久しぶりにブログを書きたいと思います。

最近Abemaprimeで「反出生主義」についてやっていましたのでそれについて書きます。

Abemaprimeでは「反出生主義」に関しては明確な定義はないとのことですが、下記にまとめられるということで、

 

①すべての人間は生まれるべきではない(誕生の否定)

②すべての人間は子供を産むべきではない(出産の否定)

 

と、なっていました。

しかし、話を聞いてまず、私は「反出生主義」者ではないと思いました。

しかも彼らは、この世界を勝手に定義・解釈して不幸になっているようにも思えたので、それについての反論を書きたいと思います。

 

彼らの主張をざっくりまとめると、

「人生には明らかに幸福より苦難の方が多い。つまり、生まれてこなければ不幸は生まれないので、人間は生まれてくるべきではない。」

といったところかと思います。

確かに、前半の「人生は苦である」という論点については、人によって異なるかもですが、ブッタなども言っている通り、そうだなと思える部分はあると思います。

しかし後半での、「生まれてこなければ「無」だから不幸にはならない。」との主張については、

これは「人間の無知な頭で勝手に世界を決めるなよ!」と反論してしまいたくなってしまいます。

 

つまり、生まれてこなければ絶対に「無」だと言えるのでしょうか?

もしそうであれば、その確固たる証拠を提示すべきだと思います。

その証拠を提示できない限り、それは単なる感想ではないでしょうか。

 

脱線しますが、私が知りたいテーマに「魂の個数」というのがあります。

この世の中に魂は存在するのでしょうか?

その場合いくつ存在するのでしょうか?

東洋には昔から「輪廻転生」という考え方があるとされています。

しかし、その考え方も宗教的であり、確固たる証拠をもった回答はないかと思います。

 

そして、宇宙には量子力学や多次元論等、様々な考え方があります。

しかし、生まれてこなかったら「無」ということが本当に言えるでしょうか?

人間は人間にしか生まれないのでしょうか。

そう信じたい気持ちはわからないではないですが、それを証明できなければ、

やはり、単なる個人の感想でしかないようにも思えます。

私は、この解釈については、人間の傲慢さを感じてなりません。

 

仮にもし、「魂」なるものが存在していた場合、生まれてくる人間の「器」が一つ減ったらどうなるでしょうか。

その「魂」が入る人間の「器」が生まれず、別の生物として、「熊」に生まれてしまう可能性だってあると思います。

そしてその「熊」は「熊胆汁」を取るために生きたまま針を刺されて、痛みに耐えながら生涯殺されることもなく生きなければならないかもしれません。

確かに、「反出生主義」の前提①が達成され、すべての人間がいなくなれば、胆汁をとられることはなくなるので、苦痛は減るかもしれません。

しかし、世界の設定が残念ながらそうなっており、熊に生まれてしまった場合は、人間に生まれるより苦痛が多く、不幸ではないでしょうか。

 

反論をまとめると、「人間」に生まれなかったことをもって、「無」になる、という証拠はどこにあるのでしょう。

むしろ、現代の日本に生まれるということ自体が、非常にラッキーなことだと思います。

日本では底辺だったとしても、衣食住は満たされ、世界的にみたら幸福な生活をしているかもしれません。

人間視野が狭くなると、勝手に不幸になってしまうような気がします。

 

私は前向きに生きていきたいと思います。