箱根と深海魚の旅part6
~リアル忍者館行ってみた3~
本編の前に我が家のプチネタ。
今日のお題は「ももた、撮影とその報酬2」です。
無事モデルさんのお仕事が終わり。
その報酬であるおやつを目の前にしているももた。
舌がちょろっとのぞいてます
必死ですっ!!!!
「は、は、早くちょ~だいっ」
目がらんらんと輝いておりますっ。
閑話休題。
旅行1日目、滋賀県甲賀市の甲賀流リアル忍者館見学の続きだ。
いわゆる「忍者」という呼び名は昭和30年代以降のことになるらしい。
それまでは「忍び」という呼び名が一般的であり、そのほかの呼び方としては「乱波(らっぱ)」「素波(すっぱ=スッパ抜くという語源にもなってる)」「草(くさ)」などなどがあった。
文献に出て来る「忍び」の最初の登場は室町時代のことになるようだ。
だがもちろん、室町以前にも「忍び」とおんなじような役目を果たしていた者は存在してはいたんだろうが。
それ専門のプロ集団として組織され、目立った(というか到底隠してはおけないぐらいの)活躍をしだしたのが室町時代ってことだったのかもしれない。
まあ何せ秘密の諜報組織なんだから、当然あとあとまでかたちに残るような史料はごくわずかであって、もともとその実態はつかみにくいわけで。
加えて小説等のメデイアによって、実際の忍者像からはかけ離れた、摩訶不思議な力を駆使する超人集団のイメージばかりが海外を中心にすっかり広まってしまい。
日本人であっても「忍者ってのはフィクションだ」とその存在を疑問視する人たちもいるらしい。
関係ないけど海外映画とかじゃ、ほとんど図式的に正義の味方VS悪の忍者集団てことになってるもんなぁ。
忍者がかわいそ過ぎる!!
そんで、数少ない忍者についての史料の中で、一番ポピュラーだと思われるものがこれ。
「萬川集海(ばんせんしゅうかい)」
三大忍術伝書のひとつ
(写真のものは当然複製品)
1676年、藤林左武次保武(ふじばやしさむじやすたけ)という人が著した書物。
内容は伊賀・甲賀流忍術総まとめ、といった感じだ。
幕府への仕官のお願いとともに「わしらはこ~んなに優秀なんですぞ」というアピール目的のために書かれたモノらしい。
今まで秘匿して来た内容をバラしてでも職にありつきたいってことは、その当時の甲賀忍者の暮らし向きが結構大変だったってことになるんだろうか。
見ての通りの薄っぺらい冊子ではあるのだが、なんせ全22巻もある大作なんで。
担当者が読むのもなかなか大変だったに違いない。
ちなみにだが。
今の時代、いろいろな面できっちり真偽鑑定されてきてると思うんで、たぶん書かれてる内容は忍者の真実(リアル)に近いものではあるだろうと思う。
甲賀忍者の歴史について。
当たり前だが
古いほどに真偽のほどは分からない
最初のやつは。
かの聖徳太子が志能備(しのび)として甲賀の里、馬杉(ますぎ)の住人、大伴細人(おおとものほそひと)を用いた、というものだが。
この記述が載ってるのが江戸期の史料であるうえ、これ以外の史料にはてんで出て来ないってことなんで、どうもこれは嘘くさい。
二番目は役小角が飯道山に本覚寺を開基したというものだが。
一応そういう伝説がありはする、っていうくらいのものだ。
それに…飯道山が忍者たちの修業の場でもあったのはたぶん間違いないことではあるんだが。
忍者たちがこと修験道についてちゃ~んと理解していたのかどうかってのははなはだ疑問なんだよなぁ。
まあ修行の場として用いられたことが確実な室町後期以降なら、年表にのっけるのもおおいに結構だとは思う。
三番目の記述「鈎(まがり)の陣」。
いわゆる長享・延徳の乱というやつで、かなり史実に基づいてることであり。
この一件で「甲賀忍者ここにあり」とおおいに中央にアピールすることになったのは間違いない。
この辺りの守護六角氏を討たんとして、ときの室町幕府将軍足利義尚率いる大軍が押し寄せ、六角氏は居城を捨てて、甲賀の里に逃げ込む。
ここからが甲賀忍者たちの活躍だ。
熟知している山間部の地形を利用し、神出鬼没のゲリラ戦を仕掛けてくる甲賀忍者を相手に。
幕府の大軍はこれといった応手もなく。
いくさは全くの膠着状態に陥ってしまう。
お話の通り甲賀忍者たちがもう少しで足利義尚の寝首をかくところだった、というのはともかくとして。
足掛け三年ものあいだ持ちこたえ、六角氏を守っていたのは疑いのないところだ。
この甲賀忍者たちの活躍により、第一次六角征伐は終わることになる。
地味な話ばかりでスマソ。
次にいろいろな忍具について見ていこう。
