自宅~琵琶湖

◎4月29日 午前3時
稲毛⇒琵琶湖
この季節、朝はまだまだ寒い。前日はそこそこの時間で仕事を切り上げる事が出来たので、睡眠時間はある程度確保出来た。しかし、温もりの残る布団から暫くの間お別れをしなければならない。大変なのは布団から起き上がる時だけで、あとは荷物を下ろしたり、早い朝飯を温めて自分の部屋に持っていく辺りで、頭の中の睡魔は出発前の高揚感とすっカり入れ替わってしまっている。
相方に火を入れる。『Z1』のエンジンはクランクがほぼ一回転しただけで、燃焼を始めた。相方の目覚めはすこぶるいいようだ。二年ぷりにやめたタバコを一服吸う、何故禁煙をやめたかというと、一つは『Z1」のローンが終わったという事と、海外のニュースで世界最長老のお婆さんがヘビースモーカーだという事を知ったからである。銘柄は相変わらず「CAMEL」である。
暗闇の中、上空の天気も分からぬまま自分等は二度目の四国紀行に出発した。この時間は流れのよい首都高を通過、トラックの天下となっている東名をパスして中央高速で西へと向かう。しかし八王子の料金所あたりでは、思わぬ渋滞の列。これは去年夏の関越の情景と良く似ている。最初の休憩地点「石川PA」では大型の観光バスやら家族連れで早朝とは思えない程の混雑であった。山梨県に入る。予想していた警察関係の車両は殆ど見掛ける事は無かった。
本来ならばガラガラの高速を独りで走っている筈なのに、今日は異常に一般車が多い。しかもぺースをキープするのを知らないからダラグラと流れも悪い。長距離移動で自分がもっとも嫌うものの一つに追い越しがある、長時間風圧に押されて体が硬くなっている時に、追い越しの動作をするのは結構辛いものがある。本当ならば追い越し車線をずっと走ってしまえばいいのだが、極カリスキーな走りはしない事を信条とする自分としてはやりたくないし、自分達よりもハイペースの車両が後ろから近づいてきたり、覆面を気にしながら走るなんて全然楽しくないからだ。
二度目の休憩を「双葉SA」でとる。相変わらずロングツーリングの初日は体調が思わしくない、無理矢理山菜蕎麦を胃に流し込む。途端に催してきてトイレに駆け込む。笑ってしまったのが、この時問帯は他の皆さんも雲吉がしたいらしく次々とトイレに入ってくる、そして始まるのが「屁」の大合唱。
ブー・ピルル・バリッ・ブスッ・バフッ・プスー・・。などと耐えず壁越しに聞こえてくるので、自分もケツを出しながら笑いを必死に堪えていた。胃袋の状態が落ち着いたところを見計らって相方の所に戻る。
するとクランクケースの下あたりにオイルが溜まっていた。すわオイル洩れか?と調べてみたところ各部オイルシールからの異常は認められず、どこだどこだと探していたら、エアクリーナーケースのブローバイから真新しいオイルが滴っているのを発見した。恐らく、オイル交換時に少々入れ過ぎてしまったのだろう。これだったら暫く走っていれば適量に減った所で噴き出しは止まるだろう。現役メカニックらしいざっくばらんな判断でガスCHGしてSAを後にした。
八ヶ岳を右手に過ぎ、道路の標高もグングン上がり、太陽が秩父山脈から顔を出し背中が温かくなってきた。諏訪湖を過ぎたあたりで麓陶しい車もぐっと少なくなり、上空の天気は急速に回復していった。
さて、ここからは自分にとって未知の中央道である。
今迄のアップダウンな道路とは違い、伊那の谷間を緩やかに左手からの陽光を浴びながらのんびりと南下してゆく。右手には木曽駒ケ岳を盟主とした木曾山地、左手には天然水の南アルプスが遥か先のほうまで尾根が続いている。その先端は遠州灘である。鼻歌気分で制限速度+αでのんびり流す。しかし長野はまだ春になったばかり。とまらぬ鼻水で鼻先がヒリヒリしてきた、体感温度も真冬並みなのでトイレも近くなってきた。たまらず小黒川PAでトイレ休憩する。駐車場側は日陰になっているので、建物の隙間を通り抜けてPAの裏に出る。そこはぼかぽかとした日溜まりとなっていた。缶コーヒーを空け、煙草を一本燃やしてからPAを出発する。
単調だが退屈しない田園風景を眺めながら再び制限㌔十αのぺースを守る、なにせ邪魔する物が殆どないので精神的にとても楽である。時折、自分よりも遅いぺースでキャラバンを組んで走っているハーレーのグループや、200キロ近くでかっとんで行くGPZ-1000RXを見掛けたのが今日の中央高速で目撃した唯一の単車であった。
この頃になると身体、頭ともに暖機は完了したので次の休憩は愛知県に入ってからにする事にした。中央高速最長のトンネル『恵那山トンネル』をトラックと共に通過、岐阜県に入る。ケツの痛みが酷くなってきたので屏風山PAにて小休止。長距離を走っている時乗り出して程なくケツや腰が痛くなってくるので、少しハンドルの角度や風圧の対策を施さなければならないようだ。
愛知県に入り、小牧JCTにて東名高速と合流する。気のせいかトヨタの車が多くなったようだ・・・工場と田圃が広がっているだけの退屈なパノラマが広がる名古屋を通過し、いよいよ名神高速に入る。再びアップグウンと高速コーナーを繰り返して関が原ICを通過する、西の空の雲行きが怪しくなってきたのに気付いたのはこの時だった.今日の高速道路での最後の休憩地点伊吹PAにてハイカの残高と荷物のチェックをおこなう。ここからは近畿圏である。しかし、今回はただ通過するのみである、一応来年は琵琶湖を起点としたロングツーリングを予定している。

