屋にはそれが仕事だった。夫婦にとっては、嫌がらせで悪意のあることに見えたことかもしれないが、彼が悪意を以てやったことではないのだ。医者にとっても救おうと努力することは仕事だった。そして、救えなかった。ただ結果として、どちらも夫婦を傷つける結果にしかならなかった。
 当然、カオナシを引き入れた千尋も千としての仕事だった。そして、カオナシの誤解が損害や自身の苦しみを産んでしまったに過ぎない。皆が皆、自分の仕事を全うして、それで犠牲者が生まれてしまっただけなのだ。そう、仕事でしかなかった。
 そして、それらの仕事は誰かが担わなければいけない仕事だったはずだ。feedして、cureして、serveする。そういう仕事だった。彼らは生きるという目的の為に、必要とされていることを維持するために、仕事を経てお金を受けとり、目的を達成した。そのようにして得たお金こそ、健全なお金のあり方だと僕は思うのです。
 村上春樹の「カエル君東京を救う」に出てきた、片桐やカエル君の汚れ仕事のようなものもその一つであったはず。誰かの不始末と、誰かが始末できなかった物のツケを払う片桐とカエル君。または下水インフラやゴミ収集、果ては原発廃炉作業者もそういう種類だと思う。
 彼らの仕事というのは誰かが生んでしまった物を清算する仕事で、人がいなければ成り立たない仕事だ。彼らの働きの向こうに利用者がいる。市民の利用と、彼らの清算。また利用と、清算。そのような循環で繰り返される仕事は、人間が人間で自己完結するための仕事なのである。「人の、人による、人のための仕事」こそが健全な仕事あり方のではないかと思うのだ。
 けれども、今の現実社会で牛耳っているのは何か。例えば、リーマンショック以降、市民に叩かれた銀行や資産家。彼らのしていることはEarnすること。それって自動詞で終わってしまう世界じゃないか。彼らが相手にしているのは個人でもなんでもなく、集合知のようなコンピュータゲームのようなものだ。
 独裁国家のトップなど、その仕事にどんな動詞を当てはめればいいかすら分からない。そういう人たちが必要以上の力を持っている世界が今の現実なんだと思う。
 金とは物と行動の共通語であり、お金というのは何かの手段であって目的ではないと以前も言ったと思う。けれど現実、仕事におけるトップカーストの目的が本能的な闘争心であったり、単なる傲慢だったりするわけだから、世の中世知辛いと思うわけである。そういう奴らの自己満足につき合わされた市民たちは不満を覚えるんではないか。
 そうして生み出された結果、目的化された金は死んでいる、そう思わざるを得ない。そういう仕事は同じようにberuf(天職)概念のない、ウェーバーのいう資本主義のゾンビのようなものなのではないだろうか。

     そこで、強者に求められるのがNoblesse Obligeの概念、持てる者の義務だと思います。僕らは日常で自分を観察して、自分が何を持っているのか理解することが求められると思うのです。いや、持ってなくていいから強者であるとはどういうことかを体感しなければならないのです。これは、資本主義に対するアンチテーゼというよりかは、資本主義システムと排除される個人の妥協点です。適材適所の認識と、人とのかかわりの下での自分のポジション。僕らは部活や高校、受験を通じて学んだはずです。敵わない才能があって、夢を追い続けることができないということを。
 それと同時に非Nobleseな人々が、貧すれば屈することも忘れてはならないと思うのです。努力が実を結ばない社会というのは不健全である。努力したひとに集って、義務を怠って、生きる権利を主張するのは、努力した者に対して不公平だろう。生活保護の不正受給などはその類で、そりゃ、強者もいやけがさしますわ。
 そうして各自が傲慢に振る舞い、すれ違いが増えて、対話のが消える。そんな世界で各自が更に好き勝手にやりだしたことで、軋轢は広がり続けて、ゆがみ続けていく。現世には目に見えない怨恨のような隔たりが同じようにそこかしこに存在する。すれ違いだらけの世界は、対話と想像力の不足が産むのだと思うわけです。

