最近はいつも親離れというトピックスを気にしている。周りの知り合いはほとんどみんな、兄弟があるから勝手に行きたいところに行けるというか、親との絆もそれと相対的な重さがオートマチックに折半するみたいになるではないかと、一人っ子がぼくは物心が着いた頃から常にそういうことを繰り返して煩っていた。しかしながらも、最近は偶然にも真逆な話を耳にした。負担になる一人がいればまだマシだけど、二人あるいはそれ以上に悩まれさている人もこのようにたくさんいるんですよとは言うけど、そのときふとひらめいたのは負担とはなんだろう。資本主義における資産総数に比較的に劣る一方か、もし本当にそうであれば明瞭なラインはあるのか、それとも価値の意味を乗り越えて、心理的なプレッシャーを指すことなのか、でもその本日は到底わからないからもうぼんやりとさせられるというは結局人類の宿命であろうか。文章を書くことや、読むことが好きな人間たちは、絶対に色々と考えたりするタイプの人間だと勝手に思うが、ぼく今日もなにも考えないようにして過ごすんだと必死に現実逃避をしようとする月曜日の朝の怠い自分が大嫌いだ。それはまるで矛盾していることだが、仕事だから仕方ないじゃないかと言い聞かせる自分も大嫌いだ。本当の自分がどのぼくなのか、誰か教えてくれないか?ここを出なきゃいけないのに、他人のことを先の考えた結果自分のいるはずのところにいないとは言うけど、焦らないでいいからと考えてしまう自分がいる。


知り合いがとある日系の雑誌社で働いていたからそのアイドルたちに取材していたよとわざわざ大々的に言ったのにその雑誌社の名前も言えないし、熱烈に推していたことをあの人の唯一もらったセンター表題曲のタイトルすら言えないし、表題曲ではないちょっと古めのカップリング曲が出たとき全然反応ないし、毎週あるバラエティ番組を最近全然フォローしていないのに、ずっと六年前にそのアイドルグループが来ていたことを強調していたことも全てにもうんざりしていた。赤の他人なのになんであいつの話聞かされなきゃいけないの。素の自分はおそらく好き嫌い激しい自分だろうか。それは先日チケット取れなかったから仕事場のある同僚の自称友達という人間の話だったが、愚痴だと認識しないでくれ。むしろ明らかにこちらのほうがガチのファンだとパッとわかったからありがたいかもしれない、あとガチのファンはそういうマウントとらないし気にしないから全曲知っていて熱唱していた自分に誇りしかない。しかもそいつ終わったあとにやれやれやっぱ海外のファンはみんなコール知らないねーと言いながら優越感を放っていたから、言わなくてもあえてさっさなくてもすぐわかってしまうタイプに人間だから、なんかごめんなさいね。でも僕は、僕は、考えすぎる。ぼくは、無謀かつ極めて地味な哲学者、プロレタリア、会社員、大人、男だ。


男は怯えてはいけないのか。いつからだろう、ぼくは常になにかに怯えている、仕事の帰り道に地下鉄に揺られているときも、いや、まだ制服を着ていたあの頃もすでにこう言う人間かもしれない。それともなにかを考えてたり、想像していたり、なかなか冷静して集中できない。でも、七月からはダイエット兼その恐怖心を払拭するために成人スイミングクラスへ。近頃にコンサートの事後感想もしようかな。スイミングクラス日記を楽しみにしてください。やはりすらりを書いているときが、いちばん楽しいかも。