「墨子は、我が身をすり減らしてでも、天下を救おうとする。
このような振る舞いは君子のするべきことではない」『孟子』尽心上篇

諸説あるが、墨子に名はない。墨は大工や石工職人が用いる墨縄のことであるとされ、今日で言う建築土木の専門家であったとされる。名が知られていないのは、身分の低い奴隷階級の出身であったからであるとも入れ墨をいれられた罪人であったとからだとも伝えられている。また、墨家といわれる思想集団の長(棟梁)が墨子と呼ばれていたのであり、特定の人物のことではないとも言われている。つまりは、素性経歴が不明なのである。

中国の戦国時代に、孔子の出身国である魯で生まれたと伝えられているが、生年も死去の年も不明である。ただ、同時代の思想家であった孟子から、「墨子の思想は奴隷階級のものである」と批判されている。また民衆を指導して、武装化し、敵国の侵略に抵抗したことから、王侯の権威を重んじることを論理の基盤とする当時の思想家たちからは、革命家(支配階級を覆し、王権を危うくする自治自衛集団)として批判されている。

墨子、最初に孔子の流れを汲む儒家のもとで学ぶが、貴族に対する強いコンプレックスと序列と礼節を第一義とする儒教的な形式主義に矛盾を感じ、独立して各地を遊説する。

その思想は実践を重んじ、知識や教養によって構築された理論は、平和のためには役立ず、民衆の団結と技術の応用によって、敵国からの侵略を退けるという能動的なものである。しかし、墨子がその戦闘力を、侵略や支配の手段として用いることはなく、ただ専守防衛を旨とした。これは、その思想が、戦争を終わらせて平和な世を作ることを理想に掲げていたからである。

この考え方は、専守防衛による「非攻」と、王侯貴族や武力に頼らずに、階級差のない平等なコミュニティによる自治組織を基礎としていることから、「兼愛非攻」と呼ばれる。この「愛」とは、最終的には外交や交渉によって、王侯貴族に、戦争や略奪の愚かさを諭し、武力を放棄させて、和平協定を結ばせることを指しているが、本来は、人と人が争うこと無く、お互いを尊重しあうという意味でもある。

墨子は、君子の象徴である髪や髭を剃り落とし、麻を丸めただけの貫頭衣を身につけ、それを腰縄で縛っただけの姿だった。足は裸足で、日焼けと垢で「墨のように」黒かった。

墨家集団は、皆同じように墨子の姿を真似たので、不気味な集団であった。彼らは、食い詰めた浪人や乞食、儒家の落第生や戦災孤児などの身寄りのない者達であったが、墨子のもとで教えを学び、厳しい訓練を受け、各地で起こる紛争や侵略を阻止するために派遣される戦闘集団であった。

墨子の戦闘集団が、各国の正規軍と互角に戦えたのは、墨子の建築技術を応用した兵器があったからである。墨子は、各地の戦争で、何度も城と民衆を守りぬき、大国の軍勢を退けたが、生涯一度も恩賞や報酬を受取ることがなかった。王侯貴族と言えども同じ人であり、墨子が戦うのは、あくまで戦乱に苦しむ民衆の救済のためだという批判的な姿勢と平等思想が、支配者や儒学者に警戒されたことは想像に難くない。

墨子の弟子たちは、墨守と呼ばれる厳しい規律を己に課し、命に替えてそれを守ることを誇りとしていた。墨子の命令なら、命を惜しまず働き、また、勇敢に戦った。実際、敵国からの攻撃を受けた際には、多くの弟子たちが前線に立って命を落とした。名誉や恩賞のために戦う他国の兵士たちにとって、墨家と呼ばれる墨子の弟子たちと戦うことは恐怖ですらあった。

墨家集団には、給与は与えられず、食事すら粗末なものであった。彼らの棟梁である墨子には、領地や財産は無く、 墨子自身、粗まつな身なりで痩せ細っていた。この中国の思想史上において特異な集団は、秦の天下統一とともにその役割を終え歴史から姿を消す。戦乱の世に抗うことは、戦争に於ける技術を飛躍的に進歩させるとともに、極めて合理的で厳格な組織体系を形成した。

真に優れた思想は、社会や人々の生活の中に融解し消滅すると考えると、秦の強力な軍制や法令遵守による支配体系の中に吸収されたのかもしれない。墨子による「兼愛非攻」を提唱する闘争は、皮肉にも新しい支配と戦争を中国大陸に拡大させたとも言える。

しかし、いまから約2500年前、武力による侵略と奴隷制度が当たり前の世の中で、戦争の阻止と平等を訴えて戦い命を落としていった彼らの行為を非難することはできないだろう。儒教や仏教を始めとする多くの学問や宗教ですら、現代に至るまでなし得ることができない理想だったのだ。

墨子の最後とその墓は歴史には残っていないが、彼は死の間際に、弟子にこう言い残している。
「私が死んだら、葬儀は行わず、墓も作らず、荒野に亡骸を捨ててほしい」

墨子は言った。
「私の行いは、天の道であって、誰かに命じられたものではない。それ故、支配者から官位や金銭を受け取ることは道理に適わないのである。
私が敵にも義と愛を説くのは、彼らがいつ味方となり同じ道を選ぶかもしれないからだ。それ故、私の教えと技術を、支配や侵略のために用いてはならない。
私が弟子である君たちに厳しいのは、我々の信じる行いのみが、世に救いをもたらし、命を捨てるに値する倫(みち)であると信じているからだ。それ故、私が生きて名を残すことは間違いである」


中国諸子百家と史記から抜粋して、かなり勝手に解釈してありますが、こういう感じにしても、誰も不利益にはらないのではないかと思います。