車椅子歴60年 スーパーハイパーポジティブ車椅子おばあちゃんー6 | tatu-kuuのブログ

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車椅子歴60年 

スーパーハイパーポジティブ車椅子おばあちゃんの

ルーツを探ってみました。

誤字脱字、読みにくい文章と思い込みや勝手な解釈

妄想、フィクションetcをどうかご勘弁ください。

 

 

車椅子で自由に動けるようになった私は、

同じように障害を持った友達と素敵な先生たちに囲まれて
治療や訓練や勉強に楽しい毎日を過ごしていました。
水を得た魚のようだったと母が話してくれたことがあります。
母宛ての手紙にはいつも
「あれとこれとこれを買ってきてください」
と、欲しい物をただただ書き連ねていたようでした。

このころ、母は借家を改造して大衆食堂を始めていました。
30代になったばかりのはずです、今でいう「起業」ですね。

 

日曜日には私からの手紙に書いてある物を買いそろえて

必ず面会に来てくれました。
母は本当に頑張っていたと思います。
どうしてそんなに頑張れたのか、
もっともっと話を聞きたかったと悔やまれて仕方ありません。

さて、「私は勉強ができる方だ」と勘違い野郎の私は

調子に乗っていました。
障害の軽い友達は家に戻って普通の学校に通うことになり、
次々とゆうかり園を離れていきました。

「いいなぁ」
「私も家に戻りたいなぁ」
「普通の学校へ行きたいなぁ」
と思うようになりました。

そこでまた挑戦です。
担任の先生に
「家に帰って普通の学校に行きたいです」
と言ってみたのです。

さぁたいへん、母は中学1年生の兄と小学1年生の妹と大衆食堂の切り盛りと犬と父の世話に奮闘していましたが、
そこへ車椅子の私が帰ってくることになりました。
もし私が母だったら、どうにかしてもう少しゆうかり園にいてくれないかと、願ったのではないかと思います。

 

しかし、母は私の願い通り、私を地域の小学校に転校にさせてくれました。
父は木製のトイレの椅子を手作りしてくれました。
母が車椅子を押して通学し、授業中ずっと教室の後ろで待っていてくれました(毎日授業参観です)
たぶんそれが学校側の車いすの児童を受け入れる条件だったのだろうと思われます。
そして、地域の小学校へ通うという私の挑戦が始まったのです。
おとなしく、ゆうかり園にいればよかったのに。

けれども、私は普通の小学校にはなじめませんでした。
初めのころは何日か登校しましたが、午前中の授業が終わるころには「腰が痛い」と言って早退してしまい、そのうちに全く登校しなくなりました。

 

そんな私に母は「しょうがないよ、腰が痛いんだもんね」

と言ってくれました。
妹には「今日学校でプリント配るとき、お兄さんかお姉さんがいる人はてをあげてくださいって言われたけど、お姉ちゃん来てないから手をあげなかったよ」
と言われ、ちょっと可哀そうだな、ごめんねと心の中で謝ったりしていました

家では洗濯物をたたむ係と、お店で使う割り箸を袋に入れる仕事を手伝ったりしてのんきに過ごしていたような気がします。
今のように「不登校」などという意識もなく
母に「しょうがないよね」と笑顔で言われながら
「そうだよ、しょうがないよ」と悪びれることなく毎日同級生が届けてくれた、わら半紙に包まれた給食のコッペパンを「おいしくないな、いらないのに」とか思っていたのです。