先日さんくるさんが投稿しちょっとした話題になっていた論文がありました。
阪大のグループが発表した論文で、正常細胞の死んだ場所へ前がん細胞が素早く入り込むという内容のものでした。
詳しくは次のリンクをご覧いただければと思います。

プレスリリース:
世界初!前がん細胞の「領地」拡大の仕組みを解明!
論文:
Competition for Space Is Controlled by Apoptosis-Induced Change of Local Epithelial Topology
この論文、私もちっともわからなかったのと、やはり抗がん剤で細胞が死んだところにがんが広がってかえってがん細胞をアシストしてしまうのではないかという疑問を私も持ったため、詳しい人に聞いてみました。
入院中に時間ができたため、ようやくまとめることができました。
以下、Q&A形式で書いてみました。

 

1. 何が書かれているのか?

 一つの組織内に異なる種類の細胞がある際に、片方が負けてもう片方が勝つという細胞競合という現象が知られています。
片方が負けてアポトーシスをした際に組織内に隙間が生じます。
その隙間を、これまでは勝った細胞が細胞分裂することで埋めていると言われていましたが、本当にそうなのか誰も検証していませんでした。
そこで上皮組織内に生じた前がん細胞のモデルを用い、コンピュータシミュレーションとショウジョウバエでの実験を組み合わせて検討したところ、まったく異なる現象が起きていることがわかりました。
 増殖速度が違う細胞が隣り合うとスピードで負けている細胞の形が引き延ばされ異方性(細長さ)が高くなりアポトーシスが起きます。
このようなアポトーシスが起きた細胞の周りでは細胞接着(隣の細胞と表面分子を介してガチガチにくっついているもの)が変化し、勝った方の細胞の形が変わり、異方性を下げてもとの形に戻ろうとします。
 その際、負けた細胞がアポトーシスすることで生じた隙間を細胞が膨れることによって埋めるように細胞が膨れるようです。
 さらにアポトーシスした細胞との境界に対してどのような位置関係にいると前がん細胞にとって有利になるかを調べたところ、垂直なところにいると有利だということがわかりました。
また、このようなメカニズムを繰り返すことにより組織内に急速に前がん細胞が広がることも示しました。
 このようにがんが始まる超初期において何が起きているかを細胞競合の観点から、シミュレーションとショウジョウバエの実験系を用いて明らかにした論文です。

2. 抗がん剤で細胞が死んだらそこにがん細胞が広がってしまうのか?
→NO
 この論文で扱われている細胞死は、がん細胞が生じてまもない頃の前がん細胞の時という超初期段階に、増殖速度の違いによって隣り合った正常細胞が引っ張り伸ばされて細長くなったことによりアポトーシスを起こしてしまうという現象です。
このようなアポトーシスが起きたところでは、前がん細胞は細胞接着を変化させ、隣の細胞と接している面を組み替えながら膨らんでその領地を奪います。
 抗がん剤により正常細胞が死んで起きる細胞死(ネクローシスあるいはアポトーシス)とは全くメカニズムが異なるため、がん細胞が膨らんで奪うという現象は起きません。
心配せずに抗がん剤治療を受けてよいそうです。

3. この論文はがんの治療に役立つのか?
→NO/YES
 この論文は現象を純粋に解明した基礎科学の論文です。
応用科学とは異なり直接何かの役に立つことを目指したものではありません。
新しいことを見つけたというサイエンスとしての価値のみを追求した研究です。
 しかしながらこのような基礎研究によって明らかにされたことがタネとなって次の応用研究が生まれ、臨床研究にいたり、新薬として治療に役立つことが多々あります。
 たとえばがん治療に革命をもたらしたオプジーボやキイトルーダが使っているPD-1を発見した京大の本庶佑先生は、当初がんの研究とは全く関係のない基礎研究の研究者でした。
1991年にPD-1を発見した時にはただ「新しいものを見つけた」というサイエンスとしての価値しかなく、世界中の多くのがん患者を救う薬に繋がるなど誰も思わなかったのです。
それが応用研究のタネとなり、20年以上かけてようやく「役に立つ」研究として実を結びました。
 基礎研究の価値とはすぐに役に立つことではないのです。
 残念なことにこのような基礎研究は最近では迫害され、すぐに役に立つような研究にばかり予算が割り当てられるという状況が長く続いています。
今月発表された科学技術白書では「わが国の国際的な地位のすう勢は低下していると言わざるを得ない」と書かれておりますが無関係ではないと思います。
 せっかくの税金を使ってしてもらう研究なのですから、長期的な視点に立って本当に人類と国民のためになるように予算を割り振ってもらいたいものです。

4. もしかしてあやしい論文なのか?
→NO
 この論文が掲載されたCurrent biology誌はきちんとした論文誌です。
論文誌の格を表すインパクトファクターでは9.251。
もちろんNature,Cell,Scienceといった三大誌に比べれば三分の一以下のインパクトファクターですが、きちんとした研究者が普通に発表するそこそこよい論文誌だそうです。

5. ヒトではなくショウジョウバエの細胞を使うのは何故か?
 もともと細胞競合はショウジョウバエから見つかった現象で、そちらでの実験モデルが成立しているようです。
ヒトの細胞でも同じ細胞競合の現象が見られますが、より扱いやすく洗練されたショウジョウバエの系を使っているのではとのことです。

6. この論文には何か意味があるのか?
→YES
 この論文の意味は二点あります。
 一つ目はまったく新しいことを発見したという点です。
細胞競合によって負けてアポトーシスした細胞のスペースは勝った細胞が分裂することにより埋めていくのではないかという定説を覆し、細胞接着の状態を変化させながら膨らむことで埋めており、この繰り返しにより組織中に前がん細胞が広がっていくという新発見をしたという純粋なサイエンスとしての価値です。
 二つ目は手法としての面白さです。
in silico(コンピュータシミュレーションによる実験)とin vivo(生体による実験)を行き来しながら実験を進めるという手法の有用性が一つ示されました。
このような方法が他の実験でも採用されることにより、より多彩な研究が可能になるのではないかという道を開きました。


以上、つたないながらもまとめてみました。
詳しい人いわくこの論文を読んで個人的に思ったのは、肉腫が希少で癌の方が圧倒的に多いということの秘密ももしかしたらこのメカニズムにあるのではないかなということだそうです。
癌は上皮組織に生じる悪性新生物の総称です。
ぎちぎちに敷き詰められて隣の細胞と接着している上皮細胞で細胞競合による爆発的ながん細胞の広がりが起きることこそが、悪性腫瘍≒上皮の病気であることの理由かもしれないそうです。
この研究が臨床現場にがんを予防する何らかの新薬として降りてくるのも意外と遠くない未来かもしれないと言っていました。
期待して待とうと思います。