 さて、small good thingsを探していくほかに、この世界でしんどくならない為には妥協をしなければなりません。
 妥協とは、相手を深く知り、そこから中立的な結果を産もうとする努力をすることだと思う。最上級の幸福を達成できるわけでもないけれど、かといって何か失うわけではない。現状世界の幸せの総和が減るわけではない。得られなかった物を嘆く前に、得た物を喜べばいいのに。折り合いのつかない世界かもしれないけれど、なるようにしかならないし、得た物を大切にするべきだ。僕は少なくともそう生きてきた。
 例えば、僕は高3の時、家がそんなに裕福じゃないものですから、塾にも行かずに国立一本で受験しました。で、堕ちる。一浪中は私立も受けられるようにバイトして、入学金とか入試費用とかほぼ全部稼ぎました。それで、私立数校と前年と同じ国立を受けて、結局国立と、受けた私立の上位校に落ちました。で、今の学校に入るわけですが、学費を工面するにはサークルなど一切入らないと腹をくくりました。だって授業成績落とせば利子付奨学金になってしまうわけですから。
 そうやって、個人的には苦労して入って支払いと共に続いていく大学では寄生虫みたいな学生がウヨウヨいます。そいつらが、授業も騒ぎ立てるなどして、僕の理想の大学像を崩しました。
 そりゃムカつきます。あんたがた誰のおかげでキャンパスライフを満喫できてるんだ、って。その中で真面目に授業を聴こうと思っている人間の権利を奪うのですから。そういう理想の裏切りにあったようなイライラが表層に出ているらしく、まぁ、友達はさっぱりできませんでしたね(笑
 だが、今はどうでもいい。彼らには彼らなりの普通を過ごしてきたわけだ。それを咎めたって何の得もない。
 「悲しみの数を言い尽くすより、同じ唇でそっと歌おう」(「いつも何度でもより」)
 「どっちの方が不幸かなんてことで比べられても全然嬉しくないよ」(フルーツバスケットより)
 平等であるべきだと思うものには、人は嫉妬を覚え、それぞれでいいと思うものには、むしろ羨望を覚えるものだから。
 僕は漫画や歌からそう学んだ。小さなことだけれど、そう学ぶ機会があった。音楽がいる、誰かの描いた物語がある。そこから幸せを汲み取る。それでいいじゃないか。彼らには分からない、僕だけの世界を僕は持っている。僕の幸せを彼らに定義づけさせない。僕の幸せは僕のものだ。そう思えばぐっと気が楽になった。
 就活において、自己実現の前に「何があなたの幸福なのか」を追求し続けるべきなのではないかと思うのです。良い企業に入って、いい給料もらって、良いもの食べる。ぶっちゃけ、刹那的な幸せはあるだろうけど、本当に幸せなのかはまた別なのでは?僕はぶっちゃけ自分の作ったシチューは美味いし、それを家族と食べて「美味い」と言いながら食べて温まってそれで幸せになれたりします(笑。それでもいいんじゃないかと思うのです。
 だから、というか、そんな自分を肯定するために、僕は延々と愛を叫ぶことにした。僕は音楽や自転車への愛を叫ばなければ、ずっと音楽を聴いて、ずっと自転車に乗っているだけのただの変人で終わってしまう。そうじゃなくて、ただの恋い焦がれる人でしかないことを叫ばなくては。僕は誰よりも音楽を愛することを誇りに思いたくなった。何かを愛している自分が好きになっていく。
 
 資本主義の世界じゃ、資源が何もないと作れない。でも、資源は有限だ。じゃ、どうしよう。
 あぁ、心があるじゃないか。想像力があるじゃないか。心と想像力は無尽蔵の資源だ。
 だからこそ、芸術に値がつけられているのじゃないか。
 だから、エコロジー(地球を思うこと)は、人の力を信じることなんだと思う。
 無限に膨らみ続ける世界で、信用と愛が膨張して暴走していく世界で、自分の足と意志で帰る場所を探さないといけないと思う。それがどんなところにあるかは、本気にならなければわからない。見えないものを見ようとしなければ、見えるものも見えなくなる。
 
ここまで書いていて、アニメ「とらドラ!」の登場人物、櫛枝みのりを思い出す。人生の中で、刻まれている物語はあるのだなと切に感じながら、今もまた幸せを噛みしめている。
それでいいか。良しとしよう。
悩んで、死にたい思いまでして生きた先は、きっと生きているだけで幸せを感じられる世界になっている。そう思おう。
以下、廻るピングドラムより
「ゆり、やっとわかったよ」
「どうして僕たちがこの世界に残されたのかが」
「教えて」
「君と僕はあらかじめ失われた子どもだった」
「でも、世界中のほとんどの子どもたちは僕らと一緒だよ」
「だから、たった一度でもいい」
「誰かの愛してるって言葉が必要だった」
「たとえ運命が全てを奪ったとしても」
「愛された子どもはきっと幸せを見つけられる」
「私たちはそれをするために、世界に残されたのね」
「愛してるよ」
「愛してるわ」

そういう人が見つかればいいな、と思います。別に女性じゃなくても。
小学生のころに見て以来、今また、千と千尋の神隠しを見ることとなった。

 あまりにも素晴らしかった。昔の印象はただの怖い物語であったけれど、今見れば、というより歳をとって、一人で歩き始めるようになってから見て、初めてこの物語の真価を感じることができる。神経の末端まで宮崎駿のメッセージを体感できる。彼の先見性と想像力が生み出したこの物語が、胃の中までに温かい感情と遣る瀬無い感情が流れ込んでくる。

