出口王仁三郎とはどんな人なのか?(3) | フリーランス宣伝使への道

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(これまでの日記で王仁三郎の経歴を書きましたが、この時はまだ
王仁三郎の名前は本名の上田喜三郎だったのでここから王仁三郎の

事を本名の喜三郎に変えて書いていきます。)

続き

地元亀岡での喜三郎の評判は悪くなり、やむなく
喜三郎は亀岡を離れることになります。
これには松岡仙人の指示もあったようです。

それから北の方へと向かい、その途中で
茶店に寄るのですが、そこで働いていたのが大本教開祖
出口直の三女、福島久です。

久は風変わりな行者のような格好をした喜三郎を見て、
自分の母の書いたお筆先を見せます。
(お筆先とは開祖出口直に艮の金神が憑って書いたもので
 文字さへ読めなかった出口直が神憑りによって書き始め、生涯
 半紙10万枚に及ぶお筆先を残したといわれている)

自分が神界旅行をした時に体験したことと同じような
事が書いてあるのを読んで喜三郎は興味を持ち、
後日、出口直を訪ねる事を約束します。

それから一ヶ月後、出口直と喜三郎初対面となるのですが、
出口直の周辺の人たちの反対と喜三郎が入っていた組織が
稲荷講社という名前だったこともあり直開祖はキツネ系
だと思ったようでこのときの対面は思わしくない結果に終ります。

それからしばらく喜三郎は綾部の近くにある園部という地で
霊学会と組織を作り活動します。
病気治療などをメインに評判を広げていったようです。

しかし、出口直の事が頭から離れない喜三郎は出口直に
親書を送ります。

それを受けて出口直は側近に喜三郎を迎えに行かせます。

この時、出口直の周りにも信者が増えていたのですが、まだ
認可された宗教ではなかったため、綾部に拠点を移した
喜三郎はまず自分の所属する稲荷講社に直とその信者
を所属させることにします。

そして、稲荷講社の傘下組織という名目で直を教主、喜三郎を
会長として「金明会」という組織を立ち上げます。
これが組織としての大本の旗揚げだと言われています。


続く

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