昨日は、一宮スポーツ文化センターで
NTT尾張支部のOB会があり、私がお世話になった山○さんに
居合の演武を頼まれましたので行ってきました。
あいにくの雨でしたが、何とか竹、その他の演武道具を取りそろえ
会場に到着する事が出来ました。
今回の演武は、ただの演武ではありません。
山○さんは愛知県蟹江町に住んでおりまして、現在は歴史ガイドボランティアで
活躍されている方です。
蟹江町からは、佐野七五三之助(しめのすけ)と言う、
平隊士ですが新撰組に入隊した隊士がおります。
なので、毎年2月にはその佐野七五三之助を主役にした新撰組のパレードを
歴史ガイドボランティアの方が主催してやっているのですが、
我々の戸山流美濃羽会のメンバーも、そのパレードで居合の演武を行っております。
昨日は、そのNTTのOB会で、是非とも余興で新撰組隊士、佐野七五三之助になって、
演武をやってほしいと言うことで、演武をしてきたわけです。
ところで、佐野七五三之助(しめのすけ)って皆さんご存知ですか?
局長の近藤勇、副長の土方歳三、一番隊組長の沖田総司に比べたら
平隊士ですので有名じゃないですが、少し紹介をさせていただきます。
佐野 七五三之助
(さの しめのすけ、天保
7年(1836年
) - 慶応
3年6月14日
(1867年
7月15日
))は、新選組
平隊士で伊東甲子太郎
派の隊士。諱は重之。尾張名古屋藩
出身。内閣総理大臣
加藤高明
は甥(妹の子)にあたる。
尾張国(現在の愛知県)海部郡須成村の神職、寺西伊予守家班の嫡子として生まれる。前名は寺西蔵之丞。嘉永
3年父が55歳で死去した後、尊皇攘夷
を志し、名前を佐野七五三之助と改めて江戸へ出奔。尊王攘夷の機会を得ず、文久
3年(1863年
)頃、横浜の外人居留地警備の役目を担った時、伊東や篠原泰之進
らと出会う。元治
元年(1864年
)10月に新選組に入隊し、四番組に所属。慶応3年3月に伊東ら御陵衛士
が新選組を脱退した際は、密命を受けて新選組に残留。6月10日の新選組幕臣取立てに反対して御陵衛士に参加しようとするが、規定によって断られ茨木司
・富川十郎
・中村五郎
らと共に、会津藩邸内にて切腹した(異説では、新選組
隊士大石鍬次郎
らに惨殺されたとも)。
佐野は、大石が検死にやってきた時に一旦甦り、大石に斬りかかったと言われる(大石に惨殺されたとする説では、佐野は大石に槍
で腹を刺し抜かれたが、必死の抜打ちで、大石に手傷を負わせたと言われている)。これは、一篇の古文書に書かれていたことが拡大したものとされている。
佐野の懐中には、死を覚悟の辞世を秘めていた。辞世の句は「二張の弓引かましと 武士(もののふ)のただ一筋に思ひ切るなり」。慶応四年に発刊された辞世集で上記の内容と異なる辞世であったことが書き残されているものも見つかっている。
遺骸は新選組の手によって光緑寺
に葬られたが、鈴木三樹三郎
らの手によって戒光寺
に改葬された。
(ウィキペディアより抜粋)
剣は北辰一刀流の使い手。
切腹した後も、検死にやってきた大石鍬次郎に蘇生して斬りかかる等恐ろしいまでの執念です(ひぇ~)
その佐野七五三之助に私が昨日は役をやらせていただき、山○さんは近藤局長。
陣ぷれ太鼓、「ああ新撰組」の合唱など行った後、
いよいよ私の演武です。
結果は竹は斬り損じることはなかったですが、
演武をやった後、やっぱりこうすれば良かったかなあ?
と言う反省点はあります。
しかしまあ、大人数の前での演武は緊張するし、調子は狂うし
普段の実力の6割も出せればいい方だと師匠には言われておりましたが
まさにその通りですね。
ですが、無事に演武も終わりましたし、
練習の課題も出来ました。
剣豪になるのも楽じゃないっすね。
今日はこれまで