もう一度、言いたい。今また見てほしい。万人に見てほしい。ファンタジーじゃないよ、現実なんだ。

 まず、宮崎駿の慧眼に驚かざるを得ない。2001年の映画である。製作期間を入れたらもっと前の映画である。にも関わらず、今の世界だからこそ、この意味を成すと思う。
 
まず、僕としてはカオナシに触れなくてはならない。以下、カオナシの話。

 もしかしたら誰にも見られていなかった、誰にも気づいてもらえなかった「顔無し」である。千尋には彼が見えていて、その後に千は勘違いで湯屋に招き入れてしまった。雨に打たれていて、(おそらく帰る場所が無く)寒々しい思いをしていたところを助けられた。勘違いである。千は確かに優しい人であったが、勘違いで引きいれてしまっただけだ。勘違いで湯屋という「輪」の中に入れてしまっただけでしかない。

 見つけてくれた、招き入れてくれた、救ってくれた。カオナシはその恩義は返さねばならない。カオナシは単純に、恩を返そうと思っただけだ。救われて、選ばれたという「特別さ」を信じて、それを糧に進もうと思っただけだった。それは、恋なのかもしれないし、愛なのかもしれない。それでも、誰にも気づいてもらえない世界において、気付いてくれた誰かというのは救世主みたいで、神様みたいで、その人に世界に生まれてきた意味を与えてしまう

 そして、その後、カオナシはお礼にと思って薬湯を千に渡した。それに喜んだ千を見て、もっとあげようと思った。しかし、今度はもっといっぱい持って行くとそんなにいらないと拒絶された。

 川の神様が去った後、砂金に群がる人を見て千もこれを欲しいのかもしれないと思った。(偽物だとしても)砂金を産む才能を持っていたカオナシは、まずカエルを囲い混んだ。言葉を持つことを欲して、砂金に釣られたカエルを取り込んだ。その後、言葉も得て、砂金の使い方を学んだことで、どんどん人々が彼の産む砂金に集まって、彼は持て囃された。
 しかし、大いにちやほやされた後に会った千に砂金を見せると
     「いらない」
と、またも拒絶された。そこから暴走が始まった。承認欲求の暴走、自意識の暴走だ。生きる意味を与えてくれたと思い込んでいた人に拒否されて、暴走する。破壊していった。
このあたりでまず思い起こしたのが、ネット時代の申し子、加藤智大を思い出す。

     「ネットなら辛うじて、奇跡的に話してくれる方がいます」(加藤智大の投稿)

 "話してくれる方"、それが千だったとしたら。
ネットが湯屋だとしたら。
仮想空間、夢の世界の中で見つけてしまった奇跡にすがってしまったのだとしたら。
 
 カオナシという正体もわからない名無しは、寂しいと嘆きながら、人を食っていきました。

     「現実でも ネットでも 一人」(加藤智大の投稿) 

 千に拒絶されたカオナシは絶望します。それは千尋なのに。あの女の子は「千」と名乗のる必要のあった「千尋」です。仕事で、資本主義の歯車の中で生きる為に「千」と名乗っていただけの「千尋」なの。に
そんなカオナシの追跡から逃げる最中、リンの漕ぐ桶の船の上で千尋は言うのです。

      「あの人湯屋にいるからいけないの。あそこを出た方がいいんだよ。」 

 湯屋はネット空間だとしたら。資本主義の支配する世界に生きる住人が、アンチに見せかけて住まう仮想世界だとしたら。ネットを使う才能があったカオナシは、勘違いした世界で生きるべきではなかったのです。いや、違う、そこでなら生きていけると勘違いするべきではなかったのです。

 加藤智大には帰る場所が無かった。現実は彼に挫折と絶望を与える場所でしかなかった。それでも親に教育されて、轍の上が、実力主義とエリートが支配し負け組と勝ち組がいて、負け犬には希望の与えられない世界が人生の全てだと思っていた。 負け犬なんて言葉は無いのに、ドロップアウトを許されない世界だと思っていた。

 千尋は彼を電車に乗せて、銭婆のところへ一緒に向かう。湯婆の牛耳る湯屋から抜け出て、銭場のいる「沼の底」へ向かう。糸すら紡がねばならず、「魔法で作ったんじゃなんにもならない」という価値観が許される世界。湯婆「がハイカラ」と表現する沼の底は、沼の底という名の平穏の場所なんじゃないだろうか。カオナシは銭婆のもとに残ったし、残ることができた。彼の落ち着く場所が見つかったことは喜ぶべきで、僕は心底嬉しくなった。 加藤智大にも、そういう場所があったらば…と、悲しくなった。

