乙嫁語りに出会う旅part20
~王貞治ミュージアムにgo!2~
本編の前に我が家のプチネタ。
今日のお題は「ももた、夕ご飯前のルーティン2」。
とりあえず落ち着かせるために座ってもらいました。
ももたの期待に満ちた目
視線をそらしませんっ!!
がんばれ!!夕ご飯までにもうあと少しだ。
閑話休題。
旅行2日目、福岡市内。
「王貞治ベースボールミュージアム」を見学中。
ワンちゃんには欠かせない人物
「人生は出会いだ!!」
などというカッコつけたセリフを最初に吐いたのはどこの誰なんだろう??
いくらカッコはよくても、こんな言葉、フィクションのドラマの中でならまだしも、現実世界にはほぼほぼたいして意味のない言葉だ。
図らずも。
ついさっきまで読んでいた「図書館の大魔術師」(©泉光/講談社)の中でセドナがこんなことを言っていた。
「どんな出会いも大切にしなければいけません、この小さな出会いが、のちに世界の運命を変えることになるかもしれないのですから」
うん、そうだろうね、フィクションの世界ではね。
ただ…。
ときには、ほんっとうにときには運命的としか思えないような出会いがあるみたいで。
ワンちゃんと荒川博さんの出会いはまさにそれ、と言うかこれを運命的な出会いと呼ばずして世の中に運命的な出会いなんて存在しようがないってくらいの出会いだったと思う。
…1954年の秋、プロ野球チーム大毎(現ロッテ)に入団して2年目のオフ、荒川さんは隅田川べりに犬の散歩に出かける。
公園では結構うまい草野球チームが試合をやっており、荒川さんはそれを見るともなしに眺めていた。
そこでなんとなく目に留まったのが大柄な左腕投手の男の子。
当時は中二だったワンちゃんだ。
その男の子は左投げではあるんだが、打席に立つときにはなぜか右打ちに変わる。
「見るともなしに」と書きはしたが、結構荒川さんはかなり熱心に眺めていたのに違いない。
荒川さんの記憶では、その試合のワンちゃんの1打席目は3塁ゴロ、2打席目はショートフライだったそうなのだが、このことはワンちゃん自身でさえ覚えていない!!
そして3度目の打席に立とうとしたワンちゃんに荒川さんはついに声をかける。
「ちょっと待って坊や、君はなんで右で打ってるの、本当は左利きなんだろ、次の打席は左で打ってごらん」
見知らぬおじさんからの突然の声掛け。
そこでワンちゃんはどうしたか??
言われた通り左打席に入り、なんと左中間をライナーで破る二塁打を放つ!!
この二塁打についてはワンちゃんもしっかりと記憶しているらしい。
このことがあって以降、ワンちゃんは左で打つようになる。
…結局、荒川さんは試合終了までその場にとどまり、試合後に自分の身分を明かしたうえで、自分の母校である早稲田大学への進学を勧める。
どうやら荒川さんは体格のいいワンちゃんを高校生だと勘違いしていたようだ。
やがて月日は巡り…。
1961年、巨人の1軍打撃コーチに招かれた荒川さんはワンちゃんの打撃開眼に取り組むことになる。
運命…と言うよりほかないと思うのだが。
荒川ノート(無論原本ではない)
指導の様子が子細に書かれている
荒川道場の一室を再現したもの
畳はすぐに擦り切れ、ボロボロに
そして…一本足が生まれる
半ばやけくそ気味ではあったが
ワンちゃんが実際に行った特訓のすごさ、についてはいろんな人が各所に書かれているんでここでは省略。
この時点でのワンちゃんには「スイングの始動が遅く、ピッチャーの球に差し込まれてしまう」という欠点があった。
そこで「ピッチャーが足を上げたらこちらも足を上げて始動を早くしろ」ということで始まったのが一本足打法の練習。
あくまで数ある練習方法のひとつに過ぎなかった。
…だが。
1962年7月1日。
ちょっとした事件が起きる。
試合前別のコーチから「王が打てないから勝てないんだ」と面と向かって言われ。
ムッとした荒川さんは「私は王に三冠王を取らせようと思って指導している、ホームランだけならいつでも打たせてやる」と勢いで返してしまう。
「じゃあそのホームランを打たせろよ」とあおられた荒川さんはその場を飛び出し、ワンちゃんをつかまえるや。
「今日から一本足で打て、三振を恐がるな」と厳命する。
決して成功する確信あっての行動ではなかったろうと思う。
…まあこういうきっかけでもなければ、当時としては奇抜な一本足打法を実際の試合に使ってみようということになかなか踏み切れなかっただろう。
ある意味、荒川さんをたきつけたコーチはグッジョブだったと言える。
その試合、ワンちゃんはホームランを含む3安打4打点の大活躍。
一本足打法の華々しいデビューだったのだが、親会社の読売新聞はじめマスコミがワンちゃんの一本足打法に気付き始めたのはもっとあとになってからで。
ワンちゃんが続けてホームランを量産するようになってから「そう言えば変な打ち方してるな」っていう感じだったらしい。
バッティングの連続写真
かっこいい!!!!