ごくありきたりの忍具についてはパスね。
クナイ(苦無)
これは木の葉のようなかたち
もちろん武器としても使えるのだが、どちらかと言えばマルチツール的な道具。
いろいろと便利に使えるので苦労が無い=「苦無」という名前になったんだとか。
壁とかに突き刺しながらよじ登ったり、鍵や門扉のすき間にねじ込んだり、穴を掘ったり。
柄のさきっちょが輪になってるので、そこにヒモなどを通して使用したり。
変わった使い方としては、輪の部分に水滴を垂らしてレンズ代わりにするとか、平べったい部分なんかフライパン代わりにも使えるらしいんだが。
それはまあ、もうちょっとヘラみたいな形状のクナイでの話かもしれん。
鉤縄(かぎなわ)
これもまあよく見かけるな
フックの部分を高所や狙いの人物などに引っかけて使う。
これで壁などをよじ登ったり、谷間を渡ったり、逃げる相手を捕縛したりするわけですな。
人間ならだれでもおんなじようなことを考えつくらしく。
世界中に似たような道具が存在しているらしい。
英語ではグラップリング・フックなんて呼ぶ。
容疑者等を捕まえるとき用の鉤縄には、ヒモの部分が容易に切断されたりすることのないように、補強としてワイヤーが入っていたりするそうだ。
撒菱(まきびし)
右は天然のやつね
逃げる途中の道にばらまくことで、追手の勢いを削ごうとすモノだ。
金遁の術のひとつってことでいいのかな。
使用方法について付け加えとくと。
逃げてる最中にまきびしをまくなんてことはやらず。
あらかじめ予想してる逃走経路に前もってまいておく、ってのが正しい使い方らしい。
左は鉄製のまきびし。
ほかに木製のものや陶器で出来たものなどがある。
まあ自然に生えているヒシの実を乾かして作るってのがいっちばん楽かなぁ。
愛媛県の南予の池なんか、いっくらでも生えてるしな。
まあ、左の鉄ビシほどに凶悪なかたちをしていなくっても、わらじや足袋しか履いていない昔の時代には。
敵の足を鈍らせるには十分な効果があっただろうと思う。
五色米(ごしきまい)
まあ現物は残ってないよなぁ
忍者がいろいろな信号、合図、伝言などに用いたモノ。
お米の粒に色をつけたやつだ。
ボーイスカウトが追跡ハイクなどのとき、後続のスカウトのために道しるべとして石や草などでサインを残していくことがあるが。
それをぐ~っと進化複雑化させたようなものだと思えばいいか。
なんせ5色もあるんで、単に「右(左)に行く」とかいったものばかりでなく、簡単な文までも伝達することが出来たらしい。
そのほか色を付ける理由として、合図を見つけやすくすることや鳥や昆虫等に食べられにくくするような意味もあったようだ。
先に書いた甲賀の山中での「鈎の陣」のゲリラ戦なんかでは、この五色米が盛んに使われたんじゃないだろうか。
忍者煙管(キセル)
007のスパイ道具みたいなや~つ
たいていの忍者煙管てのは、中に小刀が仕込んであるやつだ。
座頭市で有名な、中に日本刀が仕込んである杖なんかだとかなりの大きさがあるんで、いかにもいかにもって感じがして怪しさ度がMAXなんだけども。
煙管だと多少はバレにくいかもしれん。
ほかに小刀を仕込んでおくものとしては、扇子だとかかんざしだとかがあったらしい。
ひるがえってこの煙管は。
なんと鉄砲にも使えるっていう変わり種。
たぶん実用には向かなかっただろうと思う。
まず火薬のにおいで気付かれるかもしれないし、火を点けてねらいを定めるっていう動作はどうしても不可欠のものだから。
相手の不意を突くのには不向きだったんじゃないかって気がする。
卍手裏剣(左)と
マロホシ(組立十手)
卍手裏剣については。
@wikiには「四方手裏剣の特殊な形状であり、六方手裏剣と同じく刺すことよりも斬ることを目的としたもの、風魔一族(戦国時代に北条家に仕えた)が愛用したので風魔手裏剣とも呼ばれている」とあり。
本家のwikiには、テレビドラマ「隠密剣士」のプロデューサーが忍者の小道具として発案したもの、とある。
どっちが正しいんだ????
右はマロホシという組み立て式のカラクリ十手。
初めて知ったなぁ。
普通の十手よりも相手の武器を受け止めやすくなっていて、しかも折りたたみ式。
ちょっと萌える。
今までのところ、江戸時代から伝わっている「現物」はひとつだけらしい。
宮本武蔵の父、新免無二斎が発明したという説もあるようだ。
今日はここまで。
リアル忍者館見学のお話はここまでです。
なんせ無料の施設なんでか~な~り満足ぅ。
次回のうPは一回だけの飛び込みでやっちまった課になります。