『チュートリアル』

 

「パワーアップ」とかゲームの世界みたいな言い方でもなく、大学生のレクチャーとつぎのチュートリアルの間のマックを手のひらで押し下ろしながら不意に吐き出すちょっとした気軽な一言ほどでもない。どうでもいい雑談か変わらないか、これまでの人生に於いてもっともクレイジーなこと。決してやらされたわけでもない、踏み出そうとした刹那。フォースイヤー、どれほど踏ん張っていたかは語るまでもあるまいが、内在にする反抗的な細胞たちを辛うじて抗えなくなった。当然別にやらされたわけないが、少しだけでも誰かに見つけてもらいたいと必死に考えていて気が狂いそうだった。そのときは、仕事の本質を見透かしているような自過剰な感覚を持っていろいろと冒険してみようと心のどこかに決心を決めたとき。

 

おそらく二十何枚の原稿のなかで、選ばれたのはーー

(以下転載)

 

香港人が見た日本 

 

 香港の人たちが日本語で書いた作文をお届けするこのコーナー。今回は、香港大学日本研究科の四年生つね・ホーさんです。コロナ禍は文学の世界を通して日本旅行をしていました。

  

その六十九

香港人が見た日本     

         

「銅鑼湾の神保町」

 

 銅鑼湾駅から徒歩三分、あの立派なガラス張りのアップルストアの向こう側に、目立たない小さな露店通りがあります。かつては賑わっていたが、ネオンライトが毎晩欠かさずに煌めくこの大都会に見捨てられたように、今は古めかしい雑居ビルと淋しさだけが残されています。

 

 その路地裏に佇むビルには、私が香港で出会った日本、「写楽堂(しゃらくどう)」という日本語の古本屋があります。薄暗い蛍光灯に照らされているこの古本屋は、幼い頃から日本に憧れていた私が大学生になってから見つけた楽園です。街の喧鬧から逃げ込み、細長い店内で天井までぎっしり詰まった日本語の古本たちに囲まれ、訪れてくる日本人をさりげなく盗み見すると、神保町の古本屋にいるような気分が味わえます。

 

 コロナ禍で海外旅行できなかったここ数年、私は常に本を読みながら空想の世界で旅行していました。抽象的な文学世界にどっぷり浸り、多忙な日々に一時停止ボタンを押すように一人の時間を楽しみます。あるときは横光利一が描いた『機械』で、複雑な文体に惑わされながら、薄暗い工場で働かせられる職人たちのもどかしい気持ちを感じ、時代を遡って昭和初期にタイムスリップしたような気分になります。またあるときは今村夏子の『ピクニック』で、新感覚派とは真逆の鮮やかな世界に入り込み、仕事のために一人で上京した主人公の何気ない生活を覗き、夢見ていた日本の暮らしを妄想させてくれたり、大学卒業後の進路に悩む自分を奮い立たせてくれたりします。本を読むたびに、私は作家たちの独特な感性が帯びた精緻な描写に惹きつけられるだけでなく、文学を通じてそれぞれ書き下ろした「日本」へと旅行したような気がします。

 

というのも、大した冒険ではなかった。

それよりも、いちばんおおきな冒険とは、プロフィール写真をふざけてみた。そうじゃないと、退屈だから。文学というのは、堅苦しいであるべきではなければ、伝統というのも偏見と同等ではない。

 

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