くらしのアナキズム/松村圭一郎 ミシマ社
P.97
現代に生きるぼくらからすれば、国家なき社会や「未開社会」とされる人びとの生活は「貧しい」ようにみえる。でもそれは、あえて蓄積につながる無用な過剰生産を拒否してきたからでもある。そこには「労働を必要の充足に調和させる意志」があり、過剰な労働を強制し、その余剰を一部の者の所有物にする暴力としての国家を拒否しつづける意志があった。それはまさに国家に抗する闘いの歴史だったのだ。
「国家なき社会」が、きわめて民主主義的だったのは皮肉だ。それはけっして文明化していないという意味で「未開社会」だったとはいえない。文明社会がたどりついたと信じてきた民主主義をすでに先どりし、真の意味で実現してきたのだから。
必要なだけ作り、必要なだけ消費し、特定の者だけが余剰を蓄積しない社会、平等・協働・すべての人の幸福を願い、実現しようとする社会には、歪んだ競争や順位付けは不要だ。
本気ですべての人が、自分も含めたすべての人の幸福を考えている社会に争いが起こる筈もない。
それを「未開社会」と呼ぶのなら、究極の未開社会でいいではないか。