40代のためのショート・ショートストーリー
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夜霧の向こう側

彼女はパソコンから目を離し、メタルティックな壁時計の針先を見上げた。時間の上では、新しい一日が始まったばかりだった。

自宅へと持ち帰り、食事もそこそこに取り組んできた企画資料作りもラビリンスへと迷い込んでしまった。気分転換でもしようとファイルをいったん保存してから立ち上がると、出窓のカーテンを引いた。普段は高層ビル群の赤い点滅灯とこんぺい糖をばら撒いたようなが夜景が広がっているはずなのに、乳白色のベールに覆われて何も見えない。そっと窓を開け放つと、たちまち冷気と共に青白い夜霧が音も無く部屋へと滑り込んできた。出窓から顔を出し、目を凝らして十一階下を見透かしていると、赤く滲んだ車のテールライトが断続的に通り過ぎてゆく。眠りについた街で、タイヤがアスファルトを滑る音だけが耳に届いた。車が途切れた今なら、木の葉に霧の雫が降り落ちる音さえも聞こえそうだった。街の雑音も、見苦しいゴミも今は総て霧にかき消され、地球創生期に立ち会っているかのような錯覚に陥りそうだった。

暫くぼうっとしていた彼女は、夢から覚めたように窓を閉めると、携帯電話を手にして、少しだけ逡巡してから短いメッセージを送った。この静寂と霧に包まれた神秘的時間を、遠く離れたところにいる彼と共有したい、例え起きてなくてもせめて今の気分の痕跡だけでも残そう、そう思った。

二人が離れて暮らすようになって、もう三年の年月が流れていた。彼無しには進められないプロジェクトが300km離れた地方都市で立ち上がった時彼女には、彼を引き止めるだけの我侭さと情熱をなくしていた。その代わりに、距離に負けないだけの絆と思い出を手にしていたし、会えない時間がある分、会っている時間を濃厚に過ごす術も二人は身につけていた。

今日のように感覚的に共感したいことがあると、近くにいないもどかしさを感じるけれど、それさえも三年という時間に、なだめられてしまっている自分が少し寂しかった。

五分だけ返事を待って、彼女はまた、思考の迷宮へと挑んでいった。

不意に鳴ったメール着信音が迷宮から彼女を引きずり出した。点滅する携帯電話を開きディスプレイを見ると、送信元は彼だった。

もどかしげにボタンを押し、メールを開く。スクロールするまでも無い短いセンテンスに目を走らせると、彼女は出窓のカーテンを開いた。マンションの真下から一本だけ、ビームライトが夜霧を裂いて伸びていた。彼女が部屋から見下ろしているのが分ったのか、ライトがパッシングを繰り返した。彼女も部屋の明かりのスイッチをオン・オフし、それに応えた。

セルモーターの回る音がした。そして聞き覚えのある単気筒バイク特有の排気音が奏でられ始め、ビームライトがゆっくりと旋回し、エントランスの方へと向かっていった。彼女は出窓を閉めるとドレッサーに走り寄り、手早くブラッシングをすると散らかったデスクの周りを片付けた。遠慮がちに短く鳴らされたチャイムを聞きながら腕時計を見る。さっきメールを送ってからまだ二時間半しか経っていない。ドアのロックをはずすと軽く腕を組み、ちょっと唇と突き出しながら

「300kmを法定速度で走り切るには、ちょっと早過ぎるんじゃない」

そう揶揄する彼女の台詞を、彼は靴も脱がないまま、唇で封じ込めた。

線香花火

「岩村さんも浜に行って来たら?後の片付けはやっておくから」

そう言う美子が手にしているバケツには、花火の燃えさしがいっぱい突っ込まれていて、中の水が赤く染まっていた。

「須田さんこそ行っておいでよ」

良次の手には空っぽになった花火セットの袋がいくつも握られている。

「遠慮しとく。もう海に行ってはしゃぐ歳じゃないもの」

「まだ一度も海に行ってないんじゃないの」

「えぇ。でも、日焼けなんかしたら後が大変だから」

「昔は夏に日焼けすると、冬に風邪引かないって言われなかった?」

「言ってた言ってた。なんだったんだろうね、あれって」

美子が笑いながら同調した。

創業の古さだけが自慢の薬品会社だった。これも伝統のうちなのか、いまだに契約している海の家を兼ねた民宿に、毎年組合主催で海水浴に出かけるのが恒例となっていた。二人とも入社したての頃は毎年参加していたが、ここ二十年位はすっかりご無沙汰だった。それが今回また参加することになったのは、職場の組合代議員を押し付けられたからだった。美子は入社以来経理畑一筋で、気がつけば部内最古参の平社員になっていた。良次もまた、似たような経歴で、社内方針による三年間の営業マン生活を東北で経験した後、在庫管理部門に移され、そこで主任になったまま十年が過ぎようとしていた。そして二人とも、無垢のまま独身生活を続けている。

