車椅子歴60年
スーパーハイパーポジティブ車椅子おばあちゃんの
ルーツを探ってみました。
誤字脱字、読みにくい文章と思い込みや勝手な解釈
妄想、フィクションetcをどうかご勘弁ください。
養護学校の寄宿舎の部屋は真ん中が廊下で
その両脇に3人ずつのスペースがあります。
ベッドではなく車いすから移りやすい高さの畳敷きで
3人分の布団が敷ける広さです。
壁には備え付けの勉強机を兼ねたカウンターが
端から端までつながって有り、その上に荷物をおける棚が
数段設置されていました。
車いすを使わずに立てたり、歩けたりする子供の方が多かったので、そういう作りだったのだと思います。
今でしたら一般の学校へ通っているような子供たちです。
起床、点呼、清掃、朝食と毎日規則正しく生活していました。
寝坊とか、起きて食事もせずに登校するとか、
ずる休みをするとかはあり得ませんでしたので、今でもそういうことをするのは後ろめたい気持ちがぬぐえません。
私の娘について「可愛がられてはいるけれど、甘やかされてはいませんね」
と言われたことがあります。
おそらく知らず知らずのうちに、そういう団体行動のような感覚を娘たちに要求していたのかもしれません。
高校進学の進路相談が始まりました。
「高校どうする?」
「え、ここの高等部でしょ」
「○○君は普通の私立高校受験するらしいよ」
「そうなんだ…」
クラスの中で障害の軽い○○君は成績も悪くなかったし、
十分に普通高校でも大丈夫なんだろうなと羨ましく思っていたのです。
またまた始まりました。
「私も普通高校へいきたいなぁ」
「車いすじゃ無理かな」
「でも、やってみないとわからないよね」
そして、普通の小学校になじめず、ほとんど不登校だったことをすっかり忘れ、養護学校の中学校生活ですっかり自信を取り戻し天狗になっていた私は、またもや「普通高校に行きたい」と
受験を希望したのでした。
とは言っても、私立は経済的に難しく、自宅からの通学を考えると志望校は県立のかなりレベルの高い高校でした。
それでも、校長先生が直接その高校にお願いをしてくださり、見学に連れて行っていただき、受験が許可されました。
私はというと、例によって根拠のない自信満々でした。
受験勉強を頑張ることもなく、そのまま受験、もちろん試験問題を見たとたんにチンプンカンプンで撃沈です。
きっと両親は受からないだろうけれど、やってみれば気が済むだろうから的な考えだったのではないかと思います。その通りです。気が済みました。
そして、養護学校の高等部に見事合格し華のJKデビューとなったわけです。
寄宿舎生活は2年目に突入しました。
井上陽水や吉田拓郎などニューミュージックが全盛のころです。