道後温泉~四国カルスト

〇五月三日
午前七時半 シラサ峠~道後温泉~四国カルスト
 
殆ど缶詰状態の日々であったシラサ峠を下りる日がやってきた。
昨日丸一日充電に要したので体力はすっかり回復した。あとは風呂に入りたいだけである。
天気は雲が多いが時々カラリと晴れ上がるという山の上ならではの忙しさである。昨日の感動を与えてくれた『石鎚山』は正面からの陽光をうけ、険しい岩肌を見せつけていた。谷間に溜まっていた雲海がこちらに登ってきて視界を遮る。今の季節のこの場所は天候が変化するところなのだろう、相方に荷物を括り付ける間も目まぐるしく頭上の雲は渦巻いていた。
「よさこい峠」という、風情溢れる峠を越えて愛媛県に入る。
間もなく登山客とツーリングライダーで濫れかえる土小屋に到着。石鎚スカイラインの終点ともなっているここは、場違いとも思える程の広大な駐卓場があり、山中では殆ど見ることのなかった大型バイクも数多くいた。その横をドロドロの状態でカワサキのでかい古いバイクとライダーが明らかにダートしかない所から現れたのだから、好奇の視線でみられるのはどうしようもないことか。
駐車場の奥にある「石鎚山神社」で参拝。これからの道中の無事をお祈りし、久し振りにワイドオープンできる道『石鎚スカイライン』を一気に駆け降りる。
途中、画河渓に寄り相方から離れて渓谷沿いを散策する。大雨が降ってからそれほど時間が経っていないので、水量は多く感じられたが流れる水はあの祖谷渓と同じコバルトブルーである。あの色は太陽光線の仕業とはわかっているが、こんな曇り空でも同じ色を発色するのは何故なのだろうか。遊歩道脇の崖から吹き出している湧き水を一口し、水飛沫の上がる滝や渓谷に多いマイナスイオンを充分に吸収し、ライディング神経が覚醒したところで面河渓を後にする。
で、すっかり忘れていたが相方のブレーキは、スカイラインの料金所を抜ける頃にはタッチも元通りになりリザーバタンクのフルードもまるで誰かが継ぎ足したかのようにMAXのラインまで増えていた。よくよく見るとカワの字がふたつある『面河川』沿いの集落を幾つか通り過ぎ、道路は広い二車線となった。ツーリングマップでは県道の表示であった国道『黒森峠」越えの道を松山方面へと曲がる。通り過ぎた時間がよかったのか、時間制限通行止めとなっていた工事現場をなんの足止めも食らわず通過する。
峠を越えると気温もグッと上昇し春を思わせる陽気となってきた。ここで本当に久し振りにバイクの集団と擦れ違い、軽く手をあげた。
やがて、フルバンクとフルターンのヘァピンの連続が途切れ、R11の交差点の赤信号で止まる(信号待ちというのもえらく久し振りである)。
R11はさすが北四国の大動脈である、2~3日間ではあったが裏寂しい山中を彷徨ってきた自分達にとってはその交通量の多さは別世界の道路にみえた。

ハイウェイのような道で松山市まではあっという間についてしまった。
路面電車とともに市内をウロチョロし、昼飯と明日の朝までの食料を買い出しする。
そして、待望の温泉である。ベタではあるが四国に上陸したら是非入りたいと懇願していた『道後温泉』を目指す。

