盲腸ガンと戦った母の記録

盲腸ガンと戦った母の記録

平成28年11月、最愛の母に盲腸ガンが見つかりました。翌年5月に他界するまでの母の記録と娘の日常

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なかなか更新が進まない…(自分のせい)

 

 入院して治療を開始することになりましたが、母の場合、原発が盲腸だけど、治療としては大腸がんの治療方針でいくこととなり、抗がん剤はFOLFOX療法となりました。

 これに遺伝子検査の結果次第で、アバスチンにするかアービタックスにするかを決める、とのことだったのですが、その結果が出るまで時間がかかるので、取り急ぎFOLFOXのみ投与することになりました。

 

 投与されてからも一向に熱は下がることもなく、母はしんどそうに寝ていました。入院したら退屈かもしれない、と本なども持っていっていましたが、本を読むどころかテレビを見るものしんどかったようです。

 

 ちなみにこの頃、午前中から父が病院に行き母に付き添い、私は仕事を終えた夕方に病院に行き、父と交代して病院にいられるギリギリの時間まで母に付き添っていました。

 食事もあまり欲しがらず、とりあえず腸にいいだろうと思って(発想が安易)取寄せたヤクルト400を飲んでいました。

 そんなある日の夜、しんどそうにしている母に

「どんな?」と聞いたら「しんどい」「もう無理」というので、おかしいな?と思っていた翌日の午前、勤務中の私の携帯に病院から電話がかかってきました。

 

「大事なお話があるので泌尿器科に来てもらいたいのですが、今から来れますか?」

 

 その内容に、私は動揺してしまい、泌尿器科ってどういうこと?なにごと?病院からの呼び出しってろくな話じゃないよね?と頭の中でぐるぐる思いながら、すぐ来てくれそうな義姉1号を召喚、2人で病院へ向かいました。

 

 泌尿器科で言われたことは、

 「転移したがんが膀胱をふさいでいて、排尿できなくなっており、水腎症になっている。尿管ステントを挿入しないと命にかかわるのだが、がんのふさぎ具合によってはステントが入らないかもしれないので、そうなった場合、排尿できなければあと2~3日の命になります」

 というものでした。

 

 家族からしてみれば青天の霹靂とはまさにこのこと、入院直後のCTでは膀胱をふさぐようなところに転移はみられなかったはず、入院してからまだ2週間程度なのに、どういうこと?

 腎臓に穴を明けて排尿させるには外科との相談となる、予後が予後だけに…みたいなことを泌尿器科の先生はそうおっしゃいました。

 予後ってどういうこと?ていうかステント入らなかったら2~3日て?

 

と突然突き付けられた命の仮期限に涙は止まらないし、頭が完全にパニックになりました。

 

 それでも方向性を決めなければいけないので、ステントのデメリットを一応聞いて、それでもそれをやらなければ死んでしまう、そんなことはさせらないので同意書を書き、その日の午後にステントを挿入する処置が行われました。

 幸い、まだがんが転移したてで比較的柔らかい??ためステントは挿入できるだろうという外科の主治医の見立て通り、ステントは挿入され、母一命をとりとめました。

 

 処置が始まる前、当時博多で単身赴任していた長兄と四国から次兄も来ました。

 そして主治医に、子宮辺りに転移したがんが瞬く間にこぶし大の大きさに成長して、それが膀胱をふさいでいた、思った以上にがんの進行が速い。熱が下がらなかったのも、がんが増殖していたからと予想され、FOLFOXをしたのはまだ1回だけだけど、あまり効き目がないかもしれないので、このまま容体が落ち着いたら分子標的薬を投与します、という説明を受けました。

 

 処置が済んだ母は穏やかな顔で横になっていました。

 その顔を見たら泣きそうになったけど、私は涙もろいのですが、母が病気なってから一番泣きたいのは母だろうから、私が泣いたら母が泣けなくなると思っていて、絶対泣かないと決めていました。だから我慢しながら、びっくりしたねと話しかけたら、母が「あんたも泣いてもええんよ」と言うので、なんとか笑ってごまかしました。

 

 その後、母の容体は落ち着いたので、2回目の抗がん剤が開始されることになりました。分子標的薬はアービタックスです。

これが一時的ですが、比較的よい結果を出してくれたのです。

 

 長くなったので今日はここまでにします。

11月の初めに盲腸ガンの診断を受けた母と私たち家族は、完治は望めないと言われたけど延命を望んでいたので、積極的に治療するため月曜日から入院することになりました。

月曜日に入院して、火曜日から抗がん剤開始、様子を見ながら治療してガンと共存して一日でも長く生きよう、その方針でいくことになりました。

しかしながら入院手続き後、すぐに行った体温測定では37°を超えていて、本人も回りも「え?そんな熱あるの?」と驚いたほど、母の様子は普段と変わりありませんでした。

この調子だと明日からの抗がん剤治療は延期になるかも、と告げられ、早くも暗雲立ち込める雰囲気に、10年前の肺癌治療の時とは様子が違うなと嫌な感じがしたのでした。

 

案の定熱は下がらず、37°後半~38°をいったりきたりしていました。火曜日からの治療は延期、発熱の原因は恐らく腫瘍熱だろうということで、対処療法しかなく、解熱剤を投与され、熱が下がるのを祈る日々が数日続いたころ、一度目の抗がん剤は元々分子標的薬無で行う(その間に遺伝子検査をして、遺伝子変異を調べる予定でした)予定だったので、下がりきってはいないけど、抗がん剤を開始しました。