午後二時、粟東ICにて高速から解放された。そのまま、琵琶湖へと向かい、途中守山市にて買い出し、町中の渋い店構えの定食屋で遅い昼をとる、そこの若い主入と暫しバイク談義に花が咲いた。こんな時相手から聞かれる言葉はだいたい決まっている、「渋い、懐かしい、硬派の象徴、大事に乗れよ!」である。もしもこの時「Z1」に乗っていなかったら、こんな会話は無かっただろうと、いつも出発する時に考える。
今迄どうにかもってくれていた天気が、とうとう此処でこと切れてしまった。今年入って初めての雷雨である。田圃の中を真っ直ぐに突っ切り琵琶湖大橋に向かってはしる、その近くに今日目指すキャンプ場があるからだ。ところが、初日には何かが起きるというジンクス通りアクシデントが降りかかってきた。全身濡れ鼠になりながらキャンプ場の管理人に野営の申し込みをしようとしたら「ここは、オートキャンプ場でしてバイクは受け付けていない」とのこと。
始めから間取りが決まっていて(そんなものの何処がアウトドアだ?)、車ならまだしもそのスペースにバイクで入ろうものなら一人で数千円も支払わなければならないという。そこの人に近くの普通のキャンプ場を教えてもらい、少々焦りながら琵琶湖湖畔を走る。やがて左手に立派な駐車揚を抱えたキャンプ場が姿を現した。駐車料金と利用料を締めて1500円を支払ってサイトに荷物を運び込む、初日の長距離移動と襲ってくる睡魔で数10メートルの距離をヘトヘトになりながら荷物を運ぷ。
ましてや雨は本降りとなり、目の前に広がっているはずの琵琶湖も全く視界に入らない、というか疲れ過ぎて岸辺まで見にいく気カも無かった。

四国上陸~中尾山

正しくは中尾山高原キャンプ場(2004.4)
〇四月三〇日午前二時
琵琶湖~四国上陸
初日から夜更けまで大声で騒ぐ学生風のグループに注意をしに行くなど、寝つけない夜は午前二時の目覚ましの音で終わった。さて、ここからが今後の四国でのスケジュールを左右する重要な移動日である、一日に三便くらいしか出港していないという徳島行きのフェリーに乗るため大阪の南港まで一気に走らなければならないからである。勿輪、事前に船会社に問い合わせをして出港時刻や乗船券の金額とやらは聞いてある。しかし、肝心の出港時刻は今年の始めに起こった大震災で神戸港が壊滅状態になり、神戸発のフェリーが南港から出港することになってしまったからである。しかも四月も終わろうと言うのにダイヤは依然混乱しており、その日その日によって船の定期便が欠航する事もある、と電話で応対してくれた係員は言っていた。とどのつまり、実際にフェリーターミナルに行ってみて初めてダイヤがはっきりするというとんでもない事態になっているのだった。加えて、自分にとってはこの先のルートは全くの未知の世界、所要時間も殆ど分からない。そして、前日の疲労が全く取れていない体調に季節外れの低温と大雨。普通の人間だったらテントから出ることさえ戸惑ってしまう状況である。しかし、前に進まなけれぱ四国には辿り着くことが出来ない、最終目的地の足摺岬に到達する事は出来ない。静まり帰ったキャンプ場で、一人自分は街灯の明かりを頼りにテントを撤収する。
『Z1』の暖機が完了し、キャンプ場を後にしたのは午前四時だった。
まともな朝食もとらず、すぐに撤収に取り掛かったのに鉛の様に重い手足と霧が掛かったままのノウミソのせいでこれだけ時間がかかってしまった。雨足が強く、道路の街灯もほとんどないので地図を見ながら走るという事は出来ず、おまけにスモークシールドなので前方の視界も悪く伊達眼鏡をしてシールドを上げての走行となった。当然、雨粒は石の粒手となって飛んでくる。痛いのと冷たいのとメットの中が濡れてくる麓陶しさで気分は更に最悪となった。昼間走った記憶を頼りに名神の栗東ICを目指す、その点高速道路の案内標織は幹線道路にさえ出られれば必ずあるので苦労はしなかった。曇り空のまま明るくなってきた辺りで、
高速道路に乗った。道路の上の状況はこれまた最悪であった。今日が日曜日だという事でトラックの数は少ないが、どの車も飛ばす飛ばす・・・。勢い良く水煙を上げながらどんどん後ろから追い越してゆく、走るラインによっては水柱が直接こちらに飛んでくる時があるので始終緊張のしっ放しである。まったく偉い目に合わせてくれるな・・・。
ある程度余裕はあったが、念のため最初のPAにてガスCHGする。ここもまた早朝にも係わらずスタンドは順番待ちの列が出来ていた。午前六時過ぎ頃、京都を通週する。谷間に漂う雨雲を眼下に眺めたり、京都盆地を遠くに見ながら走る。渋滞する事で関西に名を轟かす〔天王山トンネル〕をハイペースで通過する。緊張感を持続させるために速度を速めに維持する。ここからは大阪府である。天気は相変わらずで視界も道路もけっして良くない。そして、自分はここでミスをしてしまった。吹田JCTで近畿自動章遣で東大阪に向かうつもりだったのに、そのまま通過してしまい尼崎まで行ってしまう所を危うく豊中ICで阪神高速に入ったという次第である。高速道路は信号がない分流れが良くなると立ち止まって地図を確認するという事が難しくなってくる、ましてや郊外を走る高速道路は一本道だから迷うという事は考えられないが、都心の高速は密集していて支線や環状線とのICが無数にあるので、地に明るくない人にとっては厄介な代物である。
これは大阪の人が首都高速を走っても同じ事をかんがえるだろう、だから自分は予め迷う事を想定して豊中の料金所のオッチャンに詳しい路線図をもらい、環状線へと乗り込んだのである。しかし、聞き慣れない地名が羅列している案内標識をみても、それが自分が目指すべき出口に繋がっているかどうか分かるまでには時間がかかり、結局自分等は環状線を二周して、ようやく南港ヘアクセスする大阪港線を発見。ほどなく巨大な船が停泊する景色が視界に入ってきた「よっしゃあ、もうちょっとや!!」と、思わず両手にカが入る。
フェリー埠頭近くのICから一般道路に降り、案内標識にしたがって幾つかの交差点を曲がり、午前七時過ぎには無事に徳島行きのフェリーの乗船手続きを済ませる事が出来た。
船の出港時刻までまだ時間があるので、フェリーターミナルビルの待合室にて、取り合えず着ている雨具を脱ぐ。今年は上下革尽くしではなく、上のジャケットはゴアテックスの防水性がウリのブレィズ・スペック。下はいつもどおりのカドヤの皮パンツである。何故皮ジャンをやめたかというと、まず荷物を減らしたかったという事。悪天候時ストームクルーザーと重ね着すると、動き辛くてしょうがなかったという事。一旦濡れてしまうとなかなか乾いてくれない、等とあまり野宿をする人間にとっては有り難くない点が多かったので、ここはスタイルではなく実用性重視という事で雨具と防寒を兼ねるこのオフロードジャケットにしたのである。