それは、地図を出すまでもなく待ちの到るところに「坊ちゃんゆかりの湯道後温泉はこちら」などと、巨大な看板があるので探すには苦労はなかった、温泉本館行きの路面電車に先導されるようにして到着、道後温泉駅の前には恐らく四国ツーリングをしているバイクの半数は集結しているであろう程止まっており、次から次へと本館の方から真っ赤な顔をしたライグー達が歩いてくる。やっぱり皆さん温泉好きなんですなぁ。さて、相方とともにあの人込みに入るのは気が引けるので、自分も同じように駅前の路肩にならべるようにして止め、歩く。一車線程の道を大型の観光バスがズンズンと入ってきて、歩いている我々は時々営業中の店の中へ避難しなければならない事も何度かあった。
五分少々で木造の重厚な建物が視界に入ってきた。そこは信じられない位の人でごった返しており、あまりにも有名過ぎる本館の前には入浴券を買うための行列ができ、前の通りはこれまた有名な人力車の乗り降りの場所でもあるので、そのお客や車の流れを人力車の会社?の若いニイチャンたちがでかい声で裁いている。彼らのパッと見は渋谷や六本木でフラフラしているチーマーやホストみたいで、あまりにも周りの景観と違和感があったが、とても一生懸命に仕事をしているという印象があり、「わしらが、道後松山の看板をしょってんねや」という気合がこちらにも伝わってきてなんだか、とても羨ましく思えた.
自分の住んでいる町に誇りを持って、その町の伝統を守る仕事をするなんて、首都圏に住むおよそ現代の自分たち位の年代の人間には縁遠いからだ。
列に並ぷこと十分少々で中に入る事が出来た。温泉好きな自分が推測するに、これだけの人が出入りしているにも係わらず回転が早いという事は中のお湯、相当熟いようである。
建物の中も人人人である、蜂の巣をつついたようとはよく言ったもので人の波を援き分けるようにして『神の湯』の脱衣所の戸を開ける。これまた広いのなんのって、子供がはしゃぐ訳である。さて、坊ちゃんが泳いだという浴室はというとこれまた広く、天井も偉く高い。浴室全体が御影石かなにかで出来ており天窓は上半分が丸く下半分は普通の硝子窓という西洋風な造りになっていて、温泉なのにローマ風呂風というのがとても新鮮である。これが、とってつけたようなホテルの風呂ではなく一世紀もまえの物なのだから余計に感心してしまう。
さて、上から下まで垢をすっかり落としきり湯船に入る、確かに熱い湯温だがここ何日かの体の垢と疲労が一気にほぐれてしまい、湯船に浸かりながら思わずにやけてしまった。
芯まで温まったところで、溜まっていた洗濯物を浴室の片隅で一気に洗う。自分は洗濯する場所は必ずといっていいほど風呂場で済ますが、同じ事をやっている人に会った試しがない。
皆さん何処で洗濯しているのであろうか。
周りからの変な視線にも動ぜず、山のような洗濯物を抱えて浴室を出る。外人さんだったら飛び上がってしまうような湯船にじっくり浸かり、その上熱気が立ち込める浴室で洗濯をしたものだから、多少湯当たりしたようだ。出口に近くにある休憩所にて瓶入りのコーヒー牛乳を三本空けてしまった。
ふと、格子戸から外を見るとテレビカメラやマイクを持った人がウロウロしており、その傍らには坊ちゃんとマドンナの恰好をしたレポーター風の人が二人ベンチに腰掛けて座っている。外に出てみるとその連中はNHKテレビのスタッフで、どうやら五月連休の道後温泉の取材に来たようなのである。ただでさえ入通りが激しい場所なのに、テレビカメラが来てしまったのでバスは立ち往生するわ、メット片手のライダー達はその様子をカメラに収めようとしているわで其処はてんやわんやの大騒ぎとなってしまった。自分もカメラに映ろうと田舎者臭い事を考えたが、この先まだまだあるし、そろそろ土産物も買わなけれぱならないので、この場は失礼する事にした。本館と駅を繋ぐアーケードにて、額に汗しながら幾つかのお土産を買い、相方の元に戻った。
すると、隣に見覚えのある単車が止まっていた。スズキDR-650RS。
そう、大阪南港から徳島にフェリーで渡った時同じ船に乗り合わせた長野から来たライダーである。長野県のナンバーだし、DR-RSなんて乗っている人はそうそう居ないから問違いないであろう。彼はこれまた別の意味で目立つ千葉ナンバーの『Z1』が止まっていたから、隣に止めたのであろう。
しかし、残念ながらあまり時問に余裕がない。メモ書きも残さずそのまま出発、なんかすごーく自分が冷たい人間に感じられた。DR氏、申し訳ないがお先に失礼。信州もよく走りに行くのでまた会える機会があったらよろしく!

