『空を見上げていると、諸行無常を感じます』

 

 

そう言った、その方の「諸行無常」は、

どんな感情を帯びているんだろう。

 

 

自問からはじまった時間は、

長い呪縛のような偏見を、解(ほど)きつつ、

空への気持ちを気付かせてくれつつある。

 


 

私にとっての「諸行無常を感じる空」は、と自問した。

 

12月30日 山陰では久々の青空

 

一瞬も同じ姿をとどめない、

絹雲がいっぱいに広がる儚い空。

 

 

 

 

 

儚いけれど、悲しい色だけではない。

 

 

 


 

 

数日前の、昼と夜の間の蒼い空に昇る月

 

平家物語で覚えた「諸行無常」は、

その前後の一節で、

伴う感情は、悲しみに覆われていた。

 

 

 

けれど、栄華と等しく、「悲しい終わり」もまた、

諸行無常の理にある。

 

平家物語(山田尚子監督)の最終話より

 

理の先にある世界は、

美しく、愛おしく、慈しい時間でありますようにという祈りが、

この物語を語り継ぐ心と共にあって、自分事になる。

 

 

空を見て”諸行無常”と感じた心は、

悲しみも楽しみも喜びも、様々な感情を包み、

その先にある、彼方への祈りを伴う心だったのかもしれない。

 


 

「空を見て」の、自分の言葉を探してみる。

 

 

この日、絹雲が広がる空は、姿を変えながら、

十数分の間だけ、美しく、儚い彩雲たちを見せてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

悲しみは慈(いつく)しみであり、

また「愛(いとお)しみ」である。

 

悲しみを持たぬ慈愛があろうか。

それ故慈悲ともいう。

仰いで大悲ともいう。

 

古語では「愛し」を「かなし」と読み、

更に「美し」という文字さえ

「かなし」と読んだ。

(柳宗悦『南無阿弥陀仏』)

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

悲しみ、美しみ、愛しみ、慈しみ。

 

たくさんの”かなしみ”たちが

現れて消えて、混ざり移ろう空を、

その先にある、彼方への祈りを、伴いながら、

「空は、かなしいね」と言葉にしてみたら、

案外、しっくりした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「空は、かなしいね」の真意は、

どれだけ正しく伝わるんだろうね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

空は無常で、空を見ておもう感情も無常で、

変わりゆくものなんだろうか。

 

 

 

 

それとも、空とは、変わらないものなんだろうか、と、

最近、ずっと、疑問に思っていた。

 

 

 

神として祀られている方たちは、

生きている時にどう思い、

今は、どんな言葉で表すんだろう。

 

 


 

 

 

 

こんな正解がない疑問に、

長く、自分なりの答えは、でない。

 

 

 

 

 

 

 

 

同じ空はない、は、その通りだけど、

空の本質のようなものは、変わらないものだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

お空から地球を見ている写真、といっても

信じてもらえそうな写真が撮れていました。
 

空は、刻一刻とかわるけれど、

悼み、想いを重ねて届けようとする、

空への祈りは、きっと、今も昔も、

洋の東西を問わず同じで、変わらないように思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

空の遥か遠く、雲の切れ間に

わずかに光る彩雲に気付く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

龍の卵を透かして見ているような雲、

 

 

 

 

 

 

 

小さくても、遠くても、

精緻な美しさがあることを知った。

 

 

 

 

 

 

 

「綺麗を君に届けたい」の真意は、

綺麗を見ている時の、

穏やかで安らかで、少し心が浮立っているココロだったり、

綺麗すぎて、感情を感じられないような時間を君に届けて、

君が、穏やかで安らかにいて、という祈り。

 

そんな時間が、気付きが、たくさん授かってほしい。

 

 

 

 

 

この日も、たくさんのありがとうと、おかげさま。

君と、君たちに。