日曜の朝、人気の少ないここで初めてツーリングライダーと話をする事が出来た。彼は地元の寝屋川から今朝出てきたとの事。マシンはTT-Rで、上陸したらスーパー林道を走ると鼻息荒く語っていた。しぱらくたって、一人の人が自転車に乗ってやってきた。京都から何日かかけてここまで来たのだという、そして四国の海沿いを適当に走り廻ったらまた帰るのだそうだ、京都から走って来ただけでも驚きなのに、これから四国まで行ってくるのだから我々の上をいっている。そしてもう一人ライダーがやってきた。
彼は長野からやって来たという、マシンはめずらしいDR650RSである。DR氏は昨日の晩は大阪市内の知り合いの家に泊めてもらったのだそうだ(羨ましい・・…)。四人で適当に世間話をしているうちに我々の乗るべき船がやって来た。しかし、その近づいてくる船体を見て、我々は思わず苦笑いしてしまった。
あまりにもボロイのである。

それが両脇に停泊している九州方面の船が新しいものだから、余計に引き立ってしまうのだ。
徳島からやってきた僅かな車とバイクが降りたあと、自分達は待たされることなくすぐ乗船した。(たいがい船内清掃とか点検で少し待たされる筈なのだが)座敷部屋にあがり、身軽な格好になって、すぐ自分は朝食を食べた。食堂などと呼べるものはなく、ちょっとした立ち食いの蕎麦屋みたいのと売店があるだけ。まあ三時間半の船旅なのだからあまり多くを求めてはいかんかな・・・・。
あつあつの山菜蕎麦と握り飯三個と沢庵をたいらげ、自分は座敷へと戻った。他のメンバーと話をしているうちに猛烈な眠気が襲ってきたので、そのまま横になって寝ることにした。