松山市の喧騒から抜け出し、R33を南下する。流れのよい快適な国道である、しかし三坂峠に差し掛かるとやたら目につくのが速度取り締まりの看板。なるほど、四国ではめずらしい高速コーナーが続くワインディングで、道幅も広くある程度腕に覚えのあるライダーならかっとんで行きたくなるだろう。
美川村に入り、再び面河川と並走する、それに合わせるように周辺の山々も険しさを増してきた。やはり、四国の九八%が山地と言われる所以であろう、柳谷村の二股にてR33に別れを告げ、三桁国道のR440に入る。更に南下する。天気はここに来て非常によく、快晴とも呼べる程までに回復してくれた。剣山あたりからこんな天気であれぱ申し分なかったのだが・・・・。
R439程ではないが、細かいヘアピンが続く山道を登り切り地芳峠を通過する、もう周辺の山の様子が変わってきているのが分かる。高い木立はなく、ただ、だだっ広い草原と所々に点在する白い巨石、いわゆるカルスト台地の中に入ってきたのである。
周りがやけに開けてしまっているので目標物になるものがない、峠に立てられた看板をよく地図と照合して、草原に放牧された牛どもの間を縫って走る。
天気とコンディションの良い道路に恵まれてタ方の四時に無事に「姫鶴平キャンプ場」に到着した。キャンプ場は道路から見下ろせる所にあった、そしてその周囲に広がる草原。
はっきり言って今迄見てきた四国のなかで今の所、一番最高の景色。もう感激ものである。丘の下から吹き上げてくる風はとても寒く、ここら辺はまだ冬の名残が残っているようだ。実際に行ったことはないが、あの北海道の開陽台のキャンプ場を恩わせる眺め、といったらわかって貰えるであろうか。今日の野宿地はここ、久し振りに快適な夜がすごせそうである。
だが、カルストの夜はそんなに甘いものではなかった。日中は涼しく感じられた風も日没とともに肌を切るような木枯らしへと変貌し、サイトの中程にある炊事場で米を研ぐ時はストームクルーザーを着ないと震えが止まらなくなってしまう程だった、体感温度はさしづめ十度前後だろうか、食事が終わった七時頃にはテントの外をほっつき歩いている人は誰もいなくなってしまった。
余りの低温で果たして乾くかどうか分からないが、とても空気が乾燥しているようなので、道後温泉で洗ってきた洗濯物をバイクに掛けて、テントの中に避難した。
隣の家族連れなぞは、食事はいっぱしに表でバーベキューを食らっていたが、いざ終わったとなると寒いからといってエンジンを掛けっぱなしにして車の中でモゾモゾとしてやがる。そんなんならキャンプ場にくんな!!!しかも、夜中でも車の中が冷えてくるのだろうか、時々エンジン(ディーゼル)を掛けっぱなしにする、安眠妨害・燃料の無駄使いもいいところである。
しかし、トレーナとジャージと着替えを重ね着し、アルコールこそ持ってこなかったが満腹なのですぐに眠りにつく事が出来た。