     「ネットから卒業すれば幸せになれるという人が居ます 私の唯一の居場所を捨てれば幸せになれるのでしょうか すなわち、死ね、ということなのでしょう 死ぬことが幸せなのかどうか、私にはまだわかりません」

 片道切符しかない電車が向かう場所に、平穏を見つけられていればと思わずにはいられなかった。たとえ、片道切符だとしても、一度落ちたら這い上がれない場所だとしても、それでも生きていかなければならない。当然、誰かを道連れにするなんてしてはいけない。カオナシの姿を見ながら、僕自身にもそういう心があって、あと少しで同じように人を殺してしまいかねない自分がいるので、沼の底の安息を願わずにはいられないんだ。

 カオナシである以上に名無しで、誰だかわからない。でも、その中に誰かがいる。名無しという存在の向こうに人がいる。そういう想像力を欠いて、カオナシを「災厄」と罵る。透明人間も誰かであるはずなのに、平気で罵詈雑言を漏らして

以上、カオナシの話です。この世界の話です。


 この世界にはまだ、僕の語りたい世界があります。現実寄りの見方として、湯屋が現実社会だとする場合です。
 働かない者は、ススか豚になるこの世界。そして働く者は湯婆に名前を奪われる。
 
    「名を奪われると、帰り道が分からなくなるんだよ」

 名を奪われた者とは、アイデンティティを奪われた者じゃないだろうか。会社に勤め、お金を稼ぎ、○○社の誰某になった人々。○○姓の誰某ではなく、組織の中の一人に。社会の中の一人になっていて、いつのまにか帰り道の分からなくなった人々。それが幸不幸かはおいておくとして、もし、そこで何か失敗したりすれば、瀕死の龍となったハクのように捨てられるか、ススか豚になって搾取されるだけなんだろうと思う。

 帰る場所は、家族のいるところで、愛のあるところ。思い出のあるところ。本当の名前を忘れては帰り道などわからなくなってしまうだろう。宮崎駿はそういう世界を、帰るべき場所としたのではないだろうかと思った。

 そして、その帰り道は社会が用意しない選択肢の先にある。最後のシーン。お父さんとお母さんを選んで当てなければいけない掟。それを、選択肢の中には無いと言って、掟の中で帰り道を見つけた千尋。目に見えない、誰かに用意された訳ではない選択肢を信じて進んで帰る場所を見つけて、呪いを解くことができた。選択肢がここには無いという選択が、存在するということを教えてくれる。

 だけれど、この物語の中で働くことは全く否定していない。千尋はちゃんと働いたのだろう。序盤に湯婆の部屋に入る際にノックもしなかった子が、終盤に銭婆の部屋に入るときに「失礼します」と言った。案内役となった一本足のランプに一礼した。そういった礼儀や、それを含めて「お礼」ということを千尋は仕事を通して学んだのだと思う。僕にはそれは微笑ましい光景で、あこがれるような光景だった。最後も「お世話になりました」と言えた。そういう気持ちを自分は持っているだろうか。

 対照的に、カオナシは善意で動いていたはずなのに、礼儀と言うものを知らなかった。「それ、とれ」と千尋に金をとることを強要した。彼の場合、その善意は押しつけで、独善だった。多分に普遍性の富んだ「礼儀」をしらなかったカオナシの傍若無人ぶりは、かまってちゃん的な、ある意味でヒロイン的な我儘の表れでしかなかった。「寂しい」と嘆く前に自省して、受け入れられるような自分になるべきでもあったんだと思う。勿論、それは大いに自らのアイデンティティを崩壊させることにつながるので、とても怖い事だと思う。けれども、それをしなければ甘えでしかない。我儘でしかない。独善でしかない。やるべきことは果たさなくてはならない。それは人としての人間としても、社会で生きる人間としてもだ。そういう点でも、明らかに歪と言われた加藤智大的なのだと思う。僕筆頭に、多分にその気質を持っている。

 働くことと同時に、大人になることも描いている。坊が特にそうだった。ずっと匿われていたかぎっ子だった坊はお外が汚いところだと教えられていた。実際そうなのかもしれないが、多分そうじゃない。

      「こんなとこにいた方が病気になるよ!」
 
 津田沼までの60kmごときを自転車で行くことを心配するようなちょっと過保護気味な家族を持つ身としては、この言葉はけっこう重い。親の気持ちを汲めば、多分、二度と外に出られない。それがいかに可能性を潰すのか、僕は最近感じてしまっている。安寧というぬるま湯は、抜けづらいのだ。けれど、魔法でネズミに変えられて「汚い鼠」と言われ怒った坊は、千尋と旅をする。自分で歩き、糸をつむぐことを学んだ。怖いと思った時は肩を借りながら進んでいったけれど、それでよかった。湯屋に帰って「一人で立てる」ようになった坊を見れて良かったと思う。元から立てるのに、立てないと思い込んでいた湯婆の過保護は、坊の可能性を奪っていたのだと思うと、あまり他人事とは思えない。
 