「にーさん起きなはれ、もう着きまっせ」とレイド氏に揺り起こされ、慌てて起き上がると周りにはもう誰も居ないではないか!どうやら余りの疲労で熟睡してしまったようだ。
レイド氏に起こされなかったら大変な事になってしまった所であった。荷物を掻き集めカーデッキに降りる、重々しい音が響き小さなショックとともに船の動きが止まった。ランプウェイから見える一年振りの徳島の空はどんよりと曇っていた。
雨は降っていないようだが、いまにも・・・といった感じである。午前11時50分。ほぼ定刻どおり自分は徳島に無事上陸する事ができた。三人のメンバーとはここでお別れ、自分は徳島の市街地に入り、まず食料の買い出しをする、日曜日という事で立ち寄りやすい雑貨屋は殆ど閉まっており、開いている店を探すのに時間がかかった、済ませようと思えばコンビニ弁当でもよかったが、これから暫くのあいだ粗食の生活となるので、せめて山に入る前くらいはカロリーの高いものを・・・とラーメン屋を探したがこれも以外と見つからず、R439に向かう頃には市内でもポツリポツリと降ってきてしまった。
「またか・・こりゃ、足摺につくまで雨続きかもしれんな」と思いながらストームクルーザーを着込み、街を後にした。二日振りの風呂を神山温泉で済ませ、さっぱりした後、更にR439を西に進む。三度目ともなると、もうお馴染みの感がある西日本の三桁国道を走っている訳だが、やはり一種独特の緊張感がある。天候は山中を進むにつれ悪くなり、去年悪夢の迂回路を通った、上分の集落を通過する時に雨はあがったが、途中の川弁トンネルを抜けた後の展望は、雲と静まり帰った木屋平村の集落が眼下に見えるだけであった。ここから先、ツーリングマップにはR439の沿道にはキャンプ場の表示はない。取り合えず、剣山の近くまで走って、日没までに道路脇の空き地を探して適当にキャンプするつもりだったので、特に不安はなかった。つまりキャンプツーリングを始めて初めての野宿とやらを決行するのである、これも寺崎組長の影響である。
集落の中をそろそろと抜け、再び深い山の中に入る。もういい加減に荷物を下ろさないと暗くなってからでは、テントを張るにも面倒なことになってしまう…と考え出したころ、ふと道端に真新しい『キャンプ場』の看板を発見した、去年、東祖谷山村からヨサク国道を通ってここに来た時は、こんなのには気がつかなかった。ここは渡りに舟ということで急遽此処のキャンプ場に泊まる事にした。ヨサクを外れ地図に載っていない道をクネクネと登ってゆく。再び標高は上がり、耳の感覚がおかしくなってくる。そしてお約束のミルクのような霧の中を走る。沿道に点在する廃屋の横をかすめながらどんどん上へと登ってゆく、はっきり言って不安である。上陸して初日で雨という悪天候もあるが、今自分はどこへ向かって走っているかも殆ど見当がつかない、しかも今日はとても朝早くから走り続けてきたので疲労も蓄積している。湯冷めして風邪でもひいたらえらい事である。
普段ツーリングの時は努めて楽観的に物事を考えるようにしているが、四国の山中を走る時はいつも天気に恵まれていないので、どうしても不安の念が湧き出てきてしまう。
しかし、後ろには何時何処でもキャンプが出来るようにと食糧と水は確保されている、別に砂漢のどまんなかを走っているわけではないし・・・気を取り直してアクセルを開ける。するとつづら折れの道は終わり、突如視界が開けた。といっても霧が殆ど遮っているのですこし見通しが良くなった位であるが・・・。
そこには、何台かの工作機械と工事中の看板があり、敷地の中には十棟程のバンガローと『ようこそ中尾山高原へ』という標識が霧の向こうに見えた。道の奥は行き止まりになっており、そこには明かりのともった建物があった。単車をおりて近寄ってみると「国民宿舎」とある。駐車場には何台かの近県ナンバーの車が止められていたので、客も入っているようだ。当然泊まるつもりはないので後にする。先程のバンガろーのある所に戻る、「この下キャンプ場」の看板を発見し、そこから下をみるとテントが2~3張られているではないか・・・やっと今日もゆっくり寝られる・・・。『Z1』に跨がり砂利の敷き詰められた急なスロープを下りサイトをグルリと巡る。ここも先日の琵琶湖キャンプ場みたいに、一台一台の駐車場がきまっていて、テントの張る場所も決まっている訳の分からんタイプであった。奥のバンガローはどこも使っている形跡はなく出入り口にはベニヤ板が打ちつけられている。霧の中に雨が混じり始め、やがて本降りとなってきたので『Z1』を地盤のしっかりしたところに止め、とりあえず煙草をもって、雨が充分にしのげるバンガローの屋根の下で一考する事にした。
バンガローが立っているこの場所はテントサイトと違って、国民宿舎の建物からは林が邪魔をして死角となっている。キャンプ場の利用申し込みは恐らく国民宿舎でするのであろう。
ここから砂利の道を通って大雨の中を歩いて行くのは面倒臭い。おあつらえむきな事にバンガローの下は高床になっていて、人が軽くかがんで入れば十二畳程の乾燥したスペースが確保できる、テントを建てずに済む、管理人の人には悪いが無断で利用させてもらうことに只今決定した。


