4月2日、朝7時前、神魂神社の参道は7分咲き。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨年のような満開を願って、狙ってもいたけど、

願いが叶うということは、

知らないだけで、

願いの想像を上回る嬉しい出来事や出会いの機会が、

奪われている、ということかもしれない。

 

 

 

目論見が外れても、残念に思うことなく、

あるものを素直に感じて、見留めて、

感謝するようになれればいいな、と思う。

 


 

 

 

 

 

願っているときは顕れずに、

心が空のときに、

不意に顕れていることに気付く。

 

 

感謝って、彼方からのメッセージと同じだ。

 


 

熊野大社は、「通勤途中で寄る」のではなく、

参拝が目的でおとずれた、はじめてのお社。

 

今の、参拝の生活の、はじまりのお社。

 

 

お勧めして下さった方は、今は、

どう過ごされているんだろう。

 

この日の御神籤で、

「天地の中にみちたる草木まで 神の姿」ではじまる、

卜部兼邦  兼邦百首歌抄の言葉を授かる。

 

はじめての参拝の日に授かって、

そうあろうとした言葉と同じ御神籤。

 

 

神も仏も、ない。


人の世は理不尽で残酷で愚かで、

人以外の動植物にも悲惨なことだらけの、

この憂き世。

 

もし、神がいるとしても、

神にとっては、人も虫も公平に同じ存在で、

人だけを特別扱いするほど

神は偏ってもいないし、暇ではないだろう。

 

あの日の後、そう思っていた時期もある。

 


「Something Great」として

天変地異に関わったり、

ジャッジをする神が存在するのなら、

そんな存在だと思う。

 

 

私が慕い、敬い、信じる神は、

その神ではなくて、

 

 

自らも、現世で、苦しんだり悲しんだ命。

 

 

あの子は命を失って、そのまま消えて無になるのでもなく、

そのままの気持ちで存在し続けることもなく、

魂の世界では、穏やかに安らかに朗らかに在って、

私たちを見守ってくれていてほしい。

 

 

その不連続な再生は、失った命単独でなせる業ではなく、

人の心を慈しんでくださって、愛情に溢れた存在がなければ、

想像も説明もできない。

 

 

深い悲しみを経験した存在だから、

人の悲しみに寄り添って、

やさしく見守ってくださっている。

 

 

 

同じように大切な存在を失っても、

神さまを敬う方って、

どんな背景、経験、考え方なんだろう。

 

誰とも、深く話したことは、ない。

 

 

 

 

 

 

 

参拝日和のお社だったけど、

上空は安定した強風らしく、

長い飛行機雲が崩れずに、

直線のまま流れていって、

 

 

 

 

 

 

 

快晴の青空に、

円と線の、見慣れない模様を描いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

毎日、あの子のことが心を占めることに変わりはないし、

心が乱れる時間もあるし、苦しいほど悲しい時間も、ある。

 

こちらで、あの子のことを想って悲しむことは、

あの子の心の悲しみを、少しずつでも引き受けていて、

これまでも、これからも、想って悲しんだ長い積み重ねの先には、

今の、あの子の穏やかで安らかな心がある。

 

だから、悲しみもともに生きていくことは、

しんどくても、不安やおそれもない。

 

 

 

 

 

 

 

「満開だったら、きれいだろうな」って思うことは、

蕾には不本意なのかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

開花前、蕾だけの時期なら、

蕾がきれいだなって感じるのに。

 

 

きれいを感じたり感謝するときには、

比べることなく、

あるもの全てに、あるがままを、

きれいだと思ったり、感謝できればいいのに。

 

 

自然にも人にも、

あるもの全てに、あるがままを、

感謝できればいいのに。

とは、思う。

 

 

 

 

 

 


「ありがとう」が、あの頃の私の心も、今も救ってくれているけど、

この先も、すべてに深く感謝することが、私の命の題なんだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参拝を終えようと鳥居を後にした。

 

 

 

まっすぐの飛行機雲が、角度を変えて、

御本殿の空を飛ぶように美しい弧を描いた。

 

 

 

昨日も、この日の車中でも、

たくさん涙したけど、

とてもたくさん、たくさん、

この、はじまりのお社の神様に、

寄り添っていただいているように思えた。

 

 

再現困難なほどの偶然の重なりは、

彼方からのメッセージだと思っているけれど、

 

同じ御神籤を授かったこと、

この日のこのお社での、このお空のことは、

君や、君を守ってくださっている方々から

授かったことだと思う。

 


 

5年前の4月2日からの時間には、

走馬灯のように過ぎ去った時間もあれば、

いつでも、きっといつまでも「今」のように感じる、

二つの時間軸がある。

 

 

お日さまとともに、寝て、起きて、生活する

肉体の時間軸の中にある、心の時間軸。

 

あの頃は、息をすることすらしんどくて悲しくて、

稀に、心穏やかな日があって、

もう大丈夫と思ったけど、幾度もおちていた。

 

 

今は、息をするように慈しみと愛しみが溢れる日すら、稀にある。

あいたいが、どうしようもなく溢れる日もある。

 

 

ゆっくりと巡る心の時間軸を、肉体を持つ自分ですら持つ。

心だけの存在の魂の時間は、永遠にも一瞬でもありながら、

きっと、つながって、巡っている。

 

 

 

約2年前に知った歌詞とメロディーだけど、

今も、心を表現してくれている歌詞。

 

 

 

 

 

 

最後までお読みくださって、

ありがとうございました。