自宅~知多半島~内海町
◎5月2日(土)第一日目・午前 4時起床
4時10分、部屋を出る。エンジンに火を入れる、オイルパン辺りからのオイル漏れもなく、快調である。
アイドリングが落ち着いてきたところで、単車に跨がりギヤを入れる。
AM7:00小田原厚木道路の厚木.C.で朝食(コンビニの握り飯とウーロン茶)、バイクにも今日最初の給油9.8㍑。胃に食べ物が入ったせいか、少し眠くなってきた。ここから昼飯どきまでが眠気との戦い、しかしまだまだ自分は首都圏を脱出していない。
暫定到着地点の知多半島まではかなりの距離がある、気合を入れて本線に合流する。小田厚バイパスはスピード取り締まりが頻繁に行われているだけあって、皆飛ぱしまくっている。渋滞の箱根湯本を横目におなじみ箱根新道へ、ハイペースで箱根の山を越える。
AM10:00。ひたすら西進、藤枝・掛川・磐田・浜名バイパスを通過、愛知県に入るここで2度目の給油7.7㍑。とりあえず今日は移動日として丸一日を費やすので何処にも寄らず、一気に豊川・豊橋・・・・と走り蒲郡市内の蕎麦屋で昼飯をとる。碧南市と知多半島の根本にある半田市をむすぷ衣浦トンネルをわずか20秒強で通過、陽も少し傾き始めた、PM2;00。南知多道路を南下する。
今日の宿探しの拠点に決めた内海に到着したのはPM4:00。走行距離400㌔。片道としては今までで最長である。宿はバイクで2分くらいの所にあり出迎えてくれたお婆さんが親切に駐車場まで案内してくれた。一番フロにはいり、夕ゴハンを頂く、かっこつけて野宿なんかしなくてよかった…と思う第一日目であった。
4時10分、部屋を出る。エンジンに火を入れる、オイルパン辺りからのオイル漏れもなく、快調である。
アイドリングが落ち着いてきたところで、単車に跨がりギヤを入れる。
AM7:00小田原厚木道路の厚木.C.で朝食(コンビニの握り飯とウーロン茶)、バイクにも今日最初の給油9.8㍑。胃に食べ物が入ったせいか、少し眠くなってきた。ここから昼飯どきまでが眠気との戦い、しかしまだまだ自分は首都圏を脱出していない。
暫定到着地点の知多半島まではかなりの距離がある、気合を入れて本線に合流する。小田厚バイパスはスピード取り締まりが頻繁に行われているだけあって、皆飛ぱしまくっている。渋滞の箱根湯本を横目におなじみ箱根新道へ、ハイペースで箱根の山を越える。
AM10:00。ひたすら西進、藤枝・掛川・磐田・浜名バイパスを通過、愛知県に入るここで2度目の給油7.7㍑。とりあえず今日は移動日として丸一日を費やすので何処にも寄らず、一気に豊川・豊橋・・・・と走り蒲郡市内の蕎麦屋で昼飯をとる。碧南市と知多半島の根本にある半田市をむすぷ衣浦トンネルをわずか20秒強で通過、陽も少し傾き始めた、PM2;00。南知多道路を南下する。
今日の宿探しの拠点に決めた内海に到着したのはPM4:00。走行距離400㌔。片道としては今までで最長である。宿はバイクで2分くらいの所にあり出迎えてくれたお婆さんが親切に駐車場まで案内してくれた。一番フロにはいり、夕ゴハンを頂く、かっこつけて野宿なんかしなくてよかった…と思う第一日目であった。

内海町~和歌山県南島町
◎5月3日(日)第2目目
目が冷めたのは朝の7時、タベは良く眠った。荷物をバィクに括り付け宿を後にする、5月だというのに肌寒い風が港を渡って吹いてくる、人気のない漁村に犬が一匹、太陽がやけに眩しい、旅情を感じる一瞬である。
AM9:00、鳥羽港に渡るフェリー乗り場がなかなかみつからず焦る。しかも時刻表を持ち合わせていないので、いつ出航するのかも知らない、やっと見つけ駐車場入口にある時刻表を見てまたまた焦ってしまった、ななんとあと10分で出発!!
