2011年3月11日金曜日、あの日にお亡くなりになった皆様、あるいはあの日に起きたことに起因したことでお亡くなりになった皆様、改めてご冥福をお祈りいたします

 

あの時あったこと、感じたこと、それらを思い出してブログにしようと思ったのですが…
 

2年前に書いたこのブログで無駄に長く思い出して振りかえっているので今日のところは簡単に


ちなみにこちらは地震発生前から発生後約4時間半かけて歩いて帰宅した時の記憶について書いたブログです


あの日は本当に心の底から「人間って怖いな」と地震よりも人間の怖さを思い知りましたね

 

 

このブログからさらに2年が経過し、記憶が薄れたから書かない訳じゃありませんよ

 

実は上のブログを読んでいただければわかりますが、あの日は東日本大震災が起きなかったとしても俺の人生の中で確実に記憶に残って然るべき個人的メモリアルデーだったからです

 

それにあの日生まれて初めて両親が亡くなる時のことをリアルに考えた日でした


ということで、今回は家族のことについて書きます

 

市川市在住なんだから大したこと無かっただろうという人もいるでしょう

 

しかし実は市川市の中でも湾岸側は結構な被害があり、俺の肩より上まであった金網が俺の膝より下まで沈んでいたり、近所の工場の壁が全て崩れて無くなったりと結構被害はあったんです

 

今でも市川塩浜駅に車で行くとわかりますが、道路沿いにある電柱が全て傾いているのが見えますよ


自宅も地震の被害で水の供給や電気配線が損傷、そのあおりで全自動の風呂と洗濯機が壊れ、液晶テレビも倒れて破損→買い直しに

 

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しかしそのくらいで両親の死を考えるのは大げさなのかもしれません


でも本当に電話は通じないし、舞浜のディズニーランド駐車場は火柱ならぬ砂柱が噴き上げている光景がテレビに移ったのを見たらそれを思い浮かべずにはいられませんでした


実はあの日、親父は新浦安の明海大学に行っていて、地震発生時は帰りに当時有名になったあのイトーヨーカドーで買い物をするのを知っていました


だからディズニーランドの駐車場の惨状や市原市内のコンビナート火災の惨状を見た時、家族が心配で仕方なくなった訳です


親父はまさに地震発生時には、ちょうどこの真横で車に乗ったまま信号待ちをしていたそうです



親父いわく目の前で道路がひび割れ、目の前で砂(汚泥)が吹き上がって驚いたと

とにかく直進はできないと被害の少ない道を選びながら走るうちにどんどん行徳とは反対方向に進むハメになり、気づいたら国道357号線を駐車場に大きな被害を出したディズニーランド方向に進んでいたそうです

ちょうどこの近くを通っていたはずです



親父は阪神大震災直後に淡路島に入り兵庫県内の復興事業に携わりました

もちろん神戸市内の惨状なども見ていましたから自分では見慣れていると思っていたそうですが、いざ自分の目の前で電柱が道路に向けて傾く、前の道が割れそこから砂柱が噴き上がるところを見た時は生命の危険を少なからず感じたそうです

そして大きく迂回しながら通常10分~15分の道を2時間半以上かけて無事帰宅

今にして思えば自分でも大げさと思います

でも何事もなく「お前大げさだな~」程度の話で済んでよかったなと思います