 千尋の成長も、礼儀の話と平行して描かれている。


 また、宮崎駿はお金の哲学も描いているとも思う。
その点では、東のエデンを思い出さざるを得ない。
 「俺は金は払うよりもらう方が楽しいって社会の方が健全な気がするんだけどなあ。」
東のエデンで滝沢朗はそういった。僕もそう思うし、今の現世にはそういう価値観がどうも少ないんじゃないかというのを千と千尋の神隠しからも感じた。
 それは量が多ければいいとかそういう問題じゃないんだと思う。
 何度も僕は言っているつもりだが、お金は物と行動の共通語であって、量の多寡はさほど問題じゃない。勿論、語彙=金の量が増えれば手に入れられる物は増えるだろう。でも、語学だけできても喋る内容が無い人間が使い物にならないのと同じように、物は増えても、そこに「個人」が詰まっていなければ宝の持ち腐れなんだ。お金は信頼で勝ち得るものであって、その信頼を物々交換で表せられないから、僕らはお金にすがっているだけであって、けっしてお金をもらうことが目的じゃない。お金を得ることは手段なのだと思っている。
 カオナシは土くれに代わるような穢れた砂金を産んでいった。それは確かに目には砂金と映っているかもしれないが、それを必要としない千尋には何物でもない。物質でしかなかった。また、信用の無い金をかき集めた湯婆は損をしたわけです。むしりとれば良いって物でもないのです。
     
 「まだ分かりませんか?大切なものがすり替わったのに……」

 終盤、ハクのこの言葉に真っ先に金を確認する湯婆。その後、思い当たったように坊をみて発狂する。忘れているよね。間違えているよね、手段と目的を。湯婆の姿はどこまでも資本主義に忠実な人間で、僕ら現代人だ。これを否定することはできないのだろうか。

 宮崎駿は自身の答えとして、自然を語った。川で溺れた千尋を(偶然に)救ったハクという川を、ボーイフレンド(?)として描いた。幼い千尋の命を奪うこともできたであろう川は、命を奪わず千尋を生かした。打算的な目的ではなくて、何の意味もないこととして偶然に生かしてしまった。けれど、それを体のどこかで覚えていて、千尋はその意志を感じ取ろうとした。それを奇跡と認識して、恋をした。
 偶然なんてそんなものじゃないだろうか?村上春樹も、東京奇譚集に収録の「偶然の旅人」で偶然はそこらへんにあって、それは奇跡であって、単に気がついていないだけなのではというようなことを語っていた。一度でもそれを奇跡として感じたならば、もう忘れない、見えなくなることはない。そういう経験を大切にして、意味を汲み取って生きることが、流されなければいけないこの世界での幸せのあり方の一つなのではないだろうか。宮崎駿自身がそのような体験をして、自然に生かされていることを感じたのだろう。

エンディングテーマ、「いつも何度でも」の詞の中で似たようなことが語られている。
以下、好きなところ抜粋。
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繰り返すあやまちの そのたび ひとは
ただ青い空の 青さを知る

生きている不思議 死んでいく不思議
花も風も街も みんなおなじ
 
閉じていく思い出の そのなかにいつも
忘れたくない ささやきを聞く
こなごなに砕かれた 鏡の上にも
新しい景色が 映される

海の彼方には もう探さない
輝くものは いつもここに
わたしのなかに 見つけられたから
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 まだ、書きたいことは、感動したことはあったのだけれど、ご飯を作ってたらその感情はどこかにまぎれてしまった。悔しい、悔しすぎる。一瞬の感動を文字にしないと、どこかに行ってしまう。悲しいな。全身で映像と文字と音が体に染み入っている感覚は霧散してしまった。悲しいなぁ。
 とりあえず、大人になってもう一度見ましょうよ。ネットが発達した今だから見ましょうよ。お金にまみれた今だから見ましょう。帰る場所を探さなくては、作らなくては。
 日曜日。今日は風が強い。雲の流れも速く、島の右端にある大型風力発電装置はすごい勢いで回っている。風取りに休みは無い。あっても良いのだが、万が一に備えて備蓄は必要になるのだ。いくら高性能といえど、集合電池には上限量が決まっている。人が生活していればそれは湯水のように減っていく。優先的な送電のシステムは整っていて、インフラにはなんとか問題にならないようになっているが、この島で最もハイテクな電池を持つ会社として、電池という資産の維持もしなければならない。電気会社もそれだけ潤沢というわけでもなく、僕ら風取りはそれ故に高給取りになりえないのである。