快晴だが海風が冷たい、当然なのかもしれないが子供運れが多い。10時30分すぎ鳥羽港着、子供の頃に家族旅行で連れてってもらって以来の鳥羽である。R260を南下する。全線\930とちょっと高めだがまあまあ走り応えのあるパールロードを通過。
PM2:00南島町に到着、しかし観光協会らしきものはない。とりあえず近くの魚屋さんに訊ねてみると、なんとそこが民宿の斡旋をしているとのこと、お店の人に4軒も探してもらい何れも駄目、しかし諦めかけた5軒目にとうとう空き部屋を見つけてもらった!!!
宿に着いて大荷物を下ろし、タ食の時間まで近くの港で昼寝をすることにした。
目が冷めたのは朝の7時、タベは良く眠った。荷物をバィクに括り付け宿を後にする、5月だというのに肌寒い風が港を渡って吹いてくる、人気のない漁村に犬が一匹、太陽がやけに眩しい、旅情を感じる一瞬である。
AM9:00、鳥羽港に渡るフェリー乗り場がなかなかみつからず焦る。しかも時刻表を持ち合わせていないので、いつ出航するのかも知らない、やっと見つけ駐車場入口にある時刻表を見てまたまた焦ってしまった、ななんとあと10分で出発!!
快晴だが海風が冷たい、当然なのかもしれないが子供運れが多い。10時30分すぎ鳥羽港着、子供の頃に家族旅行で連れてってもらって以来の鳥羽である。R260を南下する。全線\930とちょっと高めだがまあまあ走り応えのあるパールロードを通過。
PM2:00南島町に到着、しかし観光協会らしきものはない。とりあえず近くの魚屋さんに訊ねてみると、なんとそこが民宿の斡旋をしているとのこと、お店の人に4軒も探してもらい何れも駄目、しかし諦めかけた5軒目にとうとう空き部屋を見つけてもらった!!!
宿に着いて大荷物を下ろし、タ食の時間まで近くの港で昼寝をすることにした。
南島町~太地YH~那智勝浦FP
◎5月3日(土)第3日目
朝、名古屋からボートに乗ってやってきたというお客の声で目が覚める身体の調子が余り良くない、しかし天気は相変わらず良い。
AM8:20、ガラガラのR260を快調に飛ぱす、この調子だと最初の目的地の熊野には昼前に着いてしまうだろう。R260のなかでも一番の難所といわれる、「錦峠」に入った。
AM10:30,R42と合流、この国道はやけに車のぺースが速い、軽トラだろうがカブだろーがビュンビュン飛ぱしている。その流れに乗って一時間、熊野に着いた。やはりYHは一人旅を奨励しているだけあってなんとすんなりOK。
次にフェリーの予約だ。奇数日に出航というのだけは分かっていたが、その日の何時になのかが分からない、YHで電話を借りて事務所に聞いてみることにした。出た相手は留守電で「出航はAM1:50、二等客室は9030円・…」等といっている。
1時50分?夜中の?と言うことは今夜出航じゃないか!!!さあ困った。暫く電語ボックスの中で考える。乗船券は時間外で買えない。YHをキャンセルするべきか、しかし勝浦の周りには時間を潰すところが無い、もしもフェリーに乗れなかったら…色々な不安が過る、しかし考えた末、取り合えずYHに戻って夕食だけ戴いてPM7:00まで居させてもらう、時間になったらタ食代だけ支払ってチェックアウトしてしまう、とにかくフェリーの切符を手に入れることを第一前提にして行動することにした。
PM7:20、ペアレントさんにお礼を言って闇の太地YHを後にする、ほかの泊り客は風呂からあがりミーティングに楽しそうだった。20分後、船着き場に到着、そこには既に2台のバイクが止まっている。さて、この人達は切符を持っているのだろうか。
夜9時を過ぎた頃、車に乗ってひとりの職員が来た。キャンセル待ちの受付をやるのか?と聞くと、10時半からカウンターで受付をするからそれまで待ってくれとだけ言って中に入ってしまった。
今のところ船は順調にこちらに向かっているというが、到着はAM2:00ちかくになってしまうだろう。
