私には、
姪で
夢見るこじかのまーちゃんが居ました。(^∇^)まーちゃんは、動物占いでは、
夢見るこじかでした。まーちゃんは、小六の終わりに急性骨髄性白血病にかかり、
(‐^▽^‐)大好きだったバスケットボールをドクターストップで
(T▽T;)出来なくなり、
治療に専念する事になりました。まだ小学生でしたから友達とはしゃぎ廻りたい年頃です。
しかし、怪我をしては、いけないからと体育の時間は、見学をし
水泳も体力を奪うからご法度…。
今まで当たり前だった事が、突然、
禁止せれて月二回は、大学病院での
診察、治療。
薬づけの毎日でした。小さい頃のまーちゃんは、元気そのもので、病気と
いうと風邪くらいでした。
それが、突然、大きな病気になってしまった事が、当時、
叔母である私も
信じられませんでした。治療には、大人だって弱音を吐くとドクターが言ってました。
それを子供のまーちゃんは、(>_<)必死に堪えていたのです。
勿論、母親である私の姉も必死でした。
我が娘の病気に最初は、放心状態でしたが、母は強しですね、
「まーちゃんとお母さんも病気と戦うから一緒に頑張ろうね。」と
共戦を親子で誓ったのでした。
しかし、反対に父親は、そんな時は、ダメみたいです。娘が
大変な時なのに
おろおろするだでけした。まだどうなるか
分からないのに落ち込むだけで、頼りないものでした。
中学に入学する頃、治療の為、髪が抜けて
いましたので、かつらを着用していました。
それをからかわれ、いじめのターゲットにされいました。
姉が担任にそのことを相談に行くと、
「いじめに遭う方にも原因があるんですよ。」と平気な顔で
云ったそうです。
その言葉に「まーちゃんは、病気で髪が抜け落ちてるんですよ。
あの子は、自分が好き好んで病気になったんじゃないです。」
と姉は、母親としてこんな分からずやの担任に相当腹立たしい
思いでいっぱいだったそうです。
まーちゃんが、学校に行きたくないと不登校になりかけた事も
有りましたが、なんとか母子で乗り越えたのでした。
発病から数年経った頃、骨髄バンクに登録していたので
ドナーの方が現れ(^∇^)移植を受けることが出来ました。
それかは、再発防止を兼ね、相変わらず大学病院には、
定期的に通院してました。
少しずつ元気になって行きましたが、顔色は、あまり良くは、
なかったです。
体育の授業は、o(_ _*)o受けられないままでした。
高校を卒業してコンピューターの専門学校に進学しました。(*⌒∇⌒*)将来は、パソコンのインストラクターになりたいと夢を
膨らませていたのです。
しかし、入学して二回程しか、授業を受けることがない
まま体調を崩し、再び大学病院に受診すると…
定期的な治療があと1回かで終わるという時になって
今度は、コバルト治療の副作用で、肺の機能が低下してゆき
酸素ボンベを必ず使用しないといけなくなりました。
体力は次第に、今までより落ちて行き、一人でトイレすら
行けない状態になっていきました。
最後には、まーちゃんの肺は、萎縮してゆき、肺移植の
ドナー登録を済ませ、待っている状態のまま還らぬ人に…
平成二十年十月二七日 享年 十九歳
十二月には、二十歳に成り、次の年は、成人式だったのです。
折しも数年前の十月には、父親が亡くなっていましたから
きっと、父親が可愛い娘を迎えに来たんだろうと皆、口々に
話していました。
まーちゃんは、生前、母親に「私が、病気でよった。お母さん
じゃなくてよかった。」と云っていたと姉から聞きました。
母親に怨みごとひとつ言わなかった。と姉は云い
泣いていました。
幼い頃からわがままを言う娘じゃなかったし、
家庭の生活状況もよく分かっていて、
物分りすぎるくらいでした。
勉強も母親に強制せれてするんのでは無く、それに
お手伝いも自発的にしていたと叔母の私からみても
とってもいい娘でした。
パソコンも得意でした。私は、習っておきたかった…。
悲しみの葬儀には、小中高校の友人だけじゃなく保育園の時
のお友達が来れないからとお母さんが代わりに出席されたり、
高校三年の時の担任の男の先生が涙を流されていたり、
予定してた以上の方々が、まーちゃんの為に来てくださり
私は、あの娘が、誇らしかったです。
まだまだ、これからの人生、まーちゃんは、「やりたかった事
沢山ありすぎたんじゃないか?」と思うと不憫で成りません。
この世の中、自ら先急ぐ人が、いらっしゃいますが、まーちゃん
の様に生きたくても生きることの出来なかった人も沢山いらっ
しゃいます。
この世に生を授けた以上は、なんらかの使命が、どんな人に
も有ると思います。
無駄な命は、ひとつもないはずです。
私は、今を一日一日大切に生きて
まーちゃんの分も精一杯生きて行こうと思っています。
今夜は、このへんで
おやすみなさい。