 かといって、風が非常に強い日に漁に出るのは危険だ。昔から仕事中に何人も命を落としてきた。以前話した近所のおばあちゃんも、風取りだった旦那を嵐で亡くしている。それだけ危険を伴う職業なのである。と言っても、本土の大規模発電に比べればまだ安全である。僕らは、自然と折り合いを付ければよくて、その折り合いがつかないときは人と折り合いをつければいいのだから。そしてこの島には、ほんのごく一部を除けば折り合いのつかない人なんていない。風土が、文化が、歴史が、この島の人たちには染み込んでいるから。

 というわけで、強風登板を前々回すました僕は今日、非番になった。僕の同期は行くらしい。こういう日は強風用の比較的大型で重い船を三人がかりで操作する。普段、僕らが使っている船は一人でも操作できるように、軽くて小さいのだが、それだと間違いなく転覆するし操舵どころではない。強風用は少し無機質で兵器のような無骨な外観なので、旅行者も島民もあまり印象が良くなく、また三人の人員が必要ということもあって、普段は利用されない。但し、ミリタリー系のツウはこの日をあえて望んでいるらしい。件の僕の同期も本土の軍上がりの人間でその傾向が強く、正義感の強さも相まって強風の日は進んで海に出る。奥さんに写真を撮ってもらい、手紙を出して本土の仲間に自慢しているのだとか。嬉しそうに何度も彼を撮る奥さんも含め、ちょっと特殊な人たちだと僕は思ってしまう。バカップルと巷で笑われているくらい熱い二人だ。

 
 さて、非番の僕はすることがない。家にいても特にすることもない。今日は読書という気分でもなく、部屋に寝そべってボーっとしていた。天井を見ては、何にも思わず。窓を見ては、いつもの風景。何もする気が起きない。しかし、ボーっとするのにも飽きてきて、とりあえず外に出ることにしてみた。あえて名づけるなら散歩しに行こうと思った。風取りにとって強風は引きこもりの理由にはならない。海の風に比べれば大したことない風だ。僕は靴を履いて、薄手の羽織に袖を通してでかけた。
 
 近所に住む子どもたちが二人、僕の脇をすり抜けて路地を走っていく。その背中には風車と電池。背中の道具を除けば、木造長屋のように連なっている路地を駆けていく子供たちの姿は、江戸と呼ばれた大昔の資料写真のようだ。これも、この町の魅力なのかもしれない。その後ろから遅れてゆっくりと走っていくもう一人の子は、金属製の棒を両手いっぱいに持っている。おそらく、じゃんけんで負けたのだろう。僕も昔はよくやった。学校鞄と風車の金具たちの罰ゲーム。いつになっても変わらない風景に頬を緩ませながら、僕は彼らの後についていった。無気力だった頭にも酸素が行き届く思いがして、一歩一歩は軽くなっていった。
 
 彼らが目指していたのは広場のような公園だった。芝生が茂り、隅には申し訳程度に置かれたシーソーと滑り台とブランコ。それ以外には何もない、広さが感じられる公園だ。空には波打つような白い雲が、空と宇宙の間に端切れを被せたように敷き詰められている。千切られた綿雲は、目でわかるくらいのスピードで動き、風の強さを物語る。公園からは海が見え、同僚たちが海に出ているのも見えた。彼らの無事を祈りつつ、僕はベンチに座り空を見上げた。メガネのせいなのか、景色がゆがむ。遮るものの何もない空は、間違いなく球面だった。

 先ほどの子供たちの他に、もう何人かの子供たちがすでにここに来ていた。彼らはそれぞれ、背中に背負っていた風車を下ろして、土台の金具を地面に挿していた。これがなかなか大変で、小学校に入って間もない頃は上級生に手伝ってもらったものだ。この鋭くないペグと呼ばれる杭を地面に挿して土台を作る。その上に風車を乗せて、風車の背面に一メートルくらいのハンドルをつける。これで、発電機が完成する。真上を向いた扇風機みたいな格好の小型の発電機だ。

 風の向きに合わせて、子供たちはゆっくり、時々素早く自分が動くことで風車を操っていく。それぞれが風に合わせて動いていくので、大体似たような動きをしている。遠巻きに見るとこれがけっこうおもしろくて、風の読みに慣れておらず上手くない子は、皆と違う方向に動いていく。目の前の子供たちはバラバラに位置についているけれど、意味を持った形にして慣れた子達がこれを行うと、風に揺れる海藻のように子供と風車が草原に揺らめく。小学校や中学校の運動会などでは大規模なものが校庭で行われ、島の風物詩ともなっている。そのこまごました動きと、大きな発電量が見込めないことから、古くから「風拾い(ふびろい)」と呼ばれるこの方式の風車は今も昔も、主に子どもたちの風車だった。まだ風に慣れていない頃、肌で感じる風の向きと上手な人たちが作る風向が一致した時は、一緒に踊っているようで嬉しかった。