朝、名古屋からボートに乗ってやってきたというお客の声で目が覚める身体の調子が余り良くない、しかし天気は相変わらず良い。
AM8:20、ガラガラのR260を快調に飛ぱす、この調子だと最初の目的地の熊野には昼前に着いてしまうだろう。R260のなかでも一番の難所といわれる、「錦峠」に入った。
AM10:30,R42と合流、この国道はやけに車のぺースが速い、軽トラだろうがカブだろーがビュンビュン飛ぱしている。その流れに乗って一時間、熊野に着いた。やはりYHは一人旅を奨励しているだけあってなんとすんなりOK。
次にフェリーの予約だ。奇数日に出航というのだけは分かっていたが、その日の何時になのかが分からない、YHで電話を借りて事務所に聞いてみることにした。出た相手は留守電で「出航はAM1:50、二等客室は9030円・…」等といっている。
1時50分?夜中の?と言うことは今夜出航じゃないか!!!さあ困った。暫く電語ボックスの中で考える。乗船券は時間外で買えない。YHをキャンセルするべきか、しかし勝浦の周りには時間を潰すところが無い、もしもフェリーに乗れなかったら…色々な不安が過る、しかし考えた末、取り合えずYHに戻って夕食だけ戴いてPM7:00まで居させてもらう、時間になったらタ食代だけ支払ってチェックアウトしてしまう、とにかくフェリーの切符を手に入れることを第一前提にして行動することにした。
PM7:20、ペアレントさんにお礼を言って闇の太地YHを後にする、ほかの泊り客は風呂からあがりミーティングに楽しそうだった。20分後、船着き場に到着、そこには既に2台のバイクが止まっている。さて、この人達は切符を持っているのだろうか。
夜9時を過ぎた頃、車に乗ってひとりの職員が来た。キャンセル待ちの受付をやるのか?と聞くと、10時半からカウンターで受付をするからそれまで待ってくれとだけ言って中に入ってしまった。
今のところ船は順調にこちらに向かっているというが、到着はAM2:00ちかくになってしまうだろう。
那智勝浦FP
現在時刻PM11:00。
待っているあいだ、TS125の人とも話のネタが尽きてしまったので、他にもカウンター前でウロウロしているライダーと色々話をして時間を潰した。そして玄関口からカタンカタンと妙な音をさせながら、一人のライダーが入ってきた。そのいでたちに懐かしさを感じてしまった。
そう保土ヶ谷PAに通っていた頃、そこへ行くための礼服ともいえるバトルスーツ。
しかも、その姿を更に面妖にしているその音原、腰にぷら下げているナタ一丁と、右手にパーコレーター。
まるでキャンプ地からそのままでてきたような感じである、顔つきは本人が聞いたら怒るかもしれないが、城みちるが不精髭を生やし、日焼けしてすこし太った感じだ。(さて、この文草を読んでその人のイメージが大方掴めた人は偉い)口調は完全な関酉弁、しかもかなりの名物ライダーのようで、そこに居合わせているライダー達にあちこちで目撃されたそうである。
その格好からして、乗っているバイクはどでかい物であろうと予想Lたが案の定、Z1-SUPERFOURに乗っているとのこと、しかも見せてもらったらバリバリに改造してある。
フロントフォークはLTD250のを流用、セパレートハンドルとバックステップはメーカー不明、メーターも換えてある。エギゾーストマフラーはカーカーのメガホン、リアショックはフォルナレスのエアサス、スイングアームは、なんと前のオーナーがサンデードラッガーだったとの事でロングタイプ、しかもそのショックのマウントが3段階にレイダウン調整出来るという。おまけにウイリーバーまで付いていたがこればかりは車検に通らないので切断したそうである。