バンガローの下に全ての荷物を運び込み一服する、周りは朝と変わらない薄暗さで気分もいま一つ盛り上がらない。歩いて数メートルの所にある炊事場にて、米を研ぐ。ベタな表現だが指が切れるかと思う位冷たい、飲んでみるとこれまた美味い!荷物運びで火照った体が一気に冷えてゆくのが分かる程だ。
上下楽な格好になり、地面に敷いたベニヤ板にシュラフを広げ、横になる。
一応風通しをよくする為に周りに遮蔽する物が何も無いので、バイクに乗っていた大きなバッグ類を風上においてみた。しかし、自分の寝ている上のバンガローそのものが熊笹に囲まれた所にあるので、ストーブの炎も僅かに揺らぐ程度の風しか吹き込んでこなかった。米を入れた飯合を火に掛け、その間にロープをあちこちに張り巡らして雨具やら洗濯物を干し。時折、すぐ近くの道路を通る車の音にドキッとして笹の中に身体を沈める事を何度か繰り返した。もしかしたら今、見つかってこっちに取り立てにくるかもしれない…とけっこうビクビクしてしまったりした。いったい自分はここになにしに来たのであろうか。
外は大雨だが、床下には殆ど水が回ってこないので乾燥し切っているから清潔そのものである。これで高さがもう少しあれば申し分ないのだが・・・。
四国に上隆して最初の夕食が済み、暗闇に煙草の煙を燻らせる。天気はどうやら小康状態になったようだ、しかし、笹の向こうに見える国民宿舎の後ろには山があり一定の問隔をおいて霧が押し寄せてくる。霧が来ると風が吹き庇から雨がポタポタと落ちてくる、暫くすると霧は晴れ風が止む。食器を片づけ、歯磨きの為炊事場に行く、霧の晴れた高原からの暗黒の山脈の眺めは一種の威圧感を感じる。谷間とおぼしき辺りに白い煙のような物が漂っているのは、恐らくここを通過していった霧が溜まって、雲海になっているのであろう。明日の朝、もしも晴れてくれれぱ絶好の雲海日よりになるだろう。

明日は天気が良好ならヨサクをそのまま西進し西日本第二の高峰『剣山』に登頂する予定である、この山は途中までリフトで登れるのでブーツを履いたままでも山頂にアタックできる程の穏やかな稜線をもっているので、近くを通過する際には是非登ってみたかったのである。しかし、去年は悪天候に阻まれいざ登山口に来てみても、売店はシャッターを下ろしたままだし、当然の事ながらリフトも動いてはいなかったので断念したのである。
去年の夏の八甲田山のように、二度目の挑戦の時にはうまくいくと信じてシュラフに潜り込みあっという間に寝てしまった。