バックスイングのところからはほかの選手のスイングと一緒。
豪快と言うよりはむしろコンパクトな感じさえ受ける。
やっぱりかっこいいのは右足をぐっと上げたところだよな。
あの上げてる右足は、タイミングをとるってのが最大の目的ではあったんだろうけども。
右足を上げておくことで、ピッチャーが「足に当てたらどうしよう」と思って、意識的無意識的に内角低めに投げにくくなるという。
つまり、ウイークポイントである内角低めになるべく投げさせないようにするための意味もあった、ということをどっかで聞いたような気がする。
だが。
もし仮に一本足の真のねらいがそうだったとしても、そう簡単に「じゃあウイークポイント狙いで内角低めに投げてやれ」、ということにはならない。
コントロールをミスってそのウイークポイントから外れ、ちょっとでも甘いコースにボールが行ってしまったら。
それはごっつぁんでしたのホームランボールになってしまうので、結局のところコントロールと度胸に自信のあるやつ、つまりはエース級のピッチャーにしか投げれないってことになるのだ。
石井順一モデルのバット
1962年から引退まで使い続ける
いわゆる圧縮バットの走り。
石井順一さんは早稲田実業の先輩で、のちに早稲田実業の監督も務めた人。もちろんバット職人でもある。
バットの材料として最上とされていたトネリコはこの頃既に品薄の状態であったため、代わりにヤチダモの木を使い。
すぐにささくれ立ち、耐久性が弱かったために樹脂加工をして補うという方法を思い立たれたらしい。
一本足打法を始めた年のシーズン終了間際からワンちゃんはイシイモデルを使い始め、ずっと引退まで使い続けることになった。
「フィーリングがよかった」ってことらしい。
ただ、圧縮バット自体はワンちゃん引退後に使用禁止になってしまったので。
ワンちゃんのイシイモデルについてもあまりいい感情を持っておられない方がいるかもしれない。
実はワンちゃんが使ったことで有名になった圧縮バットは、その後ほかのメーカーでもどんどん作られるようになったのだが。
そのバットはとにかく繰り返し圧縮を行って硬さと反発力を高めようという。
いわゆる「飛ぶバット」だったのだ(ただし科学的にはその因果関係は証明されてはいないそうだ)。
圧縮バットはとにかく禁止、ということでイシイモデルもとばっちりを食っってしまった、ということらしい。
石井さんもかなり残念だったろう。
1976年までのシーズンで
通算ホームランは716本
一本足打法の系譜
いろんな選手がいるが…
駒田徳広とかはいないな、すぐにやめたからかな。
左のメル・オット選手はご存知の方は少ないだろうと思うのでちょっと解説。
なんせ昭和初期に活躍したMLBの選手だから。
一本足打法でホームランを量産し、計511本打っている。
背番号4はサンフランシスコ・ジャイアンツの永久欠番にもなってるそうだ。
NPBの中で好きなのは門田博光選手かな。
魅力は何と言ってもあのフルスイング。
「俺のねらいはあくまでホームラン1本です」と体で公言してるかのような豪快な振りだったなぁ。
その潔さや、よし。
打撃フォームはまあ一本足っちゃあ一本足なんだが、まあちょっと右足を余分に高く上げてるって感じかなぁ。
通算ホームラン数は567本。
…王貞治ミュージアム編、もうちょっとだけ続きます。
今日はここまで。
次回のうpは今日の続きです。