私の幼少期〜誕生から19歳まで〜 | 〜竜也と私〜元保育士美香の子育てブログ

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2024年6月5日に出産
双極性障害もちのハイリスク妊婦、妊娠後期には妊娠高血圧と妊娠糖尿病も発症⚡
慣れない育児に戸惑いもありますが、周囲の人たちに助けられて楽しく子育てに奮闘中!
この子が大きくなった時に、読んでもらえたらいいな
目標は毎日投稿✍


2度目まして☕

こんな時間(深夜1時)だけど、今しがた授乳と寝かしつけが終わって私だけ目がギンギンなのでさてブログでも書きますか✍🏻ってな感じでつらつらと綴っています。


さて、まずは私のこれまでの経歴などをざっとまとめて書かせてください。

私は三姉妹の長女として、1988年8月に千葉県で生まれました。

2歳ずつ歳の離れた妹がふたりいて、三姉妹とも名前には母の名前から1文字とって、“美”が入っています。

一番古い記憶は、まだ妹が誰も生まれていなかった2歳前くらいの頃でしょうか。

人見知りで人付き合いの得意でない母は、子育ての悩みを相談するママ友もおらず、散歩や買い物や公園へは決まって私とふたりきり。

公園も他のお子さんがたくさんいるような時間は避けていたのか、がらんとした他に誰もいない公園で遠目に母に見守られながら砂場でひとりで山を作って遊んだり、遊具に乗って遊んだりしていました。

その頃の写真をみると、私のワンショットの多いこと📸

よく言えば母子の強い結びつきを感じるけれど、逆にそれしかない。

妹たちが来てくれて一番嬉しかったのは私です。

初めて遊ぶ友達ができた!!可愛くて仕方なくて、アイスをスプーンですくって口まで運んであげたり、とにかくお世話を焼いてました(笑)


性格はとにかく人見知りが激しく、幼稚園にも年長の1年しか通っていません。

両親は2年保育を希望していたけれど、泣いてすがって家がいいと訴えたのは強く記憶に残っています。


そんな私が幼稚園に通うようになったきっかけは、4歳の頃引っ越して、近所に初めてできた友達でした。

昼間はその子が公園にいないことがさみしく、お昼を食べてまた公園に行くとやっと会えたその子にどこに行ってたの?と聞くと、帰ってきた言葉は幼稚園だよ👶🏻知らないの?

〇〇ちゃんがいるなら、私も幼稚園に行きたいな✨

と思った単純な私。

親に説得されて無理やり通わされそうになった時はあんなに怖くてイヤな場所に思えたのに、試しに見学に連れて行ってもらったらオレンジ色の恐竜の遊具があってキレイな場所で、すぐさま私ここがいい!✨って両親に言ったのを覚えています。


さくら3組 わたなべのりこせんせい

肩くらいの長さの髪をソバージュにしていて、美人でとっても優しくていい匂いがする、ピアノの上手な先生でした。

私が保育園の先生になろうと思ったのは、のりこせんせいとの思い出がたった1年だけど記憶にたくさんあって、どれも楽しかったことだったからです。


人見知りで集団生活で輪に入っていけない消極的な私を置いてけぼりにせず、遠足の列では先頭に連れてきてせんせいと手をつなぐ役割をくれました。

せんせいもやるから一緒にやろうよって言って、運動会の応援団も経験させてくれました。

赤白帽がなくなって泣いていた私を励まし、一緒し探してくれたこと。個人ロッカーの自分のお道具箱の裏側にあるのを見つけてくれたせんせい。

お誕生日の記念にはアンパンマンの帽子の中から好きなキャラクターを選んでかぶり、三輪車にまたがってせんせいとツーショットも撮ってもらいました📷

当時の将来の夢はお花屋さんでした💐

なれるといいねって笑ってくれたせんせい。


保育の道に進むと決めたのは高校2年の頃。

その時から今に至るまで、私の目標とするのはのりこせんせいです。

あとは実習で指導を担当していただき、その後その園で就職した縁で2年間一緒に働いた尊敬する先輩の真由美先生とみゆき先生。

実習で一目置いてくださり、ぜひうちの保育園で働きましょうと声をかけてくださったまりこ園長は恩人ですうさぎのぬいぐるみ


まりこ園長とは不思議なご縁で、その声かけをいただいた場所はなんと嵐の相葉雅紀くんのご両親が経営する中華料理屋さん!

専門学校の友人に櫻井くん、二宮くん、相葉くんの熱心なファンの子がいて予約してくれて食べに行ったら、なんとそこにまりこ園長がいたんです💡

ちなみに場所は幕張本郷です✨

ファンの間では有名だと思いますが、お店が気になった方は検索してみてください!