しかし、これだけ改造してあるにも係わらず、よくナンバーがとれたなと思い、それを聞いてみると、そのZ1はアメリカから個人輸入して手に入れたものだそうで、このカリカリチューンのまんま状態で型式登録してしまったという、逆輸入車ならではの裏技である。
自分もこの時既にZ1を買う事を決めていたので話が合い、ああでもないこうでもないと、いいとこ悪いとこ色々な事を聞かせてもらった。しまいにはそのZ1に跨がらせてもらい「うむ、その足の着き具合なら、自分Z1のっても0Kや」と、現Z1オーナーから0Kを出してもらった。
フェリーがあと一時間くらいで勝浦に到着するという場内アナウンスと同時だったろうか。受け付けの窓から職員のオッサンが「今からキャンセル待ちの人の受け付けを開始します。先ほどお渡しした紙を持って窓口に並んでください」
神の声である。どうやら五体満足で千葉に帰れそうである、あの紙も紙くずにならずにすんだ。緊張がほぐれ一気に眠くなった。
予約を取った人達はとっくに上の階の仮眠室で眠りに入ってしまっている。ようやく切符を手にした我々は、乗船券を受け取ってバイクに括り付け、船内で必要になる物と、そうでない物とを選り分け、仮眠室の横の空いた食堂でてんぷら蕎麦を流し込んだ。
やがて定刻よりも一時間遅れで、『さんふらわあとさ』は勝浦の港に到着した。
轟音と重油の匂いが充満する車両甲板に相方ZEP400を固定してもらい、キップに書かれた部屋にむかう。当然、貧乏旅行者の象徴である我々ライダーは(グリーン特等を占拠した一部のハーレーおやじ軍団を除く)二等船室なので広い部屋で雑魚寝である。
だが夜の国道で行き倒れになってたかもしれないのに比べて、ここは余りにも快適過ぎた。
自分の枕と毛布を確保して横になる、しかし神経が変に高ぷっていてなかなか眠れない。他のライダー達は今までの旅の内容が良かったのだろう、毛布にくるまりウイスキーを飲みながら自分たちが走ってきた道のりを辿るように談笑していた。今の自分には、宿探しの話しかない。周りの人たちが寝息を立て始め、フェリーが外海に出たらしく少し揺れるようになったそのころ、自分の記憶はそこでなくなった。
待っているあいだ、TS125の人とも話のネタが尽きてしまったので、他にもカウンター前でウロウロしているライダーと色々話をして時間を潰した。そして玄関口からカタンカタンと妙な音をさせながら、一人のライダーが入ってきた。そのいでたちに懐かしさを感じてしまった。
そう保土ヶ谷PAに通っていた頃、そこへ行くための礼服ともいえるバトルスーツ。
しかも、その姿を更に面妖にしているその音原、腰にぷら下げているナタ一丁と、右手にパーコレーター。
まるでキャンプ地からそのままでてきたような感じである、顔つきは本人が聞いたら怒るかもしれないが、城みちるが不精髭を生やし、日焼けしてすこし太った感じだ。(さて、この文草を読んでその人のイメージが大方掴めた人は偉い)口調は完全な関酉弁、しかもかなりの名物ライダーのようで、そこに居合わせているライダー達にあちこちで目撃されたそうである。
その格好からして、乗っているバイクはどでかい物であろうと予想Lたが案の定、Z1-SUPERFOURに乗っているとのこと、しかも見せてもらったらバリバリに改造してある。
フロントフォークはLTD250のを流用、セパレートハンドルとバックステップはメーカー不明、メーターも換えてある。エギゾーストマフラーはカーカーのメガホン、リアショックはフォルナレスのエアサス、スイングアームは、なんと前のオーナーがサンデードラッガーだったとの事でロングタイプ、しかもそのショックのマウントが3段階にレイダウン調整出来るという。おまけにウイリーバーまで付いていたがこればかりは車検に通らないので切断したそうである。
しかし、これだけ改造してあるにも係わらず、よくナンバーがとれたなと思い、それを聞いてみると、そのZ1はアメリカから個人輸入して手に入れたものだそうで、このカリカリチューンのまんま状態で型式登録してしまったという、逆輸入車ならではの裏技である。