四万十川土手野宿

午前七時半
四国カルスト~四万十川沿いの空き地

朝の四国カルストは曇天であった。昨日、他のテントに邪魔されず、台地の向こうから登ってくる朝日を拝める場所を確保したのに残念である。洗濯物は太陽も当たっていないのに一晩中吹き荒れていた風の御陰でカラカラに乾いてくれていた。
強風にテントが飛ぱされないようにしながら、荷物を纏めキャンプ場を後にする。
今日は距離的には今迄のなかでもっとも短く、かなりの寄り道が出来る。ましてや、そのコースが途中から四万十川と共に下ってゆくのだから退屈はしないであろう。
大型観光バスが切り返しをして曲がってゆくようなヘアピン、ステップを削りながら一気に標高を下げてゆく。久し振りにR439と合流し、更に南下。ここらへんもR439は相変わらず道幅が狭い、距離がこんなに長くて有名な国道であるにも係わらず開発が進んでいない。
しかし、自然をこよなく愛し思いやりなどと縞麗事ではなく、自然の脅威と感動を全身で感じとろうとする我々ライダーにとっては、このままの姿でずっとあって欲しいと考えている。
東津野村にて対象的なキャラクターを持つR197と交差、ニキロほど自動車専用道路のような道を走った後、すぐにR439に分岐する。後ろから飛ぱしてくる地元の車をさっさと行かせ、自分達の前で車の擦れ違いによる渋滞が始まった時は相方を路肩に止めて川に降り一服する。
いま現在、自分達が走っている横をとうとうと流れる川はまだ四万十川ではないが、ここから付近の川はみな大きなアールを描いて蛇行している、それに合わせるようにしてヨサクも同じアールをえがいて曲がってゆく。橋を掛けたりして無闇やたらにショートカットしない所が、また走っていて楽しい要素のひとつである。そして、四国カルスト以西のヨサクはあの剣山周辺と違って人を寄せつけない難所、という雰囲気はなくのんびりとバイクを傾ける事を楽しませてくれる。まったく色々な表情を持つ国道である。
途中の集落で鯉登りを見た。四国などの山勝ちな土地でよく見かける、(あの谷間に長大な綱を渡して泳がせるタイプ?)だ、もう、明日は子供の日なのか・・・・紀伊半島を走った時も、去年の東四国でも見たが、今回のが今までのなかで最大級であった、遠くからでも目立つせいか何台かの車が停まり、記念撮影をしていた。
大正町に入り、R381へ曲がる。439とは此処でお別れである。381は広い二車線と一車線の交互する開発途上の国道だが、439に比べれば高速道路並みに走る事が出来る。ただ、四万十川との距離がその分離れてしまうのが残念だが、ほどなくして十和村に入る。ここで、腹具合が丁度よくなったので昼にする。
また、そこのたまたま入った店が良かった。静かで落ち着いていて、とてもゆっくりする事が出来た。窓の外はすぐ四万十の流れがあり、ここ数日の荒天にも係わらずその水は澄んでいた。うーむ、時間の流れがとても緩やかだ。ゆっくりと煙草をふかし、一口ずつじっくりとコーヒーを飲む。自分のぺースで何も気づかうことなくのんびりする。

食料の買いだしは、昨日の松山市で二日分仕入れておいたのでそのまま野営地探しとなる。
