夏の長野と街歩きの旅part6
~一里塚を探しに行く~
本編の前に我が家のプチネタ。
今日のお題は「ももた、鹿角かみかみ2」。
ひとしきりかぶりついて、最初の興奮がすこ~し収まって来たって感じです。
閑話休題。
長野旅2日目、午前10時。
ビーナスラインの途中から国道142号線に入り、そのまま上田市を目指して行く。
142号線はほぼ旧中山道に沿って走ってる道なので、上田市に向かいつつ、今に残る旧街道の跡だとか宿場町だとかをちょいちょいとつまみ食いしていこうという計画だ。
まずは一里塚。
江戸幕府の指令によって、全国の各街道に設置された、いわばマイルストーン。
名前の通り一里(約4㎞)ごとに設置されている。
具体的には道の両側にこんもりと盛り上げて造られた小山だ。
9m四方ほどの広さの場所に1.7mほど土を盛り上げて造られ、その上にはエノキなどの樹木が植えられ、標識などが建てられていたという。
木が植えられたのは、しっかり根を張らせて塚を崩壊から守ろうという考えだったのだろうが、旅人の為にちょっとした木陰を作ってやろうという思いやりの気持ちも多少は込められていたらしい。
そんな一里塚は、明治以降、道路開発の邪魔になり、そのほとんどが削り取られてしまう。
まあ石碑みたいなもんなら他の場所に移すことも出来るだろうが相手は土の小山だからなぁ。
…んでもって、旅読が向かっているのは「唐沢の一里塚」というところなのだが。
街道の両側にきっちり一対の塚が、ほぼ原型のままでちゃ~んと残っているという超貴重な場所なのだ。
ちなみに一里塚としては中山道の出発点である日本橋から数えて51番目になる。
いきなり現れる標示
ちなみに駐車スペースはありません
中山道をちょっと歩きます
昔の旅人の偉さに頭が下がります
読みたい人は読んで
そしてそして、これが一里塚
たいていの人はふ~んで終わりかな?
旅読は感動出来るんだけれども
辺りには石碑やら古い岩やら
ここに座った旅人もいたろうな
塚の上には大きなエノキがあったが、さすがに江戸時代からのものではなく、のちになって植え替えられたもののようだ。
うん、いいものを見れた気がする。
車に戻って、「一里塚、ちゃんとあったよ」と妻に告げ、写真を見せる。
「え~っ、一里塚って石のやつやないん?」と妻。
たぶんコレ、「〇〇より何里」って文字の彫られた里塚石(一里石)と間違えてる。
一里「塚」なんだからどうしたって土を盛り上げて造ったもんに決まっとるでしょ~が(と頭では思うがそのままを口にすると必然的にけんかになるので言わない)。
ちなみに里塚石というのはこ~んなやつ。
旅読の生息地近辺、松山市の郊外にあるやつです。
「松山札辻より四里」の文字
一番下の字は土に埋もれてます
「松山札辻」ってのは松山城の外側にあった高札場のことです。
…さて、お次は。
そのまま道なりに進んで「和田宿」へ。
中山道六十九次のうち、28番目の宿場になる。
初めに道の駅に寄ってから旧街道筋の方へ向かうことにする。
道の駅「和田宿ステーション」
本格営業はも少し先
和田宿休憩所
駐車スペースはありません
休憩所の奥側に脇本陣がある
黒曜石石器資料館行きたかった
ここが脇本陣です
(見学は出来ません)
昔の旅籠「なが井」の跡
解説はなく見学も出来ないのが残念
古い建物が結構あってうれしい
観光客は…見なかった
本陣入口横です
湧き水がイイ感じ
これが本陣
がっちりとした入口だな
これも本陣の門
ちなみに中が見学できます(有料)
石が乗せてある本陣の板葺き屋根
きっと相当風が強いんだろ~な~
この本陣、1861年に建てられたものだが。
なんとその年の3月に火事で焼失してしまったのを、同じ年の11月までに大あわてで再建したんだそうな。
なぜにそこまで大あわてなのかって言うと…。
11月には皇女和宮様がここにお泊りになることが決まっていたから。
大工さんたち突貫工事ご苦労様。
さぞかし急かされまくったんじゃないだろうか。
今日はここまで。
次回のupも一応これに続ける予定です。
和田宿についてはちょっとだけ補足します。