パリの同時多発テロ事件が恐ろしい | 樹のブログ|実験台モルモット

パリの同時多発テロ事件が恐ろしい

パリでの同時多発テロで亡くなった方々のご冥福を祈ると共に
一刻も早く、パリに平和が戻り「テロの被害地として」ではなく
「芸術の都」として人々の口にのぼるよう、強く願います。


それにしても、今回のテロ、なんというか、ものすごく恐ろしいんですよね。
何がって「居並ぶ無辜の市民を平然と射殺できるほどの憎悪」が恐ろしいんです。

ただの自爆テロとは違います。
もちろん、自爆テロだってする人の気持ちは分かりませんが
それでも、あれはまだなんとなく想像する事ぐらいは出来るんです。

少なくとも、あれは一瞬の事ですし、周囲の人が自分の爆弾で死ぬ所を見ることはありません。
一種の自殺の延長線上にある、と考えれば、多少なりと想像ぐらいはすることは出来ます。
もちろん、その想像が的外れの可能性はあるでしょうが、少なくとも
自分にとってあるていど辻褄の合ったストーリーを当てはめることができます。

しかし、目の前に居る非武装で無関係の市民を憎むべき敵としてみなして
平然と自動小銃を乱射し、冷静に弾丸のリロードまで行い、そして事が済めば自爆する。

これほどの事が出来るというのは、一体どんな心理なのでしょう。
少なくとも日本に住む俺にとっては、想像すら出来ない心境です。


無差別の殺戮、という点では、規模は小さいですが、秋葉原の加藤某の事件と近い物があります。
しかし、彼の場合は受ける印象として、まだ"煮えたぎる憎しみ"のような物が感じられるんですね。

俺自身、心と身体のバランスが取れていなかった思春期に
そこら中の人間にわけもなく嫌悪感を募らせ
「ここで今、コイツら全員ぶっ殺してやりたい」なんて妄想に囚われた事があります。

もちろん、その妄想を行動に移すことは無かったので
今もこうして一応お天道様の下を歩いて居るわけですが
「もしあの時の気持ちが何倍にも積もり積もったら」と想像すると
いわゆる"カッとなった通り魔"というのは、なんとなくですが、想像する事ができます。

何度も言いますが、もちろんこれはその心境が想像できる、というだけで
その想像が当たってるかどうかは分かりません。

言ってみれば、俺がもし小説を書くとして、そういう通り魔を登場させた時に
ある程度自分が納得できる心理描写ができるんじゃないかな、という話です。

しかし、今回のテロの実行犯からは、そういった「カッとなってやった」というような
なんというか"心理的タブーを乗り越えるための爆発"のような物が全く感じられないんですね。

ニュースの文面から見ると、テロ犯の行動は非常に冷静で
まるで熟練のプロフェッショナルが、忠実に職務を遂行するといった雰囲気。

にも関わらず、その行動自体には、怖気をふるうほどの冷たい憎悪のような物が感じられます。
多分、彼らにしてみればそれを行うことは、髪の毛一本ほどの疑いを差し挟む余地も無く
「正しいこと」なんでしょう。


ここまで書いて気付いたんですが、要するに「狂気の沙汰」なんですね。


それほどの狂気が育まれた、という事がまず恐ろしいですし
その狂気が生まれるだけの場所がこの地球上に(何ヶ所も)ある、という事も恐ろしいです。

中東、アフリカ、チェチェンなど、世界の紛争地域と言われる場所はいくらでもあります。
そういった場所で行われている蛮行というのは、ちょっと筆舌に尽くしがたい物があります。
聞くだけでも吐き気がするようなお話ですので詳しくは書きませんが(気になる方は調べてみて下さい)
はっきり言って、この世の地獄です。

そんな所で生まれ育てば、もしかしたら非武装の市民を銃殺する、というテロ行為を
"栄光ある任務"として喜んで遂行するような人間になってもおかしくないのかも知れません。

きっと、彼らの憎しみを解きほぐすことは出来ないでしょう。

よく「憎しみは何も生まない」なんて言いますが
きっと、彼らはもう何かを生むつもりなんて無いのでしょう。
ただただ、自分が失った物を他人が持っている
という不公平感が許せないだけなのかもしれません。

彼らの狂気は、15年前にアメリカで芽吹き
そして、今度はパリで発現しました。

もちろん、その合間でもスペインのマドリード列車爆破テロやロンドンの同時爆破テロなど
途切れる事なく、狂気の沙汰は起き続けています。

いつから「戦場」というのはこうも容易く我々の日常を侵食するようになったのでしょう?
そして、その侵食が日本を襲う日がいつか来るのでしょうか?

ここ10年ほどの間、なんだか世界がどんどん薄気味悪い方向へ進んでいるような気がしてなりません。
今回のテロを受け、ますますおかしな事にならないことを願うばかりです。