高校を卒業してから群馬の夜間の保育専門学校に進学するのに実家を離れるまで、私は千葉県で育ちました。

振り返っても誇れるような実績とかはないし、あるのは19歳の時ひとり暮らしをしていた町で突如雷に打たれる如く私に降りかかったパニック障害とうつ病という試練、そしてそこから治療を経て再び社会復帰や資格取得を目指しての再進学、卒業後就職してからは適応障害を発症…などなど、絶叫系アトラクション苦手だけど生き様は起伏の激しいジェットコースターのような私ガーン(笑) 

精神疾患との付き合いは、今年で15年目になります。


脚本家の野島伸司さんのつくる世界観が大好きで、詩集も3冊すべて持っているほどなのですが、その中の1篇に特に印象に残っている“賢者について”という詩がありますので、ここで引用してみます。


つよい人になりたいなんて
そんなバカな話はないさ
つよい人は鈍感なだけ
心のおけがザルなだけ
間抜けな義勇兵になりたいかい?
よわいままでいいんだよ
賢者はすべてよわむしなのさ


病気で実家に出戻り、お風呂やトイレもおっくうで一日中暗い気持ちで布団に横になることしかできなかった頃、心はいつも黒い波に襲われていてカーテン越しに見える昼間の明るさが大嫌いでした。

今日も何もできなかったという事実は変わらないけれど、うつ病の日内変動も手伝ってか夕方になると少し気分が和らぎ、みんなが寝る時間には布団にいても許される時間が来たんだって思いながら明け方まで時計とにらめっこする日々。

また朝が来た晴れ みんな仕事や学校という役割があって出かけていくのに、私はまた天井を見つめてばかり。

母が気を使って明るく声をかけてくれても、暗い顔で小さい声でしか返答できない私。

いつになったらこの暗いトンネル、ループから抜け出せるのだろう…抜け出せる日は来るのだろうか?

不安がいつもついてきていた。


そんな時に出会ったのが先に引用した詩です。

病気になった弱い自分とメンタルが強い人、折れない心を持つ人を比べては自分は劣っていると落ち込んだ日々。

青天霹靂とはまさにこのことで、無理に強くなる必要はないんだ!今の私のままでも生きていていいんだとこの詩をはじめて読んだ時涙が出たのは忘れられません。


忙しい日々で誰かに優しくできなくなっている気がしたときには決まって野島伸司さん脚本の薔薇のない花屋というドラマをみます。

2007年に月9で放送されたドラマで、当時録画していたビデオテープが擦り切れるほどみました。

それほど感銘を受けた様子を見て、数年後誕生日プレゼントにこのドラマのDVDボックスを母がプレゼントしてくれたんですおねがい

このドラマには、心に残るセリフがたくさんあります。

主人公の英治は、幼い娘雫とふたり暮らし。

雫を産んだ母は、出産に耐えられず亡くなります。

小学生の雫は、大きくなるにつれて自分がは母と似てきて、父ちゃんは雫の顔を見るたび母ちゃんを思い出してつらいのではないか…

そんな気持ちから、尊敬するパペットマペットを真似て頭巾をかぶって顔を隠すようになりました。


学校にまで頭巾をかぶって登校する娘を見て、英治もあの手この手で頭巾を外せないものかと頭を悩ませます。そんな背景があっての親子の会話です。


長いけどよかったら読んでください赤薔薇


(英治) 「北風と太陽」って童話知ってる?
(雫) うん、旅人のコートを北風がピューピュー吹いて
脱がそうとするんだけど、両手でがっちりつかまれて
だけど太陽のあったかい光で、旅人はコートを脱ぐの
太陽の勝ち
太陽さんおめでとう、よかったね
だけど本当に好きな人ができた時
太陽はかわいそうかもしれないよ
なんで?
北風は思いっきり抱きしめてあげられるけど
太陽はあんまり近づくとまっくろ焦げにしちゃうかもしれない
焦がしちゃうから
太陽はどんなに好きでも近づけないんだ
暖かいって言われるくらい、遠くにいなくちゃいけない
かわいそうだね
そうすることしかできないんだよ

雫のお母さんは身体が弱かった
お医者さまから、もしかしたら出産には耐えられないかもしれないって
そういうふうに言われてたらしい
俺はそのこと知らなかった
でもどうかな
知ってても止められなかったかもしれない
お母さんはそうすることしかできなかったんだよ
雫を抱きしめてあげられなかったとしても
どうしても産みたかったんだ
雫のことを焦がしてしまうぐらいなら、自分は近づけなくていいって
遠くから見守れればって

だからさ、雫が今は自分の顔を隠してたいって
そうすることしかできないんだとしたら、それも仕方ないかなって思うよ
だけど、雫が父ちゃんのことかわいそうだって思ってんだったら
それは違うよ
雫がいなかったら父ちゃんの人生は無意味だった
自分のことしか考えない
自分さえよければいい
自分のためには、自分のためだけには頑張れる
そんな人生無意味
本当に無意味…
それを教えてくれたのが、雫
父ちゃんは、雫をぶったりも大きな声で怒ったこともないね
一回も
父ちゃんは太陽みたいだ
(雫は頭巾を取って英治に抱きつく)
…そんなことない
焦がしたりしないから


子どもを出産してからはまだ見れてませんが、セリフを読んだだけで場面が浮かんできてうるうるします悲しい

今は亡き竹内結子さんが、出産後この作品で女優復帰なさったんですよハイハイ

ヒロインの盲目の女性、白戸美桜を演じています。


長くなりましたので、この記事ではここで一旦筆を止めましょう✍🏻


次回は私がパニック障害とうつ病を克服するまでの経緯を思い出しながら書いてみようと思います。

①初めてのパニック発作と、その後の予期不安について。

②ところ構わず起こるパニック発作で行ける場所がどんどんなくなり、買い物や学校にも行けなくなり引きこもったこと。死にたいという気持ちが芽生え怖くなり初めていのちの電話にも助けを求めた。

③専門学校を休学し、実家に帰ってからメンタルクリニックを受診するまで。恩人の笠原院長との出会い。

④抗うつ薬の飲み始めの副作用、効くまでの2週間から1ヶ月の期間は受診前よりもさらにつらく感じた暗黒の期間だったこと。


ここまで読んでくださり、ありがとうございました。