「バブルの頃は、ヨットやクルーザーが沖にいっぱい泊まっていたっけなぁ」

民宿の庭先から月明かりがきらめく海を見詰めながら良次がつぶやくと

「夜通し船から打ち上げ花火を上げてたわよね。うちの会社は見てるばかりで関係なかったけど」

美子もバケツを置いて海に目を向けた。

「そうだ、線香花火が残ってるんだけど、やる?」

思い出したように良次が手にした線香花火を、美子の顔の前でぶらぶらさせた。二人はしゃがみ込むと、美子が手にした線香花火に、良次が手で風除けを作りながら火をつけた。「線香花火ってわたしみたいだな。最後まで残されて、結局皆に忘れられちゃう」

ライターで点けた炎が消え、小さな火の玉が出来上がってくるのを見詰めながら美子がポツリとつぶやいた。やがて玉は大きくなって、パチパチと健気な火の粉を振りまいて、精一杯はじけ始めた。美子の横顔を線香花火の煌きがオレンジ色に染めた時、良次は初めて彼女が透き通るような白い肌の持ち主だということに気付いた。

「子供の頃から線香花火は最後まで取っておいた」

良次は高鳴る胸の鼓動に喘ぎながら、囁いた。

「どうして?」

「大好きなんだ、線香花火。今もね」

美子が顔を上げた時、火の玉が一揺れしてぽとりと落ちた。

暗くなった庭で二人の影がゆっくりと重なっていった。

織姫

史郎にとって、丁度父親ぐらいの歳のその男性は、井桁模様の麻の浴衣を粋に着こなし、きちんと刈り込まれた白髪にカンカン帽を載せていた。背筋を伸ばし、口の両端をへの字に曲げて救護室に入ってきた。

町内は七夕祭り最後の宵で、歩行者の渋滞が出来るほどごった返していた。それに伴い、救護室も迷子の問い合わせや人あたりで具合を悪くした人でいっぱいだった。

史郎は入り口で佇む老人に向かって声を掛けた。

「どうかなさいました?」

老人はうむと大きくうなずくと、史郎の前のパイプ椅子にどっこらしょと座ると

「連れ合いが迷子になりましてな、いや、子ではないんだが」

さも困ったように顔をしかめた。

「そうですか。お連れあいのお名前はなんとおっしゃいますか?」

「笹竹織江です。笹だんごの笹に竹の子の竹、織姫の織に江戸の江です」

「織江さんですね。じゃあ早速会場放送で呼び出しましょう」

史郎がメモを持って立ち去ろうとすると老人は史郎のTシャツの袖を引っ張った。

「家内は矢絣の小袖を着てましてな、なかなかこう、あだな姿でして」

「はぁ」

史郎は気のない返事をしながらも座り直すとメモにカタカナで“ヤガスリ”“コソデ”と書き足し

「お名前が笹竹織江さんでヤガスリのコソデをお召し、と。これでいいですね。どこでお待ちになります?ここでいいですか?」

そう尋ねると老人はうなずいて

「ちょっと目を離すとすぐにいなくなっちまうんだ。本人は気づかんかも知れんので、見かけた人は知らせてくださいと言ってくれませんか」

と言った。ははぁ、織江さんは認知症なのかと史郎は合点がいき

「ご心配ですね、すぐに呼び出します」

と告げると老人はよろしくと頭を下げた。

二度三度織江さんを呼び出す放送が流れたがそれらしい反応はなかった。

ひっきりなしにやってくる新たな迷子探しも次々に入れ替わっていったが、一時間が過ぎても、老人だけは救護室の隅で背筋を伸ばして座っていた。

史郎は気になって、会場をパトロールしているメンバー全員に無線で織江さんの特徴を告げた。するとすぐにパトロールリーダーの商店会幹部から返答があった。

「その連れ合いのじいさんて、角刈りにカンカン帽かぶってないか、どうぞ」

「そうです、その通りです、どうぞ」

「了解。そのじいさんにお茶でも出して、そのままそっとしといてください、どうぞ」

怪訝な沈黙をする史郎にリーダーは応えた。

「シロちゃん、救護室担当すんの初めてだろ?そのじいさんな、織江ちゃん探しに毎年来るんだよ。ボケてるわけじゃないんだ。出来すぎかもしれねえけどさ、じいさんの名前、彦次郎って言うらしい。誰かがつけた渾名かもな、どうぞ」

外の人通りを見つめ続ける老人に愛おしさを感じながら、了解、と返事をして無線機を切ると、史郎は冷やしたペットボトルのお茶を持って、老人に近づいていった。
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