天気予報では今夜辺り自分達の上空を前線が通過するらしく、一雨来るらしい。もう雨の中のテント張りはこりごりなので早めに見つけたい。だが、この道路を走っている限りはキャンプ場には困りそうにない、何故なら川沿いに無数の無料(じゃないのもある)キャンプ場があるからだ。しかし、五月連休の真っ只なかとあって昼過ぎの時間でもかなりの盛況振りである。単車の機動力をいかして、いくつかのキャンプ場を冷やかしに行く。だが、駐車場がなかったりテントサイトまで人間の頭大の川原石の中を歩いていかなけれぱならなかったり、増水したら簡単に逃げられそうになかったり、眺めがちっとも良くなかったりで、おもった程の収穫がない。
ここは一つ悪知恵を働かせ、一番最後に残った西土佐村ヘルスセンターの近くにあるいかにも料金が高そうなキャンプ場の入口に相方を停め、歩いてサイトの中にズンズンと入ってゆく。
広大な敷地の中にテニスコートやバンガローなどがあり、すでにサイトの中は立錐の余地も無いほどの大混雑ぷりであった。キャンプを始めた頃の自分であれぱ、その心細さに負けて空いている隙間にテントをネジこんで、結局周りの子供の騒ぎ声で寝不足になってしまっていただろう。
サイトを抜け、川原にでる、アウトドアブームの一角を担っているラフティングの客が楽にボートやカヌーを川面まで運べるようにであろうか、赤いアスファルトで舗装されたスロープがあった。そのスロープの少し脇にテントを張るには余りにもお誂え向きの草地を発見してしまった。直ぐに相方の元に戻り、エンジンをかけずに荷物満載のままそそくさとサイトを通り抜ける。
「見つかったらそん時やそん時じゃ」と開き直り、荷物を下ろし草地の邪魔な岩を掘り起こし地面を均す。近くの川原で遊んでいた子供が「兄ちゃん、なにやっとんの?」と興味深そうに尋ねる。「ここを、今夜のワシの住まいに決めた」と言うと.「上にキャンプする所あんのに」と余りにも正しい答えが帰ってきた。
雨が思ったよりも早く降り始めてきた。「金がない」と二言。「ふ~ん」、どうやら今の小学生は金持ちなのだろうか、彼は理解できないのか、釈然としないのかそのリアクションを残してさって行った。
さて、飯の下ごしらえを済ませ風呂である。今回は近くにヘルスセンターという間違いなく外来の入浴者を迎えてくれる施設があるので、徒歩でそこまで行く、小雨のそぼ降る中、五分少々で丘の上のヘルスセンターに着く、中に入るとセンターとは名ぱかりでちょっとした公民館程の大きさしかない。入浴料を払い浴場の扉を開けると、三畳半ほどしかない腕衣所に親子運れや野郎どもがお互いに体が触るのを気にしながら、着替えをしている光景が目に入った。「・・・・・」
暫く前の廊下で待ち、何人か大人が出てきたところを見計らって中に入り風呂に浸かった。風呂場も多分に漏れず大混雑していた、不快趣まりなかったが湯船の湯温が丁度よかったのが唯一の救いであった。
四万十の夜。自分が構えた住まいの場所は、まったく照明がないので川を挟んだ向こう側の町の明かりがよく見える。
日中、ガキどもが走り回っていたこのスロープも真っ暗なので誰も寄りつかず静かこの上なかった。今日は一日走って、飯食って風呂入って眠るだけの日であった。こうゆう日が一番レポートしにくい。