 風拾いはそもそもかなり前から行われていた、風取りの訓練として作られた訓練道具で、風を読むため・機敏に反応するための訓練だった。有線式で電池の容量もわずかだったころから存在していて、僕のひいおじいちゃんの時代ほど昔である。けれども、導入当時は魔法の電池と呼ばれた今の電池が開発され、現在の生活が確立し始めたころ、風取りの養成が衰退していくと大量の風拾いが余った。どうにか活用できないかと、考えたある島民が発電機構をそのままにして、パーツを分割。充電先に電池を取り付けた型を作ってみた。そうすると、電気代の都合で贅沢品だと思われていた家庭用ゲーム機の電源を得るのに、子供たちが風拾いを使い出したのだとか。そのうち日常用の電気に蓄電する子どもも増えて、それを喜んだ大人たちがお金をあげ始めると、子供たちの小遣い稼ぎにさえなっていった。

 僕もしょっちゅう風拾いを持って出かけた。くれるお小遣いなんか微々たるものだったけど、その為だけというのでもない。父さんは本土暮らしていたのであまり会えなかったが、母さんは水産加工や工芸品やらを作りながら僕を育ててくれていた。僕には母さんとの記憶の方が鮮明で、いつもひっついて歩いていた。あまりにも街中で見かけられるらしく、時々、よく喧嘩する同級生にマザコンだとか言われていた。そういわれるのが嫌で、ある日、仕事から帰ってきたところ「母さんのことなんか嫌いだ」って言ったら、母さんはその場でボロボロ泣き出した。懇願するのでもなく、怒るのでもなく、呆然と立ち尽くして僕を見ていた。口は半開きになって、肩が落ちているが見てわかるほど、背筋と共に心まで丸まっているのが見て取れた。それくらい、僕にはあのうつろな目が怖かった。罪悪感より、捨てられるんじゃないかという恐怖を感じる。しばらくして、母さんは「そう」とだけ言って、いつも通りご飯を作り始めた。その日の晩御飯は、本当に美味しくなかった。噛めば噛むほど唾液が分泌されて、纏わりつくような苦みが喉から口の中まで浸食していった。次の朝、その意味も分からず土下座をして謝った。意味も解らず、愛してます、とか口走ってしまった。それを聞いて母さんは堰を切ったように大笑いし始めた。無理に笑っているような気さえするほど笑っていた。しまいには涙を流しながら、笑っていたんだ。だから、僕も涙が出るまで笑い続けた。
 
 子ども達を見ていたら、そんな子供の頃のことを思い出してしまった。風拾いの景色は、いつも子供の頃を思い出させる。風と踊る子供たちはその強風とそれぞれの位置の距離に負けじと、大声で何かを話しているようだった。片手をハンドルから離して、もう片方の手で作る拡声器。受け取る側は片手で集音器。大して意味もないのに、昔から誰に教わるともなく、見様見真似でやってしまっている。この街は全然変わらず、そういったことだけはもっと前から同じように繰り返されているんだろう。今日も風が強いだけの、さしも変わらぬ日常が続いていく。
 
朝起きて携帯電話を見て、今日がクリスマスだったことを思い出した。ベッドのある位置とは正反対のCDラックにわき目も振らず向かい、並んだケースを指でなぞる。赤いジャケットのそれを見つけて、ミニコンポのスイッチを押す。トレーがゆっくりと手を差し伸べるように伸びてきて、傷がつかないようにケースから丁寧に取り出した円盤を、そっと手渡す。「はいはい」、と少し面倒くさそうに、円盤を飲み込んでいく。読み込むまでの数秒は無駄な時間なのかもしれない。テレビのチャンネルを回し続けることと同じくらい無駄なのかもしれない。それでも、私は動けない。数秒間、無心で待ち構える。
 
0:00が表示されて、空気が変わる。いつもと変わらない景色なのに、今日は違う。今日、この日の為に作られた音楽は、幸せに向かって部屋に広がる。こんな明確な目的なある音楽が他にあるだろうか。空の向こうで、同じように同じ曲を聴いている人がいるかもしれない。それだけでも嬉しいのに、街中がその為の音楽で埋まっている。子供たちの笑い声と共に響き、恋人たちの愛の間に入り込んでいく。

 街を歩けば、煌びやかな街の灯りと相まって、煌びやかな音が鳴り響く。ポケットに手を突っこんで、音楽再生機のスイッチをいれる。反対側のポケットにあるイヤホンを取り出したが、絡まっている、ほどくのも嫌になるような見た目だ。街中でいきなり立ち止まるのも問題なので、そのまま元のポケットにもどした。

