鳴り止まなかったスマホも

充電が切れたのか何一つ音を立てなくなった



今日が何日なのかも

あれからどれくらいの時間が経ったのかも


何もわからなかった



枕元は空いた酒瓶からこぼれた酒で

シーツも髪も濡れていた


些細な身動きすべてが全身に響いて

痛みと

脳裏を重たく過ぎる断片的な記憶が身も心も砕くには十分すぎた





ベッドから出ようとした瞬間

視界に入ってきたのは腕中にできた内出血の上にハッキリと残ったハーネスの痕



それが視界に入った瞬間

衝動的にベランダに走り出て

柵へ身を乗り出したものの

一瞬戸惑うように柵を握る手に力が入った



目の前に広がる光景は

いつもと変わらない景色



蝉がけたたましい鳴き声をあげて

うだる夏風が頬にじっとりと汗を残しては

手が届きそうなほど入道雲が近くに感じ



夏休みに入ったであろう子供たちが薄着できゃっきゃと戯れる声が耳の奥で反響し続けた



いつもの日常をじっと信じられないような眼差しで見つめていたであろう



次第にベランダから飛び降りる気力は失せ

柵にもたれるようにして座り込んだ




両手首のハーネスの痕がもう一度目に飛び込んで来た時に



私は死んだのだと


あの男の手にかかって



それだけを思った




アパートの前を行き交ういつもの日常を過ごす人たちの誰1人として私に気付く事は無い



この身に起きた事なんて何も

誰も気付く事は無く




誰かにさらして許されるものでも無く



むしろ後ろ指をさされるのは




私だ





その日からその考えが

私の独房になった







それからどう過ごしたかはあまり覚えていない



常にアルコールに頼って

そうやって思考を止める事でしか

今は息をし続けられないという自覚だけはあった



夏休みに入ったアパートは

近隣の学生たちも帰省したのか夜遅く闇が深まれば深まる程静寂に包まれていた


私も他の学生と同様に田舎に帰省する予定だったが


こんな痣だらけの姿を両親に見せる事はとんでもない親不孝になると思って帰省は見送った



自分自身の軽率さを呪って



あの男は完璧にイカれていると

気付いていながら私は








痣が跡形もなく引く事を願って

鏡をマトモに見たのは何週間か過ぎてからだった


食事を受け付けなくなった体は

肋と肩の骨が浮き

肌は荒れ

目元の内出血はまだ引いていなかった



そんな姿を見てすぐ

「お腹すいた」とぼやいた



どんなに痛め付けられても

死にたくても


体は生きようとしていた





外に出るために淡々と化粧をした


いつもドレッサーはメイク用品が乱雑に散らかっていた


それを払いのけて厚塗りに付くカバーマークのコンシーラーを探した



今私に必要なのはコンシーラーと

これからを考える冷静な頭なのに


あの日の記憶が鮮烈な後悔と共に脳裏によみがえってしまう度に

あの男にめちゃくちゃにされるがままになっていた自分への怒りと憎しみばかりが沸き立ち



品性なんて感覚が

かつて自分に備わっていたかわからないほど

あの男をどうにか出来るなら

この怒りと絶望をすべてあの男になすり付けて葬る事が出来るなら



そうやって


頭の中で何度も何度もあの男を殺していくうちに




私は悪魔に魂を売った









静まり返るアパートの部屋の片隅で

その夜も酒を煽り続けた


誰かにあの男にやり返させたいと

その方法をじっと考えながら




短絡的な思考で私の足は繁華街に向かっていた


「東京のゴミ箱」と呼ばれるこの繁華街で面倒事を金で解決してくれる人間を探しに




飲み屋からピンク看板やら

あらゆる欲望の捌け口を煌々とネオンが照らしていて



「ゴミ箱」と呼ばれるこの繁華街が太陽のような明るさを放っている現実に私は薄気味悪さを感じた



「マトモな街ではない」と体感して

酒の勢いがさめて来ているのを感じ



チンピラモドキに自分から話し掛ける前に酒がもっと必要だったのと

目当てとするような連中が居そうな気がして生まれて初めてSMバーに足を踏み入れた



口座から有り金すべてを引き出し鞄に入れ



私の願いを聞き入れてくれる人間なら

どこの誰であろうと有り金すべて渡して



あの男に一矢報いてやると心に決めていたのに




酒の力が無ければ何も出来ない

ただの威勢が良いだけの学生にすぎないと


無力感を纏いながらも

店に入る前にそれを悟られまいと

