再放送:責任って!?
毎度の事ながら、いつも聞かせていただいているブロガーの投稿文、
自分自身に由っって立つ
を聞いた。
なーるほど。
責任って、責めを負うとか、責任を取るってことだけではないんですねぇ?
Responsibility=Response Ability つまり対応できる能力。
この対応できる能力を高めていけばいいんですねぇ?
確かに、毎日の生活(会社&家庭)においても、常に攻める攻められるを気にしすぎて、自ら相手も含めた可能性の境界線をどんどん狭いものにして行ってるんですねぇ?
「こうしたら、相手はこう思うから、こうしなきゃぁ。あーー、失敗した。どうしよう、こんなことじゃーいけんなぁ。ガックシ。」
「相手はこうしているから、こう思っているんだ。だったらこうしなきゃぁ。でも相手はこんな事をした。なんでこんな事をするんだ。プンプン。」
確かに、相手のことを考えながら行動することは大切だけれど、肝心なのは、自分の行動や、相手の行動に対して、「対応できる能力」を高めて行く事なんですねぇ?
けれど、それだけ自分自身、自由に生きてはなかなか行けないなぁ?
ただ思うのは、眼の前で起きている現象・考えは、長ーーい人生の中での一瞬なのだから、あまり気にしすぎず、常に前を向いて、
「相手も含めた自分のよりよい人生を想像して行くのには、どうすれば良いか?」
を考え、行動して行くのが肝心なんですよねぇ。
※ あれから1年・・・・・。
わしは視覚障害者ゆえに、相手の立場を考えて発言しなければいけないことが多いような気がする。
それは、何故か?
相手の表情が見えないからなんですねぇ。
ヒントとなるのは、相手の話し方、口調などなど。
「子の人は、いつもりより怒った口調だな。」
「今日は機嫌がよさそうだ。」
「この言い方からすると、わしが提出した報告書のどこかが間違っていたのかなぁ?」
などなど、全て相手の話し方から判断するしかないのである。
それ故に、眼が見えていた頃より、気兼ねなく会話をすることができなくなってきたような気がする。
つまり、とにかく相手の話し方を聞いてから、それで相手の思うところを判断し、それに応じて話すしかないのである。
これは、なかなか疲れるもんです。
もちろん、家族は違う・・・と言いたいところだが、家族だからこそ、皆の考えるところその時の様子でその時の気持ちがわかる故に、ちょっとした言動でわしの気持ちも左右されるものである。
その点、メールやブログなどで書く文章からは、なかなか相手の考えるところ、その時の気持ちなどを理解するのは難しいのかもしれないなぁ?
逆に言えば、わしがこのブログで書いている文章は、聞く人によってはわけのわからないように見えている(聞こえている)かもしれないなぁ?
けんど、文章だからこそ、自分の気持ちを素直にストレートな表現で書けるってとこもあるのかもですね。