街のざわつき、人の往来と共に、クリスマス商戦という言葉が視界の片隅にちらつき始め、商売に精を出す人々がいる。沸々と、漂う資本主義の臭い。それで私はいつも、クリスマスが宗教的行事から始まったことを思い出して、世界にはクリスマスなんかない人がいることを思い出して、そして、それどころじゃない人を思い出す。そもそも、クリスマスというものがあるのを知っているのか。プレゼントを待ち望み、誰かと愛を分かち合う日に、そのどちらにも知らずに、命を落としていく人々を思う。世界がこんなになって、どうしようもないのは分かっているけれど、それでも、不平等さを、不条理さを嘆かずにはいられない。

 そうなったことには何の意味もない。病気になって死ぬのと同じくらい意味のないことなのだ。何の悪意もなく、何の善意もない。無意識と無差別によって産み落とされた感情が、たまたま呵責という名の言葉を知ってしまっただけなのだ。そして、たまたま降って湧いた私自身というものが、そうあっただけなのだ。社会という秩序を持った理論が成立したこの世界で、私は数字のひとつでしかない。係数や乗数を少しばかり持った、数式でしかないのかもしれない。そんな自分自身を分解して、分解して、ナノやピコの世界を通り越して、原子のレベルまで分解して、さらに奥に進むと、自分自身の素粒子がある。それは曖昧で、定まっておらずに、自由であって。誰も解き明かすことができていない。世界中の知能が集まっても、未だに完全な解明はできていない。そんなものが、私自身を形作っていると思うと、まだまだ私も捨てたものじゃないなと思える。

 巡り巡って、今の私にフラッシュバックするように、現実が目に入る。どうしてここに立っているのだろう、この目はどうしてこの世界を見ているのだろう。途方もない奇跡が折り重なって私を包み込んでいる。地球の中心から幾層にも重なった地層が、私を支えている。世界の罪悪と、害悪と、災厄の上に私の人生はそびえ立っている。後ろを振り返れば車が大きな質量をもって過ぎ去っていく。ここで、縁石一つ乗り越えて車道に跳べば、私の人生は罪悪から災厄にシフトする。でも、しない。それは説明できないけれど、何の証明もできないけれど、どうしてもできない。もし、簡単にいうならば、それは勿体ないからかもしれない。どうでもいい奇跡がもったいないのだ。人間は本当に欲深い。

 周りを見渡すと、家が建っている。窓に明かりが灯っている。その窓の先に人がいる。もしかしたら家族なのかもしれない。恋人同士なのかもしれない。独りの可能性もある。それでも人はいて、もしかしたら笑っている。泣いているかもしれないし、何かに耐えているのかもしれない。その時間軸の手前にある、それぞれの人生を考える。全然思い浮かばない。すごいことだ。だから、せめて、今は笑顔でいたらと思う。
 
通り過ぎる恋人たち。茶色のコートを纏った女の子は、男の子腕にしがみついて、寒さを人知と人血で和らげている。温かいものは近くに欲しい、私たちは猫みたいなものなのかもしれない。それでも、何でも良いというわけでなくて、例えば私が、その男の子の側によっていきなり抱きついてみる。彼はいきなりの事に驚いて、払いのけるだろう。私が絶世の美人だとしても、辞世の凡人だとしても、それは変わらない。隣の彼女はもしかしたら、怒りだすかもしれなくて、そのまま嫌な思い出になって、恋というものさえ終わるのかもしれない。だから、何でもいいというわけではない。どうしようもなく、二人が二人でいることは素敵なことだった。
 
気がつけば歩き続けて、繁華街から抜け出ており、人もまばらになっていた。私は、ポケットに手を突っ込んだ。さっきの絡まったままのイヤホンを見つめる。なんでこんなに絡まっているのだろう。とりあえず、ほどき始める。解きほぐす。簡単に一本のコードになった。あんなに絡まっていたのに、あっけなかった。往々にしてそういうものだ。
 
耳にイヤホンを挿して、ポケットの中で再生のスイッチを押す。“Charity is a coat we wear twice a year.”。 George Michaelが”Praying for Time”でそう詠った、365日のうちのたった二日だけの慈善の羽衣を纏う日なのかもしれない。それでも願わずにはいられない。今日は、そう、クリスマス。目の前にある幸せさえも不幸せになったら、この世界はもっと歪で、汚いもので、永遠に目を閉じていたくなる。多分にそういう世界だけど、何の免罪符にもならない幸せを太陽から浴びるように感じてしまっている。私はなんて醜い女だろうか。それでもこの感情に不思議と温かさみたいなものを感じるのだから困ったものだ。だから、少しでも幸せが大地に注ぐように、私は日陰で生きていよう。

サンタクロースに何か頼むのはもうやめておこう。もっと、もっと届くべきところに届いてくれれば。届いていれば。私の人生から、クリスマスはいつの間にか遠くになっていたけれど、どんどん近くになっている気もする。”Many times, many ways, merry Christmas to you” 声にもならない声で唄ってみる。