京柱峠~シラサ峠CA

〇五月一日
午前五時

中尾平キャンプ場~京柱峠~シラサ峠キャンプ場
定刻にすっぱり目が醒めた。タベはかなり冷え込んだ筈だが、防寒対策を施しておいたので、寒さに目が醒めたという記憶はなくとても気分がいい、下手なキャンプ場よりもビバークの方が快適なんじゃないの?
目覚めはよかったが、天気は昨日の続きのようであった。濃霧といい、雨の降り方といい昨日と殆ど変化がない、取り合えずタベの雲海が見えた所に行ってみたが真っ白で何処から山で何処から谷なのかも分からない。「こりゃ、今年も剣山はお預けだな」
雨を避けながらのパッキングに加え、慣れない床下での着替えにてまどり出発は八時となった。
車一台通らないヨサクを走る、相変わらず道路のコンディションは最悪、いや極悪である。剣山付近になると一車線がずーっと続き、しかも右手は倒れ掛からんばかりの大岩が連なり、左手は下が見えない程の鳥肌もんの奈落の底である。この道路の酷さは去年のツーレポにまとめてあるのであえて割愛する。
暖機もままならない身体に鞭打って、無数のヘアピンをクリアし、峠の見ノ越を過ぎて登山口に辿り着いたがそこはまるで去年のあの日から時間が泊まったままのようであった。
今朝のラジオにて、四国地方は今日一日荒れ模様と行っていたのでそのまま通過する事にした。しかし、このまま只では転ぱないのがこの私、今度オフ車で来た時は天気の回復をじっくり待って、必ず頂上を極めてやる!と心に決め次の難所「京柱峠」に向かう。
ところが、現在時刻をみようとしたところ、時計の液晶表示が消えているのに気がついた。ボタンのあちこちを押してみても全く反応なし、たしか電池は去年の夏に交換したぱかりであり、その後はアラームを止めて放置しておいた筈である。電池が消耗したとは考えにくい、ここで、その交換をした際に時計屋さんが「裏蓋のバッキンがヘタッてるから早めに交換した方がいいよ」と言っていたのをふと思い出した。見れば時計は、ハンドルに引っ掛けてあるとはいえ埃とか振動を受けてしかも雨晒し。時計自身も生活防水程度の超安物である。むしろ今迄この悪条件によく耐えてきてくれたものだ。
時間の感覚もないまま我々は徳島と高知の県境にあたる京柱峠に到着した。
ここは地図や観光のガイドブックの写真でよく紹介される場所で、晴れていれぱ東西に広がる四国山地を一望出来る・・・のだが、いま現在見えるのは数メートルの道路と県名を示す標織と峠からの眺めを案内標識する看板が強風に煽られて揺れているだけである。
そう、天気はここに来て最悪の状況となった。タバコの火はおろか、ミラーに掛けたメットが落ちそうになるくらいの風と髪の毛が一瞬にして真っ白になってしまう程の濃霧が今回の京柱峠である。朝出発してからここに到着するまでに会ったバイクは二台だけ、しかも自分が地図とにらめっこしている間に通り過ぎてしまったので、どんな顔触れなのかも分からなかった。写真を取るにも、余りにも見通しがきかないので相方を県境の標織の近くに寄せて、証拠写真のみを残すことにした・・・・・、余りにも寂しすぎる、この季節皆何処を走っているのだろうか、峠を降り、始どエンジンブレーキだけでR32に降りてきた。
R32は高松と高知の間を結ぷ二桁国道である。それだけに二日がかりでヨサクの半分を走ってきた自分にとっては高速道路のように感じられた。車の流れに任されるままに大豊町に入り、再びヨサクを走る本山町に差し掛かった辺りで市街地に入り時計屋を探した。
程無く眼鏡屋と時計屋とレコード屋を一緒にしたような渋い店を商店衡の中に発見しサッシを開ける。今や強化防水のデジタル時計は全国どこでも簡単に手に入るようになった。ショーケースに並んでいるのを眺めて数秒で決めた。こんな時、つくづく現金があるという事が如何に有り難いかを痛感した・・・・・。
しかし、ここでの出資が後々に大変な事態を引き起こすなどとは、知る良しもなかった。
自分の風体からして旅人と分かった店の主人は、山の写真を撮るのが趣味のようでその腕前は玄入裸足である。壁に飾ってある幾つかの写真のなかに『剣山」や『石鎚山』は特に一年を通しての山の表情が捉えられていて素晴らしかった。そして、その『石鎚山』に明日登頂する事を主人に話たら、彼は写真に囲まれて張りつけてある立体模型を差しながら天候は何処から変わるかとか、登山道は何処が楽だとか、観光案内者顔負けの詳しい説明をしてくれた。
だが話をきいている内に、この山の近辺はこの数日例年にない程の冷え込みで、天気もずっと悪いままであるという事がわかった。そして、この場所からシラサ峠までまだかなりの時間を要するという。
「この近くにキャンプ場あるから、泊まっていくがよろしやんか」といわれたが、ここで一泊してしまうと後々の予定がタイトになってしまうので、ここはお礼を言って先を急ぐ事にした。直ぐ近くの定食屋で昼を食べ久し振りに自宅に途中経過の報告をする。
去年の異常渇水ですっかり有名になってしまった『早明浦ダム』の横を通過し、再び山の中へ。
全くストレスの絶えない道路である。土佐町と吾北村境の峠で雷に遭遇。昼過ぎだというのに辺りは真っ暗、当然雨は大粒である。気温が急激に低くなるのでシールドが度々曇り、少し開けて走ろうとするが雨が当たって痛くてしょうがない。そして、えらいことに相方の調子も悪くなってきてしまったのである!!
シートとタンク後部の隙間から雨が入ってしまいキャブが水を吸っている様なのである。このままではエンジンが壊れてしまうので、慌てて路肩に停め余ったタオルを隙間に詰め込んだ。
とりあえず、雨粒の直撃さえかわせれば大丈夫、相方は土砂降りの中を阿事も無かったかのように走ってくれた。
恐怖心さえ出てきそうな大雨のなか、ようやく吾北村の集落にでた。
ここの雑貨屋で三日分の食糧を買い込み、水を確保した。これから三日間山の中に閉じこもる訳だから、真面目に献立と荷物の量を考えて買い物をした。二車線のR194を北上する、時計の時刻は二時を過ぎようとしている。
シラサ峠まではまだ距離がある、しかも最後に十ニキ日余りのダート走行が待ち構えている。他に楽なルートは無かったのか?と言われれると、あるにはある。
しかし、それは『石鎚山』だけを目指して行く時の話しで、その後『道後温泉」や『四国カルスト』も回りたいとなったら、この瓶ケ森林道を外すわけにはいかなくなるのである。
身振るいする程の寒さの中、峠の寒風山トンネル手前から左に瓶ケ森林道に入る。
この林道、ちょっと前まで自分は(びんがもり)とよんでいたが、正確には(かめがもり)である、昔から林業関係者や登山者の道として有名だったらしいが、つい最近に一般車両が通行可能となったばかりの古くて新しい林道である。愛読書の「アウトライダー」には、乾いたそこそこフラットな道をオンロードバイクが楽しそうに走っている写真が掲載されていたが、今は違う。
滝のような雨の中を落石とパンクと転倒と後ろの荷物が気になって、まともに運転できる状態ではない。流水に洗われて、土の中から尖った石が顔を出し次々とこちらに迫ってくる、避けて走ろうとすると、その先の排水溝の蓋が思いっ切り外されていたり、数時間前に起きたとした思えない落石によって道の半分を大岩が塞いでいたりと、自分が今迄思い描いてきた瓶が森のイメージが一気に覆されてしまった。
そして、最悪な事に相方のフロントブレーキが全く使い物にならなくなってしまったのである、つまりストレートに言えば制動が効かなくなった、という事だ。
ブレーキングしようとしても、レバーが完全に握り込めてしまって全然速度が落ちなくなってしまった。しかも、もっと悪いことにリザーバタンクのフルードが半分近くまで減っているのである!!!
これまでの状況を見れば、どう考えてもフルードが何処からか漏れているとしか思えない。
ロングツーリングを始めて以来最大の危機である、まあ、もともと、スピードが出せる状況ではないので、ここは落ち着いてリヤブレーキのみでこの場は切り抜けるしかない、泣いてもわめいても、絶対に誰にも会わないのだから(林道の後半に差しかかった辺りでなんと、この天気の中MTBで走っている人がいたが・・)林道中間点の「瓶が森」を通過し、のろのろと先へ進む。本当なら標高千メートル近い所を走っているので、高い樹木はなく素晴らしい大パノラマが展開する筈だったのだが、むろん真っ白でまったく距離感が掴めない。グリップしてくれないタィヤにヒヤヒヤさせられながら、自分は次第に独り言が多くなってきたのが分かった。「馬っ鹿たれがあ!なんでこんなに天気がわるいんだよ!今日中にキャンプ場に着くのかよ!俺が何したってんだよ!!!!以下略」、やがて独り言は怒鳴り声になり、ギャップ一つ越えるだけで「オラー!」とか「くそったれー!」などといちいち叫んでいた。そんなことしたら余計体力を消耗してしまうのに。
永遠に続くと思われた林道も、ようやく終わりが見えてきた辺りで、ひとつ困ったことが発生した。
それは麓の町で捨ててくるのを忘れた昨日からのゴミである。口を縛ってネットに結んでおいたのだが、激しい振動とショックで中身が溢れそうになってしまっていたのである。このままでは、ゴミを撒き散らしながら走る事になり野宿者としての最大のタブーをおかす所であった。
しかし、この状況でダッフルバッグの中から袋を取り出す訳にもいかず、かといってドロドロで破れかかっている袋をザックに入れるのは、衡生上非常にやばい。道端で用を足しながら考えた結果、仕方無くナイフで袋を切り離し目立つ場所にそれを於いて行く事にした。吸殻、塵一つ残さずしてその場を去るという自分のポリシーを破る事になり、情け無いやら、林道関係者の人に大変申し訳ないやらで、すっかり意気消沈してしまった。