足摺岬~足摺岬CA

〇五月五日
午前五時 西土佐村~足摺岬

大変清々しい朝となった。空はすっきりと晴れ上がり、空気がピーンと張り詰めている。
石鎚山の時のような寒さはなかったが、今年の五月連休は涼しい日が多く感じられる。夕べは風も無く、川のせせらぎの音しか聞こえなかったので恐ろしくよく眠れた。朝飯もパカパカと腹に入ったし体調は万全である。
撤収を始める頃になって土手の上のキャンプ場も所々から煙が上がり蛤め、お金を払った人達も活動を開始したようである。テントの中の荷物を全て外に出し、テントもバラして天火に干す、相方に火を入れ暖機を開始する、管理人に見つかっても直ぐ脱出できるようにしておく為だ。
荷物を一つずつ相方に括り付け、最後にカラカラになったテントをコードでしっかりと固定して出発。
緩やかなカーブが連続する道を南下する、途中で是非とも歩いて渡りたかった幾つかある沈下橋の一つにも立ち寄る。なんの飾りっ気もないただのコンクリートで出来た欄干のない橋だが、立派な観光資源であるらしく天気の良さも手伝ってかなりの人が橋の上を行ったり来たりしていた。
ヨサク国道の終点、そして四万十川が海へと注ぐ町が中村市である。そして、ここから南には鉄道が通じていない。悪夢の走りを強いられた険しい四国の山々はここにはなく、なんの変哲もない田舎の風景が続いているだけである。中村市から西にR56を宿毛市に向かってはしる。二十㌔少々の道をストレスなしで通過し、宿毛市を今度はR321で南へと下る。海沿いのルートに入るとまた、何処からともなくバイクが現れ通り過ぎて行く。
山の中では全然見ないのに、一体彼らはどこに潜んでいたのだろうか・・・。
足摺に行くのはあまりにも早すぎるので、途中の穴場観光地とも言える『大堂海岸』に立ち寄る事にした。国道を離れ舗装された快適な道を走る、しかし途中から1.5車線となり、四国らしい道の様相を呈してきた。崖っ淵を舐めるようにしてブラインドコーナーをクリヤーし覆い被さるような樹木をくぐるようにして対向車をやり過ごす。
そして視界が開けてきたかと思ったら道路の上に何物かが飛び出してきたのである。『猿』であった。
これが自分にとって野性の猿との始めての出会いである。写真に納めねぱとウエストバッグからカメラを取り出す。その様子を景初は木々の上から見ていた彼らだが、次第に慣れてくると地面に降りてきてだんだんとこちらに近づいてきた.嫌な予感を感じた瞬間、一番手前にいた奴が自分のウエストバッグからカメラを入れてあった白いビニール袋をひったくりやがったのである。そう、奴等は観光客からこんなビニール袋から次々と出てくる食料を目当てにここまで近づいてきたのである。しかし、様々なアクシデントを潜り抜けてきた自分はここで慌てず食料が入っているウェストバッグのファスナーをがっちり締め、その盗人エテ公にじっとメンチを切ってやった。下手に慌てて追い掛けようとすれば奴は崖下の森に逃げてしまうだろう。猿を睨みつけたらいかんという事だがこちらは完全装備である。いつ飛び掛かってきても迎え撃つには充分の装備をしている。しかし、そのエテ公はこちらの物凄い形相にまけたのか、あるいは奪った袋がカメラケースしか入っていないのに気がついたのか袋をその場に置いて退却して行った。
この猿どもは道終点にあたる展望台がある所までの周辺一帯を牛耳っているようで、沿道には必ず彼らの姿がそこかしこにあった。車が十台程入る位の駐章場に相方を停め、エテ公どもに略奪されないように食べ物の臭いがしそうな物はダッフルバッグの奥深くにしまい込んだ。
そして、蒼い空と同じくらい青い海が開ける展望台に登り諮めた。ここでも奴等は後を付けてきて一緒に階段を登ってきたのである、その内の一匹がワタクシメが写真を撮っている間にメットの中に入れておいたグローブを引っ張り出し物色していたが、食べ物ではない事がわかってその場に置いて行った。
手すりに頬杖をついてボーツとしていたら、またも一匹眼光の鋭い奴が手すりの上をこちらに向かって歩いてくる、こいつは自分の手元にあるカロリーメイトが気になっているらしい。そうはさせじと驚かせないように背中を向け煙草に火を点け、振り返りざまそいつの顔に吹きかけてやった。煙草を吸う猿もいるくらいだから効果は無いだろうと考えていたが、結果は予想とはだいぷ違った。奴はまるで嫌煙権主義活動家のように顔を顰め、手(?)で顔をグシャグシャと擦って手すりから飛び下りてすっ飛んで逃げてしまった。まるで暴漢退治用のスプレーを掛けられたようにである。この時たまたま愛用のキャメルを切らしていてショッポを吸っていたので余計に強烈な煙だったのだろう、これはいい武器を発見したものだ。
暫くの静寂を楽しんだ大堂海岸を後にしてR321に復帰、途中静かな喫茶店でたっぷりと昼食をとる。土佐清水市に入り四国最後の食料買いだしをする。足摺岬にほど近い名無しのキャンプ場に到着したのは正午過ぎ、山の中では悪天候海沿いでは晴天に恵まれるというという、ここ3年程のジンクスがあるのだが今年も同じパターンであった。展望のあまりきかないこのキャンプ場にはキャンパーらしき姿はなく、いるのは自分と相方と三人の小学校低学年位の男の子とその面倒を見ているおばーちゃんが一人だけであった。