ポーカーフェイスで表情を固めて店のドアノブを引いた



店のドアを開いた瞬間

笑い声と叫び声

そして音楽と歓声が入り交じった騒々しさが耳を覆った



ステージではショータイムを迎えて全裸に目隠しをされた男が縄で縛り上げられて魚のように全身をくねらせて喘いでいる




そんな刺激的な光景を尻目に

席に案内されると早速私は周囲を見渡したが



見るからに気の強そうなボンテージに身を包んだ店員たちにたじろぐ男性ばかりで

あてが外れたかと苦々しいひと息をついた



とりあえず何杯か引っ掛けて店を出ようと

グラスの中の酒を飲み込んだ


そのうち


そんな私をじっと見ていたであろう1人の女性と目が合った




そして彼女は吸い寄せられるように私の向かいに座り



口元だけ笑顔を作って話し掛けて来た



「あなたいい目をしてるわね、名前は?」





それがエリと出会った瞬間だった





エリは不思議な女性だった


艶やかな漆黒の黒髪に

白い肌は照明に照らされ真珠の照りのように発光しているように見えた


赤い口紅に縁取られた肉感的な唇と

漆黒のアイラインで囲った眼差しは狼のような鋭さをたたえていた



豊満な乳房のハッキリとした深い谷間と

真っ直ぐに伸びた足がスリットから覗く




何もかもが強烈で

圧倒的な存在感を放つ女性



それがエリだった





エリを目の前にした私は

吸い込まれるように


かつてエリの前に跪いたであろう沢山の男たちと同じように


その美貌と狡猾さと知性と大胆さ

そして時折見せる母性に揺るがされ

彼女と言葉を交わす事に夢中になっていた



終電が無くなってしまった事も

あんなに荒ぶった勢いで「助け」を見付けにここへ来た事も忘れてしまっていた



後にも先にもこんなに強烈な「一目惚れ」を経験したのはエリにだけだった



「若い女の子にはこの辺りは危険だから

今夜は私の家にいらっしゃい」


結局店のクローズ時間まで飲んでいた私は

そうエリに誘われ

一緒にエリの迎えの車に乗り込んだ




自分みたいな何も無い人間が

エリと視線を交える事に物凄く引け目を感じていた私は



車の天井がキラキラと星空のように光る様子をただ眺めていたが

エリはお構い無く少し強めに私の顎を掴んでじっと顔を覗き込んできた



「いつもこんなに厚化粧してるの?

ほら、肌荒れしてるじゃない」



マンションに着くなり玄関で靴を脱ぎ捨てると

すぐにエリは私を洗面所に連れて行った




「私のお気に入りのスキンケア使わせてあげるわ

明日化粧品も見に行きましょ?」


部屋の広さや重厚感のあるインテリアが彩る空間に圧倒されて視線をあちこちに向けていると


エリはクレンジングを私の顔に塗り始めた


どうやらスキンケアを教えてくれようとしているようだったが


空間に威圧されていた私は

肝心な痣の事をすっかり忘れてしまっていた



「どうしたのよ、これ」


目元の痣と首元に残ったハーネスのあとが

クレンジングで崩れた化粧の向こうから現れたのを見てエリの目に一瞬戸惑いが見えた



しかし何かを察したように

先程までの動じない眼差しでじっと私を見た



そんなエリとは裏腹に

私は頭の中が真っ白になっていた




人に見せてはいけない


ましてこんなに美しい人に

まがい物でもこの殺伐とした誰も頼れない都会の片隅で親切心を向けてくれたこの人に


自分の醜さを凝縮したようなこんな様を



叫ぶように帰りますと言った私を遮るように

エリが強く両手で私の両頬を掴んで放さなかった



互いにしばらくそのまま硬直しながら

じっと互いの目を見つめた




「誰にやられたの」




エリの声は家に入った時の面倒見の良い声色と違ってどことなく冷たさを感じた




私の両目からはとめどなく

そして複雑に混乱した感情が押し寄せるように

燃えるような痛みと恥辱心

そしてあの日の自分を殺してしまった後悔が波のように


涙を流せば流すほど

火に油を注ぐように私をおかしくした





そんな私を抱きしめる事も

なだめる事もせず



エリは私の顔をぐっと強く掴んで一言だけ言った




「やり返しなさい」







「救われたいと願うなら

あなた自身がやるしかないのよ」




私はこの夜

エリの腕の中で「生まれる」決意をした




そしてエリが産みの痛みと共に

私に垂らした1滴の血によって



私は他の色には染まれない程


濃く深く

エリだけの色に染まった