川根本町を旅するpart5
~あいち航空ミュージアム4~
本編の前に我が家のプチネタ。
今日のお題は「ももたにちょこっとイタズラ2」。
というわけで、毛布をかぶせられてるももたです。
このあと、のけてやりました
ちゃんちゃん。
閑話休題。
「あいち航空ミュージアム」についての記事、はや4回目。
そろそろ、いつまでおんなじとこに居座っとるんや、だとか。
いつんなったら川根本町に行くねんタイトル詐欺か、などという声が聞こえてきそうな気がするんだが。
たぶん「あいち航空ミュージアム」については今回までです、たぶん。
三菱重工業のMU-300
以前の記事で模型を紹介した
三菱重工業のMU-2
1963年の登場から未だに現役
ゼロ戦52型(実物大模型)
極めて精巧で実物に近い出来
なんとコックピットものぞける
ここも忠実に再現されている
汎用ヘリEH-101(英伊の共同開発)
この機体は警視庁所属で主に救助活動用
ちゃんと客席がある
乗組員以外30人も乗れちゃう
コックピットはのぞいてみるよね
こういうの、いじくってみたい
空港で働く人たちの紹介
昔はパイロット一択だったけども
最近は管制官もいいなっと
フライトシミュレーター体験
いや、やりたい気持ちはあったんだが
これはちょっと変わった体験出来そう
整備士の仕事も体験出来まぁす
さてさて、ここでの最後のご紹介は…。
戦後初の純国産旅客機YS-11だ。
正式には「ワイエス・ワンワン」と読むらしいんだが、ここはずぅ~っと呼んで来た「わいえす・じゅういち」でいきたい。
2階から見下ろしたところ
旅客機としては中型クラス
機体前方から見たところ
航空自衛隊に所属していた機体だ
1号機は三菱小牧工場で作られ
この名古屋空港で初飛行してるのだ
戦後。
在留米軍によって日本にあるあらゆる飛行機が破壊され、全航空機メーカー・航空会社がつぶされ、航空力学の講義が大学から排除されてしまう。
完全に世界から遅れをとらされた日本が、国産民間機の計画を立ち上げたのが1956年のこと。
「日本の空に再び国産の飛行機を飛ばしたい」というたくさんの人たちの思いがようやっとのことで動き出す。
ぶっちゃけたコンセプトは、低コストで、離着陸のための滑走距離は短く、そこそこの人数が運べ、維持管理もしやすい、というもの。
協力したのは主要な航空機メーカーすべてと住友金属・島津製作所・NEC・東芝・三菱電機などなど。
大大大プロジェクトだ。
技術者・設計者として集められたのは。
〇堀越二郎:三菱重工業、ゼロ戦の設計者
〇太田稔:富士重工業、名機「隼」の設計者
〇菊原静男:新明和工業で「紫電改」を設計
〇土井武夫:川崎重工業で「飛燕」等を設計
〇木村秀政:日大教授、航研機の設計者
の、人呼んで「五人のサムライ」。
当時の日本ではもうこれ以上はないと思われる最強のメンバーだったものの。
実際に取り組んでみると、航空業界における日本の立ち遅れは生半可なものではなく、このメンバーをしてかなりの苦労を強いられたらしい。
それらのエピソードの詳細なんかは「プロジェクトX」とかを見て下され。
そして設計が出来上がればさっそく製造って話になるのだが。
製造するための工具もなかったりする状態なんで、まずその工具作りから始めなければならなかったりして、ここでも大変な苦労があったようだ。
…こうしてYS-11が完成する。
うん、ドラマだなぁ~。
おじさん、目から汗が。
「翼はよみがえった」
『プロジェクトX』での題名です
五人のサムライの説明
当時既に50代のおっさんばかりだ
こちらは開発の経緯についての話
DC-3は日本には残っていません
い~やぁ~楽しかったです。
完全に入館料の元が取れてると思う。
「あいち航空ミュージアム」さん、ありやとやしたぁ~。
今日はここまで。
次は川根本町に向かって移動していきますんで。
次回のupは今回の続きです。