ここはキャンプ場である、という看板はなくただのだだっ広い芝生が生えた広場があるだけである。だが、入口のとろこにはちゃんと流しがあり水も出た。奥に入ると殆ど使われていないような公衆便所もあり寝泊まりしてもなんら不自由はなさそうである。相方と自分は広場の真ん中にある屋椴付きベンチの傍らに寄せ荷物を下ろし始めた、そのベンチで子供と戯れていたばあちゃんに軽く挨拶し一つ質問をした。
「今日は何曜日でしたっけ?」この一言が何かのきっかけになったのか、今迄自分の一挙一動を静観していた兄弟らしき3匹の子猿どもが一斉に捲くし立て始めたのだ。
「おんしは何処から来たがか?」
「おんしには家がないがか?」
「何故に曜日がわからんのか?」

と耳元でやいのやいのとやかましくてしょうがない。挙句の果てはエンジンがチンチンに熱くなっている相方に跨がろうとするわ、下ろした荷物を広げようとするわ、何故だか人におぷさってきて「どっかつれてけ」などとほざきよる。彼らの風体は現在の東京近辺のファミコン小僧とは全く異質で、自分が小学生の頃(こんな表現が出てくる事自体自分が歳をとってしまったということの現れか?)に居たガキ大将そのまんまであった。
みそっぱで鼻は出てるし、服も汚れてもいいようなこ汚い(失礼)もので、膝は両方とも擦り剥いた後がある。それもばんそうこうなどせずそのままにしてあり、でっかいカサブタが出来ていた。異常なまでのバイタリティー、そして純粋な瞳である(耳元で大声で質問をぷつけてくる末っ子猿の顔を見た時本当にそう思ったのだ)。この場でテントなんぞを広げたら中に侵入してそれこそ収拾が付かなくなるので、先程の猿と同様に煙草作戦を決行する事にした。自分が煙突のようにプカプカと噴かし始めると連中は少し距離を置くようになり、暫くするとさすがに飽きてきたのか三人で遊び始めた。
そして、少し上空の空にオレンジがかかってくるようになったあたりで、彼らはこちらから見えなくなるまでいつまでも手を振って坂を降りていった。
・・・・・また、静かになった。自分でも分からないがとても寂しい心境に陥ってしまった。都会ずれした子供は生意気で理屈っぼくでむかつくが、ああいう元気なやつらは不思議と憎めない。むしろ微笑ましいといったらジジ臭いか?
坂本龍馬とジョン万次郎という絶大なるイメージリーダーがある高知に来たという事で、そこら辺の道を歩いているちょっとでも屈強そうな地元の人をみる度に「この人は龍馬の末裔か?それとも万次郎か?」などと詮索してしまうほどだ。そこにきてあのような子供をみると「こいつはきっと将来大物になるに違いない」と勝手な思い込みをしてしまうのはおかしいだろうか?
タ飯までにはまだ相当の時間があるので、下ごしらえをしてそのまま足摺岬を目指すことにした。

今回の最終目的地『足摺岬』は幾台もの大型バスと無数のバイクと車で身動きがとれない状態となっていた。邪魔にならないような所に相方を滑り込ませ、歩く事数分であの断崖絶壁に立つ白い灯台を目にする事が出来た。
しかしその展望台は次から次へと押し寄せてくる団体さんの記念撮影の場所になっており、風情も何もはあったものではなかった。
口寂しくなったのでお約束の『アイスクリン』を舐めながら、お土産屋を探索する。その内の一軒に目当ての物がありたので買い物がてら、そこのオバチャンに一つ尋ねた。「田宮虎彦ゆかりのお土産はある?」
しかし、残念な事に2~3年前には店にも色紙があったそうだが、ジョン万次郎グッズの方が売れ行きがいいので皆そっちに切り換えてしまったのだそうだ。おぱちゃんから何故「虎彦グッズ」をさがしているのかと聞かれたので、すかさず免許証を見せ自分と一文字しか違わず学生時代のあだ名になっていた事を話したら、たいそう関心してくれていた様子だった。「お兄さんみたいなお客さんがウチの店に来てくれはったのも何かの縁やから、これ持って晩御飯に混ぜて食べるとええよ」といって売り物の海苔の佃煮をひとつ頂いてしまった。・・・・・ああ、一人旅ってええなぁ。
『足摺テルメ』という大ヘルスセンターに寄り風呂と洗濯を済ませる。今までの中では破格の入浴料だったが、施設内の備品は殆どタダで使えたので、元はとったつもりだ。
タ闇迫る街道を走りキャンプ場に戻る、いつものパターンであれば閑散としていた筈の広場がキャンパーで一杯なのだが戻った時も離れた所にバイクが二台と林を隔てた敷地に車が二台しかおらず、静寂そのものであった。もちろん屋根の下には明かりはないのでランタンとなるが、こいつはジェットの穴にマントルの灰が詰まってしまい石鎚山の夜から息の根が止まっている。まだ僅かに日の光りがあるうちにいそいそと食器をテーブルに並べる。昨日干して生渇きだった洗濯物はからからに乾き、シュラフは太陽の臭いを一杯に吸収してくれたようだ。
太陽がすっかり宿毛湾に沈み、街灯ひとつないキャンプ場の明かりは、自分の額に光るヘッドライトとストーブの炎である。しかも調理している間は効率よく加熱してもらわないと困るので、炎は青色となり、ヘッドライトのみとなる、しかし、電池がもったいないので、なにも特にすることがない時は暗闇の中でアホ面してただじっとしている、という特殊な夜となった。
だが、ここで一つ発見した。このストーブの炎は加熱だけのものではないという事を。それは御飯を弱火で炊いている時にこのコールマンのストーブは時々赤く煤を伴った炎を立ち上げ、周りをにわかに明るく照らしてくれるのである。だが、ナィフやらスプーンを探している時などは、明るくなった瞬間にテーブルを見回し、くらくなるとじっとしているという間抜けな行動をとらなければならなくなったが。
キャンプ最後の夜という事でグリーンピースやコーンビーフや極太のソーセージを刻んで、大量に混ぜたチキンライス(これが以外と美味かった)と久々のビールやらで独り宴会を楽しみ、締めの煙草を一服やる。気が付くと東の空に月があった。しかし弓張り月なので月明かりに慣れるには相当の時間を要した。天空に月と負けずに輝く一面の星、潮の濃い香りの風、早くも鳴き出している虫の声、あの剣・石鎚山系を走っていた頃の荒々しい四国の顔はなく静かなまるで眠っているかのような静けさ。ストーブの火を止め漆黒の闇に身を置く、なにもしない幸福な時間がまもなくフィナーレをむかえようとしている。

