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 私の注目する健磐龍(たけのいわたつ)の父親の名前が初めて文献上で確認されたのでお知らせしたいと思います、私は平行して『神皇記』の系図情報の資料おこしをしているのですが、これは神皇記の情報がある程度信用出来るものがあると認識したからに他ありません。

 

 私の考えでは「ホツマツタヱ」が人の関係性を一番正しく残している文献だと思っています、その情報はほとんど齟齬が無いと思われますが、残念なのは紛らわしい役職名で書いている事や、建前上の養子に入った後の事を書いていて研究者を悩ませる部分があります。

 

 そんな中で、ちんぷんかんぷんだった神皇記の情報も読めるようになり、他の研究から評価できたので、資料化しているのですが、神皇記の情報は他には無い情報が多く、実は解釈出来ないから放置されているのだと思っています。

 

 私も今の段階でやっと分かるかもと思っていますので、相当難しい事は分かって頂けると思います。

 

 という訳で、健磐龍命とは他の文献にもほとんど登場しない人物ですので、基本的に王権とは距離を置いていたという推測が成り立ちます。

 

 古代は別に王権で働かなくても贅沢な暮らしというものは出来ましたし、権力の中枢にいなければならないものでも無かったので、権力を欲する人たちというのは名誉の為にそうしていたと考えるべきなんだと思います。

 

 健磐龍命もその一人で、熊本県にある五色人祭りの行われる「幣立(へいたて)神宮」の創始者とみられていて有名な人物になります。

↑ 幣立神宮

 私もまだ行った事が無いので感想を述べる事が出来ませんが、高千穂王朝が思いのほか古く、幣立神宮高千穂にあたる地にある事から、ユダヤと高千穂王朝とは関連が強いんじゃないかと疑っています。(ナーガ族の分家にあたると考えられます。)

 

 神皇記に載る「神皇大系図」の中にそれはありました、

 國常立尊尾茂太留尊少名毘古那命久延仁毘古命健磐龍命と書かれています、これが正しいかどうかは別の話なんですが、少なくとも健磐龍命の系図としては「」なわけですから、これを基準に考えないとダメなのは当然のこととなります。

 

 父親の久延仁毘古命は他の文献では「久延毘古(くえびこ)」とされている「案山子(かかし)」と紹介されている人物です、少名彦名が誰か分からなかったので名前を尋ねたのが久延毘古で、久延毘古少名彦名だと答えたわけです。

 



 しかし案山子(かかし)を神格化していると紹介される神様が父親といわれてもピンとこないと思います、私が思うには昔は発明者の名前が発明した「」に名付けられた例があります。

 

(例) 砂糖&サトウキビ ・・・ 「きび」(シャカラ龍王の和名)

 

 だから久延毘古案山子を発明したのだと私なら思うのですが、日本の歴史研究はまだまだその域に達していませんので、言っても「ポカ~ン」とされるのがオチだと思います。

 

 それはさておいて、祖父が少名彦名となっている事が重要です、少名彦名とは天津神王朝における役職名になりますが、出雲王朝では「少名彦」と伝えています、この記録者は天津神王朝の表現を残しているといえます(徐市系なので当然か!)、しかし全部かどうかと言われると「分からない」となりますので、少名彦名の表現においては天津神王朝の表現に依っているとだけお伝えします。

 

 では出雲王朝の役職はというと、「大名持少名彦」で「主王副王」という立場になります、これは初期出雲王朝(鶴と亀)→第二期出雲王朝(大山祇サクラウチ・素戔嗚尊)→第三期王朝(大名持と少名彦)となった第三期の出雲王朝にあたる役職になります。

 

 最初の主王と副王が双子であった為、その子孫が交代で役職に就く為で、副王は場合によっては「事代主(ことしろぬし)、意味:仕行できる(あるじ)」になる事があります。

 

 その副王に相当する役職名が少名彦名なので、系図に出てくる「少名毘古那命」というのは個人名に当たらないのです、しかし他の文献でも少名彦名という名前は主に一人だけを表現するように書かれていて、その初代の少名彦名が突出していた為にその後の少名彦は個人名または事代主などと呼ばれるようになったのかもしれません。

 

 ホツマツタヱには少名彦名を「スクナヒコナ」と伝えヤソキネの子として表現されています。

 恐らくこの人物の事で間違いないんだと思います。

 

 問題はスクナヒコナも謎の人物である点です、山陰には少名彦名を祀る神社が多く、出雲王朝を発展させた人物として尊敬されている様子が如実に残されています、そして医学の神としても知られ、医者でもあったようなんです。

 

 また淡島様という謎の神様がいますが、その一人(淡島は複数の人間が習合していると思われる)が少名彦名のようなんです。

 

 ぶっちゃけ、謎を解こうとしたら、更に謎が増えたようなものです。

 

 神皇記の系図を信じれば「尾母太留尊ヤソキネ」となりますが、これはあり得ると思います、ヤソキネは有名ではありませんが、六代目の高皇産霊尊にあたるので徐市系の重鎮ですので知られていないだけの可能性があります。

 

 トユケ(豊受大神)から龍王の血筋が入っているように思いますので、その時から半分は龍王系となっているんだと思います、だから時代的には紀元前1世紀頃で、伝承では大国主の少名彦名とされていますが、本当は素戔嗚尊(大名持)の少名彦だったんじゃないかと思います。

 

 この素戔嗚尊と少名彦の黄金コンビが出雲王朝をもり立てて実質の大王家にまで持ち上げた為に、アマテルは暴走した可能性もあるのだと思います。

 

 しかし問題は、この系図の情報ではユダヤ系との結びつきが分からない点があります、問題が大きくなるのは健磐龍命の母親が大国主の次女、下照姫とある事です、下照姫というのも役職という考察(下照姫=仕立てる姫)が他にもありましたので、私もその説が正しいと思います、つまり大国主の次女で「仕立てる姫」をしていた娘が母親になる訳です。(有名な下照姫は別にチャントいるので混乱しないで欲しいと思います。)

 

 そうすると大国主の系譜が「」を名乗った事になりますよね、そして大国主はエジプト出身なので、母親がレビ族出身である可能性は高いという事になりますよね。

 

 だから「出雲タケル」も出てくるのかもしれません、私も「タケル、健・建・武・猛」という表現は「武勇に優れた人」に付けられる称号だと思っていますが、それだけでは無く、「ユダヤ系の信仰者の武勇に優れた人」に贈られる称号じゃないかと思うようになっています。

 

 だから「ヤマトタケル」という名を贈られた理由が、ユダヤ系に改宗した事に由来するのかもしれないのです。

 

 まだまだ、謎は続く〜よど〜こまでも~と歌いながら、闇に埋もれた歴史を掘り起こしていきます!

 

 龍海