ドロドロの状態でシラサ峠に到着したのは、タ方の六時であった。
幸い、尾根沿いの開けた場所の為、風は強かったが周りは明かった。これならテント幕営で不自由な思いはせずにすみそうである。
ところが、肝心のキャンプ場はとんでもない所にあった。あの、一昨年前の紀伊半島ツーリングで、途中の竜神温泉近くのキャンプ場のテントサイトが道路から遥か下の川原にあり、そこへの道は丸太を埋め込んだだけの急坂しかなく死ぬ思いをしてテントを担ぎ下ろしたという、嫌な思い出が蘇ってきたのである。
しかし、熊笹が生い茂る山頂と数メートルも満足に視界が聞かない中で、適度な空き地を体力のリザーブも切れ掛かっている状態で探し回る自信と気力は全くといって良い程なかった。
すぐ近くに、キャンプ場を管理している山荘があったのでそこへ行き、利用料を二日分払った。ついでに風呂は入れさせてくれるのか聞いたら宿泊者のみだという。めちゃくちゃ風呂に入りたかったのに、ここでは水が非常に貴重なのだろうか残念である。
という事は山を下りない限り風呂にはありつけないという訳だ。足を引きずるようにして相方の元へ戻る。後はテント設営しかない。まず、キャンプ場を示す案内板にしたがって川と化した崖道を下る。三十メートル程で公衆トイレを発見、間もなくその先に炊事場と僅かながらのテントサイトが広がっていた、勿論無人である。
持てるだけの荷物をぷら下げて崖道を数回往復し、雨が小康状態になった所を見計らってテントを立て林道の泥で真っ白になったバッグ類を一つづつタオルで拭いてテントの中に入れる、自分は最後である。
ラジオを点け、楽な恰好に着替えて煙草を一服する。途端に悪魔のような眠気が襲ってきた。食事を作る気力もなく食欲さえもない、雨はいよいよ大降りになり遠くでは雷がなるまでになった。ラジオの天気予報でも今夜半から明日早朝に掛けて大雨になるという。
これはもう完全に停滞である。テントの中の気温も急激に下がってきているのが分かった。
とりあえず明日起きた時、天気が良くて体力も回復していたら『石鎚山』に登山するつもりなので、その準備だけをしてこの時間から寝てしまう事にした。
余程疲れていたにちがいない、その後の記憶がほとんどないのだ。覚えている事といったら、小石を叩きつけている様な大雨の音で、時々安眠を妨げられたという位である。