ちなみに選ばれた抗がん剤はFOLFOX療法で、遺伝子の結果が出次第、分子標的薬を足すことになっていました。遺伝子検査に時間がかかるのは分かっていたとはいえ、早く結果が出て分子標的薬を投与出来たら、そう思っていました。

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3年前のことなので、忘れていることもあれば覚えてることもありますが、備忘録にもならんかもしれんな、と思いつつ書いています。

消化器内科から消化器外科へと移動となり、そこで詳細を聞くことになりました。

 

盲腸ガン ステージ4 多発性肝転移 腹膜播種

 

後の主治医は母に告げました。

「何もしなければ1年持ちません」

 

この言葉が相当ショックだったようで、母は涙目になっていました。

 

母に代わって聞いたところ、(詳しくはわかりませんが)大腸の入り口付近の便は水様便のため、腫瘍にひっかかって血便が出る、といういわゆる初期症状が出にくく、早期発見が比較的難しいのですが、それに加えて母の原発がんは盲腸だったため、尚の事初期症状が出にくかったため、発見が遅れたのだろう、と言われました。

ならば何のための定期検診だったのか、7月に肝臓に出来た嚢胞を詳しく調べようとはならなかったのはなぜなのか、今ならば消化器専門医に呼吸器の事を言っても返答に困るだけで明確な回答が変えてくるはずがないと思うのですが、この時は後の主治医にぶつけずにはいられないほど動揺していました。

 

とにかく一刻も早く治療に、ということで、診察が金曜日で土日は入院受付をしていない為、月曜日に入院、火曜日から抗がん剤治療を始めることになりました。

 

翌々日の日曜日、大叔母の3回忌で母と父と3人で参列しました。

その時に撮った私と母の2ショットの笑顔の写真が後に遺影となりました。

この頃はまだ持ち直せると希望を持っていたころでした。だから笑えていたのかもしれないです。

3月4日は母の誕生日でした。

 

母の病気の経緯を残しておこうと思って始めたブログでしたが、なかなか思うように書けないまま日々を過ごしていたら、あっという間に3年が過ぎていました。

 

生きていたら74歳になっていた母。

遺影の母は変わらず笑顔のままです。

私も父も、母のいない生活に慣れました。

3回忌も昨年無事に終え、次は7回忌。

これもあっという間なんだろうなと思います。

 

母が闘病していたころ、なんでもない日常を過ごせることのありがたみをひしひしと感じていました。日に日に悪くなる病状、先の見えない毎日、母を失うかもしれない恐怖心に苛まれていたころです。

今、その頃よりは落ち着いてはいますが、コロナウイルスとかいろいろと世の中は騒がしく、あまり明るい話題がありませんが、早く何でもない日常を取り戻せることを祈りつつ、手洗いとうがいにいそしみたいと思います。

 母は10年前に罹患した肺腺癌の定期検診を、3か月に一度受けていました。

 CTも撮っていました。ただそれは胸の辺りだけ。

 胃腸から下は撮影していませんでした。

 7月に定期検診に行った際、肝臓に膿瘍が見える、と言われエコー検査を行いました。この時の診断は良性のものだろう、という見解。腫瘍マーカーも上昇していなかったため、様子を見るということになりました。

 

 この時に、私もついていって、骨盤までのCTを撮ってくれ、とお願いすれば、早期発見できたのかもしれない。

 

 たらればしか出てきませんが、後悔はつきません。

 

 それからまた3か月後の検診で今度は腫瘍マーカーのCEAがとんでもない数字を叩き出しました。基準値が5以下なのに母は1000を超えていました。これは明らかにおかしい、でも医者はCTを数週間後に撮影する、などというので、そんなのは待っていられない、すぐに診てもらえ!と、母をかかりつけの町医者に行かせ、取り急ぎそこで胃カメラを飲みました。

 すると胃には異常なし。なので今度はCTが撮影できる病院を紹介してもらって撮影してもらいました。

 撮影の数日後、かかりつけ医から電話がかかり、早めに結果を聞きに来てくださいとのこと。いやな予感しかしません。

 母は仕事が終わってからすぐに向かいました。

 結果を聞くと、盲腸の辺りがおかしい、そうかかりつけ医は言いました。

 早めに診てもらったほうがいい、肺癌との兼ね合いもあるから今まで行っていた病院の消化器内科に紹介状を書くから、と言うので、紹介状を受け取るとすぐに行くことにしました。

 

 紹介状をもらった病院へは私もついていくこととし、時間が取れれば一緒に来てほしいと兄弟にも連絡しました。この時点で10月も終わりの頃。

 

 11月1日、対面した消化器内科の医師はまだ若く、父母私長兄次兄長兄嫁で行ったので圧倒されたのか、大腸の入り口にがんがあるというだけで、あとは外科の領域になるので外科に言ってくださいの一点張り。

 

 もともとせっかちな長兄は、医者がこの様子じゃ話にならない!と見切りをつけ、改めて今度は消化器外科医の診察を受けることになりました。

 

 それが11月4日。この日は兄たちが同席できないため、父母と私、長兄嫁で話を聞くことになりました。

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 がんは早期発見が大切、と言いますが、本当にそう思います。

この時の初動が遅れてしまったことが未だに心残りなのです。

 

 肺癌で定期的に経過観察してるから、意外とお母さんは長生きするよ、だってすぐに病気わかるじゃん、と言っていた自分が情けないです。

 今はあの定期検診はなんだったんだろう、 たくさんの患者を診る医者が大変なのはわかるけど、医者は神様じゃないと思っているけど、なんのために通っていたのか、他のがんを見つけられない経過観察ってなんなんだろう、そう思ってしまいます。