箱根と深海魚の旅part19

~FMMでテンション爆上げ3~

 

 

 

 本編の前に我が家のプチネタ。

 

 今日のお題は「ももた夏の装い3」です。

 

 今日は横からの1枚。

 

ちょっとぉ~!!!!

食事中なんですけどぉ

 

 なんか背中に白いものが混ざってきたような気がする。

 

 ももたはまだ6才。

 

 

 

 閑話休題。

 

 旅行2日目、富士モータースポーツミュージアム(FMM)の見学を継続中。

 

「トヨタ自動車」の生みの親

現会長のおじいさんにあたる

 

 あの豊田佐吉さんの長男。

 

 最初は父の会社で働き始めるも、血は争えないと言うべきか自分でも自動織機を開発し、自分の会社を設立するんだが。

 

 欧米に出張・視察に出かけた彼は「これから発展していくのは自動車産業だ」という考えを持つに至る。

 

 1930年頃の話。

 

 当時日本では既に国産車が開発されてはいたものの、商業的な成功を収めていたとは言い難く。

 

 アメリカのフォード社やGM社が日本に進出、横浜や大阪に工場を作っている状態であり、市場はアメリカに席巻されていた。

 

 だが、自動車産業界に打って出ると言うのはものすごく大きな賭け。

 

 まず技術面で大きく大きく出遅れているし、かなりの資本も必要になってくる。

 

 三井、三菱といった大財閥さえ手を出さないというのに、三河地方でブイブイ言わせてるぐらいの自分たちにどうにか出来るような分野なのか。

 

 …なんていうような後ろ向きなことはたぶん彼は考えなかったんだろう。

 

 思いついたら即行動。

 

 「道楽」と称して倉庫の一角を板塀で囲み、その中でエンジンの組立やら外国車の分解やらに精を出し始める。

 

 これがのちに「自動車製作部門」という名で会社の新事業として正式に認められることになり、1937年にはついに独立してトヨタ自動車工業株式会社になった。

 

トヨペット・レーサー

残念ながらこれはレプリカ

 

これが製作の様子

垂直尾翼みたいなのが特徴的

 

 豊田喜一郎さんがかかわった唯一のレーシングカーだそうだ。

 

 ベース車はトヨペットSD型。

 

 995㏄の小型車だ。

 

 これをもって、オートレースに参戦してやろうと目論んでいたらしい。

 

 だが残念。

 

 主に深刻な不況のせいだと思うのだが、トヨペット・レーサーは2台が試作されたのみで、プロジェクトはとん挫してしまう。

 

 ときに1951年、喜一郎さんが57歳で早逝される前年のことだ。

 

 このレプリカは2号車のやつで、数少ない写真などのデータをもとにして。

 

 ボディの成型を当時そのままの、ハンマーを使っての板金打ち出しでやったりするなど。

 

 かなり造りにこだわった一品であるらしい。

 

「ダットサン・富士号」

1958年のもっちろん日本製

日産から借り受けての展示

 

 第6回豪州ラリーでクラス優勝。

 

 これはその実車であり、ボディのへこみや傷がなんとも生々しい。

 

 苛酷なレースだったみたいだ。

 

 日本車が国際大会で優勝したのはこれが初。

 

 ちなみに日産が国際大会にチャレンジしたのもこれが初だったらしい。

 

 たいしたもんだ。

 

 16000㎞(なんせオーストラリアは大陸だから)を19日間で完走。

 

 ワーゲン、クライスラー、フォード、プジョー、ローバーなどといった世界的なメーカーの車と渡り合っての栄冠。

 

 なんかうれしい。

 

言わずと知れたホンダの創業者

作業服姿がよく似合う

 

 皆さんご存知だと思うが、本田宗一郎さんはいわゆるエリートではない。

 

 高等小学校卒業後はすぐに自動車修理工場に働きに出られている。

 

 そのため、知識・技術の面でおのれの未熟さを感じることもあったのだろう、大学の聴講生になるなどして、独自に勉強されたりもしている。

 

 以前にこのブログで紹介したこともあると思うのだが、本田技研工業の第1号製品は原動機付き自転車だった。

 

 「買い出しに行く妻に楽をさせてあげたい」という思いからの発明だったらしい。

 

 …ということで、出発が2輪だっただけに、ホンダの真骨頂は4輪よりも2輪。

 

 オートバイの販売台数・売上高は世界のトップ。

 

 しかも長期間にわたってず~っと安定してトップ。

 

 比肩出来るのはBMWくらいかな。

 

 アメリカのハーレーなんかは有名ではあっても、スズキ・ヤマハ・カワサキよりもさらに下だ。

 

 それとは別に関係ないことだが。

 

 旅読は、正味な話、ホンダの現在までの最高傑作はスーパーカブだと信じている。

 

 走りを楽しむ、なんてことを一切せずただただ乗るってだけならスーパーカブに優るものはないと思う。

 

ホンダ・ロードレーサーRC162

1961年のもっちろん日本製

 

 世界ロード選手権に参戦するためにホンダが開発したバイク。

 

 125㏄と250㏄のクラスに出ているがこの写真のは250㏄。

 

 全11回の大会のうち、なんと出場した10回の大会すべてに優勝する。

 

 有名なマン島TTレースでは1位から5位までを独占。

 

 これによってもちろんメーカーとしての年間タイトルをゆうゆう獲得。

 

 写真のバイクはライダー個人のタイトルを勝ち取ったバイクの実車。

 

 なんとも誇らしい。

 

 ただ…。

 

 こうやって日本車が勝ちまくっちゃったりなんかすると。

 

 な~んかよぉ分からんけども、レギュレーションなんかが微妙に変えられてしまったりなんかするんよなぁ。

 

 まあバイクに限らず、国際的に競うあらゆる競技において言えることなんだが。

 

ダイハツP-5

1968年のもっちろん日本製

 

 同年の日本GPのクラス優勝車。

 

 今でこそダイハツと言えばちょっとカワイイ系のやつが多い、軽乗用車を主に作ってるメーカーさんなんだが。

 

 半世紀前にはこういったレーシングカーを独自に作り出すようなところだったらしい。

 

 とは言ってもこいつも1300㏄なんで、レーシングカーとしては小排気量車ってことになるんだろう。

 

 そう思って見ると、かわいさのある恰好をしてるような気がして来る。

 

ニッサン・R381

1968年のもっちろん日本製

 

 同年の日本GPを独走で優勝。

 

 写真の車だ。

 

 5500㏄の排気量、エンジンはシボレー製のものを改良。

 

 黄色いリアウイングは、左右別々に自動でパタパタ動くようになっている。

 

 つまり。

 

 コーナーで、車がアウト側にロールしたりなんかしたらイン側のウイングが自動的に立ち上がるようになっているわけ。

 

 まるでコーナーのところで羽ばたいてるように見えるため、「怪鳥」というあだ名が付けられたらしい。

 

 ただその年の途中でなぜか「可変ウイング禁止」というルールに変わり、その後1回はウイングを取り払って出場したものの結果は惨敗に終わったため、R381はその時点でお役御免となったようだ。

 

 まさか…妙な力が働いてのルール変更じゃないよな。

 

 

 

 今日はここまで。

 

 次回のうPは旅日記の続きです。

 

 FMM編、長くなってますがあと一回お付き合いくださいませませ。

 

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