停滞

〇五月二日
午前八時 シラサ峠キャンプ場 停滞
前線が停滞しているのであろうか、一昨日から全く天候の変化がない。目覚ましをかけた覚えはあるが、止めた記憶はなく時刻は予定の出発時刻をとっくに過ぎていた。しかし、タ食をぬいて寝てしまった為、身体が重く充分に睡眠をとったにも係わらず意織が朦朧としている。もしや、タベの冷え込みで風邪をひいたのではと、ゾッとしたが喉の痛みや関節の痛みは無く、朝のコーヒーを飲んだらそれなりにシャキッとしてきたので、とりあえずは大丈夫らしい。
これまでにも色々なアクシデントに見舞われてきたが、自分の考えるうち、最もつまらなく旅が台無しになってしまうトラブルの一つが、不摂生による風邪だと思う。特に自分の体質は一度、体内にウイルスが侵入してしまうと体温が四十度ちかくまで上がり、過去にそれで死ぬ思いをしたことがあるので、とても怖いのである。
病気ではなさそうなのは良かったが、天気は相変わらずの濃霧と真冬なみの寒さと一定の間隔をおいて降り出す大雨と抜け切っていない疲労感、という事で泣く泣く『石鎚山』登山は諦める事にした。前日の『剣山』といい今日といい、今年も山中は天気が良くない。
外にも出られず退屈でしょうがないのでラジオをつけ、流れてきたニュースの内容を聞く。
去年の異常渇水で水没していた旧町役場の建物が顔を出したという事で、すっかり有名になってしまったあの「早明浦」ダムが一昨日からの集中豪雨で万杯となり、ほぼ一年振りに取水制限が解除されたらしい。
なんと、自分が一日中悪戦苦闘してきたあの大雨のせいで、すっからかんになっていたダムが満水になったとは…いかにあの雨が激しかったか改めて感慨にふけってしまった。その中を、普通の人なら身の危険を感じて宿に逃げ込むだろうが、相方とともに大きな事故もなく無事にここまで来て、キャンプしてしまったのだから自分は相当の好き者なのだろう。

遅い朝飯を済ませ食器を洗う為、雨が上がった間隙をぬってテントの外にでる。なんとサイトに二つばかり知らないうちにテントが建っているではないか。恐らく、昨日自分が眠ってしまった後に来たのだろうか。それとも余りの濃霧で気がつかなかったか・・・。
やるべき事を済ませ、テントの中でゴロ寝したり何度も読んだ四国のガイドブックをもう一度最初から読み直したりして、昼が過ぎた。一向に天気に大きな変化はない、しかしラジオで言っていた様に大雨の峠は過ぎたようで、今は時計仕掛けのように繰り返し山の上から下りてくる霧が通り過ぎると霧の粒を捉えた木々の枝から水の粒が雨の様にポタポタと音をたてて熊笹に落ちてゆくだけである。
霧が晴れ、見通しがよくなると野鳥の囀りが何処からともなく始まる、そして霧が再びおりてくるとそれが止み、雫が笹の葉を叩く音と入れ代わる。『森羅万象』という言葉がこれほどはまっている光景をみたのは恐らく初めてかもしれない。
昨日のブレーキトラブルの原因をまだ突き止めていなかった事を思い出し、ストームクルーザーを着て相方の屠る崖上の道路をめざして獣道を登る。
相方は何事もなかったかのように、そこに居た。昨日の強行軍で足廻りはドロドロなっていたが、エンジンはすぐに掛かってくれた。問題のブレーキは相変わらずフニャフニャだが、フルード漏れがどこにも認められなかったのにはホッとした。キャリパーをその場ではずした所、原因はすぐに分かった。ブレーキングした時にスライドすべきシャフトの部分にこれでもかという位のドロが詰まっており、キャリパーが全然動けない状態になっていたのである。

見たところキャリパーが新品パッドの時の位置のまま固着してしまっており、引っ込んでいるべきピストンがかなり飛び出している。ピストンとダストカバーの間にも大量の泥が詰まっていた。こんなんではピストンは動けんはキャリパーはスライドせんわで、制動してくれる訳がない。相方にいつもぷら下げてあるウエストバッグからマイナスドライバーを出して丁寧にドロをかきだす、その泥も先程までの雨でぬれているので余り効率が良くない。手荒に扱ってドロがピストンの方まで入ってしまったら大変な事になりかねないので、明日の移動も様子を伺いながらの走行をするつもりである。
炊事場で早めのタ食の為の米を研いでいる時、背後に温かいものを感じた。振り返ると、遥か彼方の西の空の雲がかき消すように消え、太陽が顔を出してきたのである。

「林道に出れば、天気の変化が分かるかもしれない」と考え、カメラを片手に相方の居る林道に再び登る。
先程までの光景からは想像もつかない程、シラサ峠は素晴らしく眺めのいい所だという事を今頃になって知った。峠道を押し漬すが如く掛かっていた霧は全くなく、その先は谷間でさらにその先にあの『石鎚山』が夕日に照らされてシルエットとなって雲海に浮かび上がっていた。その感動は今でも鮮明に覚えている、全身に鳥肌が立ち胸が詰まるような感覚に襲われたのだから・・・。

その、荘厳で勇壮な山容は、自分が今迄見てきた美しい山のベスト3に入るだろう。そして、昨日自分がヘロヘ日になって走ってきた林道の方角を見ると熊笹の山頂が特徴の瓶ケ森、伊予富士、寒風山が一望にできた。山派の自分なら泣いて喜びそうな風景が、やっとここでお目にかかれたのである。自分はしばし時を忘れて、熊笹の平原に立ち疎していた。

自棄喰いともいえる量の麻婆豆腐を平らげ、体が冷えないうちにさっさとシュラフに潜り込んだ。例の二つのテントには既に人がいる様だったが、平地のキャンプ場と違ってれも登山家達なのだろう、「絶対にもう一度此処に来てやる」
と、全く物音しない二日目の夜に誓った自分であった。