自分もこの時既にZ1を買う事を決めていたので話が合い、ああでもないこうでもないと、いいとこ悪いとこ色々な事を聞かせてもらった。しまいにはそのZ1に跨がらせてもらい「うむ、その足の着き具合なら、自分Z1のっても0Kや」と、現Z1オーナーから0Kを出してもらった。
フェリーがあと一時間くらいで勝浦に到着するという場内アナウンスと同時だったろうか。受け付けの窓から職員のオッサンが「今からキャンセル待ちの人の受け付けを開始します。先ほどお渡しした紙を持って窓口に並んでください」
神の声である。どうやら五体満足で千葉に帰れそうである、あの紙も紙くずにならずにすんだ。緊張がほぐれ一気に眠くなった。
予約を取った人達はとっくに上の階の仮眠室で眠りに入ってしまっている。ようやく切符を手にした我々は、乗船券を受け取ってバイクに括り付け、船内で必要になる物と、そうでない物とを選り分け、仮眠室の横の空いた食堂でてんぷら蕎麦を流し込んだ。
やがて定刻よりも一時間遅れで、『さんふらわあとさ』は勝浦の港に到着した。
轟音と重油の匂いが充満する車両甲板に相方ZEP400を固定してもらい、キップに書かれた部屋にむかう。当然、貧乏旅行者の象徴である我々ライダーは(グリーン特等を占拠した一部のハーレーおやじ軍団を除く)二等船室なので広い部屋で雑魚寝である。
だが夜の国道で行き倒れになってたかもしれないのに比べて、ここは余りにも快適過ぎた。
自分の枕と毛布を確保して横になる、しかし神経が変に高ぷっていてなかなか眠れない。他のライダー達は今までの旅の内容が良かったのだろう、毛布にくるまりウイスキーを飲みながら自分たちが走ってきた道のりを辿るように談笑していた。今の自分には、宿探しの話しかない。周りの人たちが寝息を立て始め、フェリーが外海に出たらしく少し揺れるようになったそのころ、自分の記憶はそこでなくなった。

今回の反省点 | ||||||||||||
さて自分は五日の『子供の日』の夕方4時に無事に帰宅することが出来た。今までも何回か泊まりがけのツーリングはしているが、今回は別の意味でで非常に重要な経験をしたと思っている。纏めてみると以下のようになった。
それは、この休みの期間をはっきり知ったのは4月の半ぱ、これでは五月運休の宿が取れるわけがない。キャンプ用品を買う暇もなかった。宿のことでその日のスケジュールが左右されてしまうと、日数の限られている我々の旅は、焦るだけの全く面白くない物になってしまう。貴重な休暇、そんなつまらん事でフイにしてしまってはたまらない、こんなことは二度と御免である。 だが、散々な自分の醜態とは裏腹に泊まり先では、必ず降られていた雨に今回は一滴も会わなかったと言う事が、助けとなったのも、この旅行を特別なものに位置づけてくれる要素となった。 あの日本一の年間降水量を記録する尾鷲も、どピーカンだったのだから・・・・・・ さて、悪夢のような(大袈裟か…)宿探し、神様に見えた民宿の方々、大失敗ではなかったかもしれないが、自分としては旅情をひとかけらも満喫できず今回のツーリングが終わった。 そして、心は早くも夏の東北キャンプツーリングである、愛車ZEP400にとっても最後のロングツーリングになるかもしれないので、今回のしてバイクにとっても自分にとっても悔いの無い内容にするつもりである。しかし、何度も言うようだがツーリングは奥が深い。 まだまだやりたい事は山ほどある。これからいくつになっても事故、怪我をせず、日本中・世界中を走り廻り、普通の人よりも多く人生経験を積んでいきたいと思っている。 これから、ツーリングを始めようとしている人にアドバイスできる位の人間になりたい。そう思う今日この頃である。 平成四年五月五日・子供の日 この記事の関連画像はこちら。 |