高知港FP~帰還

〇五月六日
午前八時 足摺岬名無しキャンプ場~高知フェリー埠頭

タベの宴会の後片づけをし、塵ひとつ落ちていない事を確認しキャンプ場を後にする。
タベの夜もよ~く眠れた。静かであればキャンプの夜のほうが時計やら車の音が気になる自宅の部屋よりも寝つきがいいかもしれないと思った位である。朝の空気が清々しい土佐清水市を北上するR321をひたすら走る。今日は完全な移動日、後は高知市めざしてまっしぐら。時間があまったら『桂浜」にでも行ってみるつもりであった。
順調に距離は進み、中村市にてR56となり更に北上。二桁国道となり交通量は俄然多くなった。大正市からのR381と合流し、須崎市・土佐市を通過。そして土佐市を過ぎたあたりで手持ちの財布の資金が底をつきそうになったので、ウエストバッグに隠してある予備の現金袋をさがしたがどうしても見つからない。着ているウェアーのポケットにもない、ダッフルバッグにもない・・・・・もしかしたら自宅でパッキングの時に他の荷物に紛れ込まないように机の上に置きっぱなしでは?と思い自宅に電話をすると案の定、現金封筒が自分の部屋の机に鎮座ましましていたそうだ。
しかたないので少し走り沿道の郵便局でお金を下ろすことにした、通帳とハンコを持って扉をあける。しかし今は連休の真っ只なか、しかも土曜目とあって窓口は閉まっている。ATMは動いていたが、ついていない事に自分の通帳はカードがないと引き落としが出来ない契約になっていた。つまり、窓口が開いていないのでこれらはただの荷物となったわけだ、だが、ここで希望を捨てるのはまだ早い。このまま高知市まで走って市内の本局に行けぱ開いているかもしれないからだ。
三十分後、自分と相方は、本局前の歩道で財布の中とにらめっこをしながらこれからの資金繰りを練っていた。もちろん、窓口は非情にも閉まっていて、ATMだけが「アリガトウゴザイマシタ」などと、人の神経を逆撫でするような声で喋っていた。
とりあえず、フェリーのチケットは予約して確保しているのでそれが最大の安心材料だった。近くのコンビニにて安い弁当と鳥龍茶を買いフェリー出港の時刻まで相当の余裕があるので『桂浜』に行ってみる事にした。
20~30分ほどで到着したが、そこに広がるのは人工的に管理された白い砂利の小さな砂浜があるだけであった。様々なガイドブックにのっているかの『坂本龍馬』氏の銅像もみたが特別感慨あるものではない、道路の渋滞にはまってわざわざ駐車料金を払ってまで訪ねる程の所ではない、と断言しておこう。それよりもこれから少ないお金でどうやって最終日まで切り披けるかで頭が一杯であった。

空虚な一日が過ぎ、相方『Z1』と自分は無事に船上の人となった。「お客様に御案内申し上げます、お食事の用意が出来ました」という悪魔の囁きともいえるアナウンスを尻目に、自分のベッドの傍らにあるのは握り飯三個とサンドウィッチ五切れと缶ジュースだけである。これを幾つかに小分けして三食もたせなければならない。今回はとにかくベッドでゴロゴロして体力を温存して腹が減らないようにしなけれぱならない。なんともお恥ずかしい旅の締め括りである。デッキに出て景色を眺めることもなく、ひたすら横になって惰眠を貧っていた。しかし、今日の夜中には空腹感にまけて残りの食料も底を付くだろう。そのあとはひたすら飢餓との戦いが自宅まで繰り広げられることだろう。
今年の春の海は穏やかである、その上をフェリーは滑るようにして東京を目指して行った。